「 自分の考えを改めるべき場面 」 一覧

『法句経』ダンマパダ - ブッダ 真理の言葉

かの尊師・真人・正しく覚った人に敬礼したてまつる。 【 第1章 ひと組みずつ 】 1 物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその ...

「正法眼蔵」道心(どうしん)

仏道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。 よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人にしられざる ...

「正法眼蔵」生死(しょうじ)

生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどはず。 心は、夾山、定山といはれしふたりの禅師の言葉なり。得道の人の言葉なれば、さだめてむなしくまうけじ。 生死を離れんとおもはん人、 ...

「正法眼蔵」三時業(さんじごう)

第十九祖鳩摩羅多尊者、至中天竺国、有大士、名闍夜多。問曰、我家父母、素信三宝。而甞縈疾瘵、凡所営事、皆不如意。而我鄰家、久為栴陀羅行、而身常勇健、所作和合。彼何幸、而我何辜(第十九祖鳩摩羅多尊者、中天 ...

『典座教訓』18、自然のまま喜びの心で引き受ける

おおよそもろもろのちじちょうしゅ、 凡そ諸の知事頭首、 およびとうしょく、さじさむのじせつ、 及び当職、作事作務の時節、 きしん、ろうしん、だいしんをほじすべ 喜心、老心、大心を保持すべ きものなり。 ...

『典座教訓』15、全て行ずることが仏事

さんぞうきこくよりこのかた、 山僧帰国より以降、 しゃくをけんにんにとどむること 錫を建仁に駐むること いちりょうさんねん。かのてら、 一両三年。彼の寺、 おろかにこのしょくをおけども、 愗かにこの職 ...

『典座教訓』11、よく自分のことを勤める

またかてい16ねん、みずのとひつじ、 又嘉定十六年、癸未、 ごがつのころ、 五月の中、 けいげんのはくりにあり。 慶元の舶裏に在り。 わしせったのついで、 倭使頭説話の次で、 いちろうそうありきたる。 ...

『典座教訓』10、他人のしたことは自分のしたことにならない

さんぞうてんどうにありしとき、 山僧天童に在りし時、 ほんぷのようてんぞしょくにみてりき。 本府の用典座職に充てりき。 よちなみにさいまかんでとうろうをすぎ 予因みに斎罷んで東廊を過ぎ ちょうねんさい ...

『典座教訓』6、よし悪しの隔てなく授かる心

いわゆるたとい いわゆる縦い ふさいこうふさいこうをつくるときも、 莆菜羮を作る時も、 けんおきょうこつのこころをしょうずべ 嫌厭軽忽の心を生ずべ からず。たといづにゅうこうをつくる からず。縦い頭乳 ...

『典座教訓』5、菜っ葉も伽藍も上下なし

にょほうにとうたし、くわにいれて 如法に洮汰し、鍋に納れて ひをたきはんをむす。いにしえにいわく、 火を燒き飯を蒸す。古に云く 「はんをむすくわじゅうをじじゅうとなし 「飯を蒸す鍋頭を自頭となし こめ ...

『正法眼蔵随聞記』70、学人第一の用心は先ず我見を離るべし

また示して云く、学人第一の用心は、先ず我見を離るべし。我見を離るとは、この身を執すべからず。たとひ古人の語話を窮め、常坐鉄石の如くなりと雖も、この身に著して離れざらんは、万劫千生仏祖の道を得べからず。 ...

『正法眼蔵随聞記』85、学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ

示して云く、学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ。ただ仏法のために仏法を学すべきなり。その故実は、我が身心を一物ものこざず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり。その後は一切の是非を管ずる事なく、 ...

『正法眼蔵随聞記』101、大慧禅師の云く

示して云く、大慧禅師の云く、「学道はすべからく人の千万貫銭をおえらんが、一文をも持たざらん時、せめられん時の心の如くすべし。もしこの心あらば、道を得る事やすし。」と云えり。 信心銘に云く、「至道かたき ...

『正法眼蔵随聞記』104、古人の云く百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし

示して云く、古人の云く、「百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし。」と。この心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なお手足をはなちて即ち身心を放下せんが如し。 是れについて重々の事あり。 今の世の人、世をのがれ家 ...

『正法眼蔵随聞記』106、学人各々知るべし

示して云く、学人各々知るべし、人々一の非あり、憍奢是れ第一の非なり。内外の典籍に同じく是れをいましむ。 外典に云く、「貧しくしてへつらわざるはあれども、富みておごらざるはなし。」と云って、なお富を制し ...

『正法眼蔵随聞記』27、祖席に禅話を覚り得る故実

夜話に云く、祖席に禅話を覚り得る故実は、我が本より知り思う心を、次第に知識の言に随って改めて去くなり。 仮令仏と云うは、我が本知ったるようは、相好光明具足し、説法利生の徳ありし釈迦弥陀等を仏と知ったり ...

『正法眼蔵随聞記』38、唐の太宗の時

夜話に云く、唐の太宗の時、魏徴奏して云く、「土民、帝を謗ずる事あり。」 帝の云く、「寡人仁あって人に謗ぜられば愁と為すべからず。仁無くして人に褒められばこれを愁うべし。」と。 俗なお是の如し。僧はもっ ...

『正法眼蔵随聞記』39、学道の人は人情をすつべきなり

夜話に云く、学道の人は人情をすつべきなり。人情を捨つると云うは、仏法に順じ行ずるなり。世人多くは小乗根性なり。善悪を弁じ是非を分ち、是を取り非を捨つるはなお是れ小乗の根性なり。ただ世情を捨つれば仏道に ...

『正法眼蔵随聞記』97、世間の人自ら云く

一日示して云く、世間の人、自ら云く、「某甲師の言を聞くに、我が心にかなわず。」と。 我れ思うに、この言は非なり。その心如何。もし聖教等の道理を心得をし、全てその心に違する、非なりと思うか。もし然らば、 ...

『正法眼蔵随聞記』55、治世の法は上天子より

一日示して云く、治世の法は、上天子より下庶民に至るまで各皆その官に居する者、その業を修す。その人にあらずしてその官をするを乱天の事と云う。政道天意に叶う時、世清み民康すきなり。故に帝は三更の三点におさ ...

『正法眼蔵随聞記』14、俗の帝道の故実を言うに

示して云く、俗の帝道の故実を言うに云く、「虚襟にあらざれば忠言をいれず。」と。言は、己見を存ぜずして、忠臣の言に随って、道理にまかせて帝道を行なうなり。 衲子の学道の故実もまたかくのごとくなるべし。も ...

『正法眼蔵随聞記』17、人その家に生まれ、その道に入らば

一日示して云く、人その家に生まれ、その道に入らば、先ずその家の業を修すべし、知るべきなり。我が道にあらず、自が分にあらざらん事を知り修するは即ち非なり。 今も出家人として、即ち仏家に入り、僧道に入らば ...

『正法眼蔵随聞記』74、学道の人、悟りを得ざる事は

学道の人、悟りを得ざる事は、即ち古見を存ずる故なり。本より誰教えたりとも知らざれども、心と云えば念慮知見なりと思い、草木なりと云えば信ぜず。仏と云えば相好光明あらんずると思うて、瓦礫と説けば耳を驚かす ...

『正法眼蔵随聞記』73、俗人の云く何人か厚衣を欲せざらん

一日示して云く、俗人の云く、「何人か厚衣を欲せざらん、誰人か重味を貪らざらん。然れども、道を存ぜんと思う人は、山に入り水にあき、寒きを忍び餓えをも忍ぶ。先人くるしみ無きにあらず、是れを忍びて道を守れば ...

『正法眼蔵随聞記』75、学人初心の時

一日示して云く、学人初心の時、道心あっても無くても、経論聖教等よくよく見るべく、学ぶべし。 我れ初めてまさに無常によりて聊か道心を発し、あまねく諸方をとぶらい、終に山門を辞して学道を修せしに、建仁寺に ...

『正法眼蔵随聞記』76、愚癡なる人は

また云く、愚癡なる人はその詮なき事を思い云うなり。此につかわるる老尼公、当時いやしげにして有るを恥ずるかにて、ともすれば人に向っては昔上郎にて有りし由を語る。喩えば今の人にさありけりと思われたりとも、 ...

『正法眼蔵随聞記』58、学道の人身心を放下して

示して云く、学道の人、身心を放下して一向に仏法に入るべし。 古人云く、「百尺竿頭上なお一歩を進む。」と。何にも百尺の竿頭に上って足を放たば死ぬべしと思うて、強くとりつく心の有るなり。それを思い切りて一 ...

『正法眼蔵随聞記』69、学道の人自解を執する事なかれ

一日参学の次、示して云く、学道の人、自解を執する事なかれ。たとひ所会ありとも、もしまた決定よからざる事もあらん、また是れよりもよき義もやあらんと思うて、ひろく知識をも訪い、先人の言をも尋ぬべきなり。ま ...

『正法眼蔵随聞記』32、世人多く善事を成す時は

夜話に云く、世人多く善事を成す時は人に知られんと思い、悪事を成す時は人に知られじと思うに依って、この心冥衆の心にかなわざるに依って、所作の善事に感応なく、密に作す所の悪事には罰有るなり。己に依って返り ...

『正法眼蔵随聞記』35、学道の人、世情を捨つべきについて

示して云く、学道の人、世情を捨つべきについて重々の用心あるべし。世を捨て、家を捨て、身を捨て、心を捨つるなり。能々思量すべきなり。 世を遁れて山林に隠居し、我が重代の家を絶やさず、家門親族の事を思うも ...

『正法眼蔵随聞記』44、学道の人、世間の人に智者もの知りと知られては無用なり

夜話に云く、学道の人、世間の人に、智者もの知りと知られては無用なり。 真実求道の人の一人もあらん時は、我が知るところの仏祖の法を説かざる事あるべからず。たとひ我れを殺さんとしたる人なりとも、真実の道を ...

『正法眼蔵随聞記』45、今この国の人は

夜話に云く、今この国の人は、多分あるいは行儀につけ、あるいは言語につけ、善悪是非、世人の見聞識知を思うて、その事をなさば人あしく思いてん、その事は人よしと思いてん、乃至向後までもと執するなり。是れまた ...



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