【仏教用語/人物集 索引】

栄西禅師(えいさい/ようさいぜんじ)

投稿日:1215年7月5日 更新日:

 
栄西とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、日本に臨済宗黄龍派の禅をはじめて伝え、建仁寺を開山した、臨済宗建仁寺派の開祖です。天台密教葉上流の流祖ともされます。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られます。

字が明菴、諱が栄西で明庵栄西(みんなん ようさい)、「ようさい」よりも「えいさい」という読み方の方が浸透しているようですが、栄西の主著である「興禅護国論」(こうぜんごこくろん)の解説本中に「ようさい」との振り仮名が付けられていることから、正式にはこちらを使います。

永治元(1141)年4月20日、備中国(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽氏(かやし)の子として誕生しました。11歳で地元安養寺の静心和尚(じょうしんおしょう)に師事し、仁平3(1153)年、13歳で比叡山延暦寺に登り、久寿元(1154)年、得度、天台教学と密教を修学します。

比叡山を下りた後、仁安3(1168)年4月、南宋に留学し、天台山万年寺などを訪れ、9月に帰国し『天台章疎』60巻を将来しました。文治3(1187)年、再び南宋に入り、更にインドへの巡蹟を目指すも許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派の禅を修行し、その法の印可を受け継いで建久2(1191)年に帰国しました。

建久5(1194)年、延暦寺、興福寺の訴えにより朝廷から禅宗停止の宣旨が下されるなど、都での禅の布教は困難を極めたが、建久6(1195)年、日本で初めてとなる禅宗道場として博多の聖福寺(しょうふくじ)を開き、建久9(1198)年「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」を著すなどしました。また、鎌倉に出向き将軍源頼家の庇護のもと正治2(1200)年、北条政子建立の寿福寺住持に請ぜられます。

建仁2(1202)年、源頼家の外護により京都で初めてとなる禅宗寺院の建仁寺を建立します。比叡山などとの衝突をさけるため、創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。建永元(1206)年には、重源の後を受けて東大寺勧進職に就任します。その後、建保3(1215)年7月5日、75歳、建仁寺で示寂。護国院にその塔所があります。

また、「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を著すなどして普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても尊崇されています。

栄西略年表

1141年 1歳 4月20日備中に生まれる
1148年 8歳 出家を志す
1151年 11歳 安養寺・静心和尚に師事
1153年 13歳 秋、比叡山に登る
1154年 14歳 落髪して栄西と称す
1157年 17歳 静心没す。法兄千命に従う
1159年 19歳 比叡山有弁に従い台教を学ぶ
1163年 23歳 比叡山を下る
1167年 27歳 大山寺基好から密乗を受く
1168年 28歳 阿蘇山にて入宋渡海を祈願。4月入宋、9月帰朝。座主明雲に天台章疏を呈す
1169年 29歳 備中に清和寺を建立
1175年 35歳 今津誓願寺創建縁起を起草
1187年 47歳 再入宋・虚庵懐敞に参ず
1191年 51歳 虚庵懐敞から印可 7月平戸葦浦に帰着
1192年 52歳 筑前香椎に建久報恩寺建立、初めて布薩式を行う、上京して禅宗を唱う
1195年 55歳 聖福寺創建 開山となる
1198年 58歳 興禅護国論を撰す
1200年 60歳 鎌倉・寿福寺 住持となる
1202年 62歳 建仁寺創建 開山となる。台・密・禅の三宗併置
1204年 64歳 建仁寺僧堂造営、日本仏法中興願文を草す
1206年 66歳 東大寺勧進職に任ぜられる
1207年 67歳 明慧、師に参請す
1211年 71歳 喫茶養生記を撰す(伝・建仁寺)
1214年 74歳 道元、栄西に相見す
1215年 75歳 7月5日 建仁寺に寂す

生誕 永治元年4月20日(1141年5月27日)

命日 建保3年7月5日(1215年8月1日)

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