【仏教用語/人物集 索引】

『正法眼蔵随聞記』106、学人各々知るべし

投稿日:1235年6月11日 更新日:

示して云く、学人各々知るべし、人々一の非あり、憍奢是れ第一の非なり。内外の典籍に同じく是れをいましむ。

外典に云く、「貧しくしてへつらわざるはあれども、富みておごらざるはなし。」と云って、なお富を制しておごらざる事を思うなり。この事大事なり。よくよく是れを思うべし。

我が身下賤にして人におとらじと思い、人に勝れんと思わば憍慢のはなはだしきものなり。是れはいましめやすし。仮令世間に財宝に豊かに、福力もある人、眷属も囲繞し、人もゆるす、かたわらの人のいやしきが、これを見て卑下する、このかたわらの人の卑下をつつしみて、自躰福力の人、いかようにかかすべき。憍心なけれども、ありのままにふるまえば、傍らの賤しき、これをいたむ。全ての大事なり。是れをよくつつしむを、憍奢をつつしむとは云うなり。我が身富めれば、果報にまかせて、貧賤の見うらやむをはばからざるを憍人と云うなり。

古人の云く、「貧家の前を車に乗って過ぐる事なかれ。」と云えり。然れば、我が身車にのるべくとも、貧人の前をば憚るべしと云えり。外典に是の如し、内典もまた是の如し。

然るに、今の学人僧侶は、知恵法文をもて宝とす。是れを以て憍る事なかれ。我れより劣れる人、先人傍輩の非義をそしり非するは、是れ憍奢のはなはだしきなり。

古人云く、「智者の辺にしてはまくるとも、愚人の辺にして勝つべからず。」と。

我が身よく知りたる事を、人のあしく知りたりとも、他の非を云うはまた是れ我が非なり。法文を云うとも、先人の愚をそ知らず、また愚癡、未発心のうらやみ卑下しつべき所にては、よくよく是れを思うべし。

建仁寺に寓せし時、人々多く法文を問いき。非も咎も有りしかども、この儀を深く存じて、ただありのままに法の徳を語りて、他の非を云わず、無為にてやみき。愚者の執見深きは、我が先徳の非を云えば、嗔恚をおこすなり。智恵ある人の真実なるは、法のまことの義をだにも心得つれば、云わずとも、我が非及び我が先徳の非を思い知り、あらたむるなり。是のごとき事、よくよく思い知るべし。

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『正法眼蔵随聞記』

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