【仏教用語/人物集 索引】

『正法眼蔵随聞記』66、学道の人は先ずすべからく貧なるべし

投稿日:1235年6月11日 更新日:

一日僧来って学道之用心を問う次に示して云く、学道の人は先ずすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う。在家学道の者、なお財宝にまとわり、居所を貪り、眷属に交われば、たとひその志ありと云えども障道の縁多し。古来俗人の参ずる多けれども、その中によしと云えども、なお僧には及ばず。僧は三衣一鉢の外は財宝を持たず、居所を思わず、衣食を貪らざる間、一向に学道す。是れは分々皆得益有るなり。その故は、貧なるが道に親しきなり。

龐公は俗人なれども僧におとらず禅席に名を留めたるは、かの人参禅のはじめ、家の財宝を以ちて出でて海に沈めんとす。人之れを諌めて云く、「人にも与へ、仏事にも用うべし。」
他に対えて云く、「我れ已にあたなりと思うて是れを捨つ。いずくんぞ人に与うべき。財は身心を愁しむるあたなり。」と。ついに海に入れ了りぬ。
而して後、活命の為にはいかきをつくりて売って過ぎけり。俗なれども是のごとく財を捨ててこそ禅人とも云われけれ。何に況んや一向に僧はすつべきなり。

僧の云く、唐土には寺院定まり、僧祇物あり、常住物等あって僧の為に行道の資縁の縁となる。そのわずらい無し。この国はその儀なければ、一向棄置せられても、中々行道の違乱とやならん。是のごとく、衣食の資縁を思いあててあらばよしと覚ゆ、如何。

示して云く、然らず。中々唐土よりこの国の人は無理に人を供養じ、非分に人に物を与うる事有るなり。先ず人は知らず、我れはこの事を行じて道理を得たるなり。一切一物も思いあてがふ事もなくて、十年余過ぎ送りぬ。一分も財をたくわえんと思うこそ大事なれ。僅の命を送るほどの事は、何とも思い蓄えねども、天然として有るなり。人皆生分あり。天地之れを授く。我れ走り求めざれども必ず有るなり。況んや仏子は、如来遺属の福分あり。求めざれども自ら得るなり。ただ一向に道を行ぜば是れ天然なるべし。是れ現証なり。

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『正法眼蔵随聞記』

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