「 建仁寺-京都府京都市東山区 」 一覧

法堂(はっとう)

  仏教寺院において住持や講義僧が修行僧に仏教経典の講読や説法を行い、指導にあたる主要な建物で、法会、儀式を行うところを法堂といいます。法堂は主に禅宗で使われる言葉で、他宗では講堂と呼ばれま ...

京都府京都市東山区の寺院

寺院情報を宗派別に掲載。住所等を参考にしてご利用ください。 👍2 東福寺 臨済宗東福寺派 京都府京都市東山区本町15-778 👍2 願成寺 臨済宗東福寺派 京都府京都市 ...

林羅山(はやしらざん)

  江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称は又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。羅山とは儒学者としての号で、中国広東 ...

京都の五山 ~五山制度と臨済宗~

1386(至徳3)年、室町幕府三代将軍足利義満によって、最終的な五山が決定され、南禅寺を別格上位とする京都五山と鎌倉五山が決定しました。今回は京都五山を紹介します。合わせて、インドの五山、中国の五山と ...

『典座教訓』15、全て行ずることが仏事

さんぞうきこくよりこのかた、 山僧帰国より以降、 しゃくをけんにんにとどむること 錫を建仁に駐むること いちりょうさんねん。かのてら、 一両三年。彼の寺、 おろかにこのしょくをおけども、 愗かにこの職 ...

『正法眼蔵随聞記』12、道者の用心

示して云く、道者の用心、常の人に殊なる事あり。 故建仁寺の僧正在世の時、寺絶食す。ある時一人の檀那請じて絹一疋施す。僧正悦びて自ら取って懐中して、人にも持たせずして、寺に返って知事に与へて云く、「明旦 ...

『正法眼蔵随聞記』31、世間の男女老少

雑話の次でに云く、世間の男女老少、多く雑談の次で、あるいは交会婬色等の事を談ず。是れを以て心を慰めんとし興言とする事あり。一旦心をも遊戲し、徒然も慰むと云うとも、僧はもっとも禁断すべき事なり。俗なおよ ...

『正法眼蔵随聞記』106、学人各々知るべし

示して云く、学人各々知るべし、人々一の非あり、憍奢是れ第一の非なり。内外の典籍に同じく是れをいましむ。 外典に云く、「貧しくしてへつらわざるはあれども、富みておごらざるはなし。」と云って、なお富を制し ...

『正法眼蔵随聞記』77、三覆して後に云え

示して云く、「三覆して後に云え。」と云う心は、おおよそ物を云わんとする時も、事を行わんとする時も、必ず三覆して後に言い行うべし。先儒多くは三たび思いかえりみるに、三たびながら善ならば云い行なえと云うな ...

『正法眼蔵随聞記』37、故僧正建仁寺におはせし時

示して云く、故僧正建仁寺におはせし時、独りの貧人来って云く、「我が家貧にして絶煙数日におよぶ、夫婦子息両三人餓死しなんとす。慈悲をもて是れを救い給え。」と云う。 その時、房中に都て衣食財物等無りき。思 ...

『正法眼蔵随聞記』61、学道の人は尤も貧なるべし

夜話に云く、学道の人は尤も貧なるべし。世人を見るに、財有る人は先ず嗔恚恥辱の二難定って来るなり。財有れば人是れを奪い取らんと欲う。我れは取られじとする時、嗔恚たちまちに起る。あるいは之れを論じて問注対 ...

『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)

1228年、道元禅師が中国から帰国後直ちに建仁寺にて著された『普勧坐禅儀』には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。 オリジナルは格調高い四六駢儷体の漢文で、坐禅の基本的な仕方から、その本旨 ...

道元禅師の帰国

安貞2(1228)年、28歳の道元禅師は5年におよぶ修行を終え日本に帰国しました。帰国後直ちに建仁寺にて著された『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。格調 ...

栄西禅師(えいさい/ようさいぜんじ)

  栄西とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、日本に臨済宗黄龍派の禅をはじめて伝え、建仁寺を開山した、臨済宗建仁寺派の開祖です。天台密教葉上流の流祖ともされます。また、廃れていた喫茶の習 ...

建仁寺-京都府京都市東山区

・建仁寺 臨済宗建仁寺派 京都府京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町584 建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号 ...

建仁寺派(本山建仁寺(京都))の開派

建仁2(1202)年、南宋に留学して帰国した栄西禅師により始まる。臨済宗(黄龍派の禅)を日本にはじめて伝える。 << 戻る



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