【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」三時業(さんじごう)

投稿日:2020年9月24日 更新日:

第十九祖鳩摩羅多尊者、至中天竺国、有大士、名闍夜多。問曰、我家父母、素信三宝。而甞縈疾瘵、凡所営事、皆不如意。而我鄰家、久為栴陀羅行、而身常勇健、所作和合。彼何幸、而我何辜(第十九祖鳩摩羅多尊者、中天竺国に至るに、大士有り、闍夜多と名づく。問うて曰く、我が家の父母、素三宝を信ず。而も甞より疾瘵に縈はれ、凡そ営む所の事、皆な不如意なり。而も我が鄰家、久しく栴陀羅の行を為して、而も身は常に勇健なり、所作和合す。彼れ何の幸かある、而も我れ何の辜かある)。

尊者曰、何足疑乎、且善悪之報有三時焉。凡人但見仁夭、暴寿、逆吉義凶、便謂亡因果虚罪福。殊不知、影響相隨、毫釐靡。縱経百千万劫、亦不磨滅(尊者曰く、何ぞ疑ふに足らんや、且く善悪の報に三時有り。凡そ人、但だ仁は夭に、暴は寿く、逆は吉く義は凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪福虚しと謂へり。殊に知らず、影響相隨ひて、毫釐もふこと靡きを。縱ひ百千万を経とも、亦た磨滅せず)。

時闍夜多、聞是語已、頓釈所疑(時に闍夜多、是の語を聞き已りて、頓に所疑を釈せり)。

鳩摩羅多尊者は、如来より第十九代の附法なり。如来まのあたり名字を記しまします。ただ釈尊一仏祖の法をあきらめ正伝せるのみにあらず、かねて三世の諸仏の法をも曉了せり。

闍夜多尊者、いまの問をまうけしよりのち、鳩摩羅多尊者にしたがひて、如来の正法を修習し、つひに第二十代の祖師となれり。これもまた、世尊はるかに第二十祖は闍夜多なるべしと記しましませり。しかあればすなはち、仏法の批判、もともかくのごとくの祖師の所判のごとく習学すべし。いまのよに因果を知らず、業報をあきらめず、三世を知らず、善悪をわきまへざる邪見のともがらに群すべからず。

いはゆる、善悪之報有三時焉といふは、
三時、
一者順現法受。二者順次生受。三順後次受。
これを三時といふ。仏祖の道を修習するには、その最初より、三時の業報の理をならひあきらむるなり。しかあらざれば、おほくあやまりて邪見に墮するなり。ただ邪見に墮するのみにあらず、悪道におちて長時の苦をうく。
善根せざるあひだは、おほくの功徳をうしなひ、菩提の道ひさしくさはりあり、をしからざらめや。この三時のは、善悪にわたるなり。

第一順現法受業者、謂若業此生造作増長、即於此生受異熟果、是名順現法受業(第一に順現法受業とは、謂く、若しを此生に造作増長して、即ち此生に於て異熟果を受く、是れを順現法受業と名づく)。

いはく、人ありて、あるいは善にもあれ、あるいは悪にもあれ、この生につくりて、すなはちこの生にその報をうくるを、順現報受業といふ。
悪をつくりて、この生にうけたる例。

曽有採樵者、入山遭雪、迷失途路。時会日暮、雪深寒凍、将死不久。即前入一蒙密林中、乃見一羆。先在林内。形色青紺、眼如雙炬。其人惶恐、分当失命。此実菩薩現受羆身。見其憂恐、尋慰諭言、汝今勿怖。父母於子或有異心、吾今於汝終無悪意(曽採樵の者有りて、山に入りて雪に遭ひ、途路を迷失す。時会日暮れなり、雪深く寒凍えて、将に死せんとすること久しからじ。即ち前んで一の蒙密林の中に入るに、乃ち一の羆を見る。先より林の内に在り。形色青紺にして、眼は雙つの炬の如し。其の人惶恐し、当に失命すべきを分とせり。此れは実に菩薩の、羆の身を現受せるなり。其の憂恐するを見て、尋いで慰諭して言く、汝、今怖るること勿れ。父母は子に於て或しは異心有らんも、吾れは今、汝に於て終に悪意無けん)。

即前捧取、将入窟中、温燸其身、令蘇息已、取諸根果、勧隨所食。恐冷不消、抱持而臥。如是恩養経於六日。至第七日天路現。人有帰心。羆即知已、復取甘果而餞之。送至林外慇懃告別(即ち前んで捧取して将て窟の中に入り、其の身を温燸めて、蘇息せしめ已りて、諸の根果を取りて、勧めて所食に隨はしむ。冷にして消せざらしめんことを恐りて、抱持して臥せり。是の如く恩養して六日を経たり。第七日に至つて天れ路現ず。人に帰の心有り。羆即に知り已りて、復た甘果を取つてかしめて之に餞ひせり。送りて林外に至つて慇懃に別れを告ぐ)。

人跪謝曰、何以報(人、跪いて謝して曰く、何を以てか報ぜん)。
羆言、我今不須余報、但如比日我護汝身、汝於我命、亦願如是(羆言く、我れ今余の報を須めず、但だ比日我が汝の身を護りしが如く、汝、我が命に於ても亦た願はくは是の如くすべし)。

其人敬諾、担樵下山、逢二猟師。問曰、山中見何蟲獸(其の人敬諾し、担樵して山を下るに、二の猟師に逢へり。問うて曰く、山中にして何なる蟲獸をか見つる)。
樵人答曰、我亦不見余獸、唯見一羆(我れ亦た余の獸を見ず、唯一の羆を見る)。
猟師求請、能示我不(能く我れに示すべしや不や)。
樵人答曰、若能与三分之二、吾当示汝(若し能く三分の二を与へば、吾れ当に汝に示すべし)。

猟師依許、相与倶行、竟害羆命、分肉為三。樵人両手欲取羆肉、悪業力故、雙臂倶落。如珠縷断、如截藕根。猟師危忙、驚問所以、樵人恥愧、具述委曲(猟師依許し、相与て倶に行き、竟に羆の命を害せり、肉を分ちて三と為す。樵人両手をもて羆の肉を取らんと欲るに、悪業力の故に、雙の臂、倶に落つ。珠の縷を断るが如く、藕の根を截るが如し。猟師危忙し、驚いて所以を問ふ、樵人恥愧ぢて、具さに委曲を述ぶ)。

是二猟師、責樵人曰、他即於汝有此大恩、汝今何忍行斯悪逆。怪哉、汝身何不糜爛(是の二の猟師、樵人を責めて曰く、他、即に汝に於て此の大恩有り、汝、今何ぞ斯の悪逆を行ずるに忍びんや。怪しき哉。汝が身何ぞ糜爛せざる)。

於是猟師、共其肉施僧伽藍(是に於て猟師、共に其の肉を僧伽藍に施す)。
時僧上座、得妙願智、即時入定、観是何肉、即知是与一切衆生作利楽者、大菩薩肉。即時出定、以此事白衆。衆聞驚歎、共取香薪焚焼其肉。收其余骨、起窣堵婆礼拝供養(時に僧の上座、妙願智を得て、即時に入定して、是れ何の肉ぞと観ずるに、即ち、是れ一切衆生の与に利楽を作す者、大菩薩の肉なることを知れり。即時に出定して、此の事を以て衆に白す。衆、聞きて驚歎し、共に香薪を取りて其の肉を焚焼す。其の余骨を收めて、窣堵婆を起てて礼拝供養せり)。
如是悪業、待相続、或度相続、方受其果(是の如きの悪業は、相続を待つて、あるいは相続に度りて、方に其の果を受くべし)。

かくのごとくなるを、悪業の順現報受業となづく。おほよそ恩をえては報を心ざすべし、他に恩しては報をもとむることなかれ。いまも恩ある人を逆害をくはへんとせん、その悪業かならずうくべきなり。衆生ながくいまの樵人の心なかれ。林外にして告別するには、いかがしてこの恩を謝すべきといふといへども、やまのふもとに猟師にあふては二分の肉をむさぼる。貪欲にひかれて大恩所を害す。在家出家、ながくこの不知恩の心なかれ。悪業力のきるところ、両手を断ずること、刀劒のきるよりもはやし。

この生に善をつくりて、順現報受に善報をえたる例。
昔健駄羅国迦膩色迦王、有一黄門、恆監内事。暫出城外、見有群牛、数盈五百、来入城内。問駈牛者、此是何牛(昔、健駄羅国の迦膩色迦王に、一の黄門有りて、恆に内事を監す。暫く城外に出でて、群牛有るを見るに、数五百に盈れり、城内に来入す。駈牛の者に問ふ、此れは是れ何の牛ぞ)。

答言、此牛将去其種(此の牛は将に其の種を去らんとす)。
於是黄門即自思惟、我宿悪業受不男身、今応以財救此牛難。遂償其債悉令得脱。善業力故、令此黄門即復男身。深生慶祝、尋還城内、侍立宮門。附使啓王、請入奉覲。王令喚入、怪問所由。於是黄門、具奏上事。王聞驚喜、厚賜珍財、転授高官、令知外事(是に於て黄門即ち自ら思惟すらく、我れ宿悪業に不男の身を受く、今応に財を以て此の牛の難を救ふべし。遂に其の債を償つて悉く得脱せしめつ。善業力の故に、此の黄門をして即ち男身に復せしめぬ。深く慶祝を生じ、尋いで城内に還つて、宮門に侍立す。使に附して王に啓し、入つて奉覲せんことを請ふ。王、喚び入れしめ、怪しんで所由を問ふ。是に黄門、具に上の事を奏す。王聞きて驚喜して、厚く珍財を賜ひ、転た高官を授けて、外事を知らしめき)。

如是善業、要待相続、或度相続、方受其果(是の如きの善業は、要ず相続を待つて、あるいは相続を度りて、方に其の果を受くべし)。

あきらかにしりぬ、牛畜の身、をしむべきにあらざれども、すくふ人、善果をうく。いはんや恩田をうやまひ、徳田をうやまひ、諸々の善を修せんをや。かくのごとくなるを、善の順現報受業となづく。善によりて悪によりて、かくのごとくのことおほかれど、つくしあぐるにいとまあらず。

第二順次生受業者、謂若業此生造作増長、於第二生受異熟果、是名順次生受業(第二に順次生受業者、謂く、若しを此の生に造作し増長して、第二生に異熟果を受くるを、是れを順次生受業と名づく)。

いはく、もし人ありて、この生に五無間業をつくれる、かならず順次生に地獄におつるなり。順次生とは、この生つぎの生なり。余のつみは、順次生に地獄におつるもあり。また順後次受のひくべきあれば、順次生に地獄におちず、順後業となることもあり。この五無間業は、さだめて順次生受業に地獄におつるなり。順次生、また第二生とも、これをいふなり。

五無間業
一者殺父、二者殺母、三者殺阿羅漢、四者出仏身血、五者破和合僧。
いはく、もし人ありて、この生に五無間業をつくるもの、かならず順次生に地獄に墮するなり。あるいはつぶさに五無間業ともにつくるものあり、いはゆる迦葉波仏のときの華上比丘これなり。あるいは一無間をつくるものあり、いはゆる釈迦牟尼仏のときの阿闍世王なり。そのちちをころす。あるいは三無間業をつくれるものあり、釈迦牟尼仏のときの阿逸多これなり。ちちをころし、ははをころし、阿羅漢をころす。この阿逸多は在家のときつくる、のちに出家をゆるさる。

提婆達多比丘として三無間業をつくれり。いはゆる破僧、出血、殺阿羅漢なり。あるいは提婆達兜といふ。此翻天熟(此に天熟と翻ず)。その破僧といふは、
将五百新学愚蒙比丘、吉伽耶山作五邪法而破法輪翻、身子厭之眠熟、目連縕衆将還。提婆達多眠起発誓、誓報此恩捧縱三十肘、広十五肘石、擲仏。山神以手遮石、小石迸傷仏足、血出(五百の新学愚蒙の比丘を将ゐて吉伽耶山に五邪法を作して法輪僧を破す。身子、之を厭ひて眠熟せしめ、目連、衆を縕げて将に還らしめんとせり。提婆達多、眠より起きて誓を発し、此の恩に報いんと誓ひ、縱三十肘、広十五肘の石を捧げて仏に擲ちつ。山神、手を以て石を遮り、小石迸りて仏の足を傷つけ、血出でぬ)。

もしこの説によらば、破僧さき、出血のちなり。もし余説によらば、破僧、出血の前後、いまだあきらめず。また拳をもて蓮華色比丘尼をうちころす。この比丘尼阿羅漢なり。これを三無間業をつくれりといふなり。

破僧罪につきては、破羯磨僧あり、破法輪僧あり。破羯磨僧は三洲にあるべし、北洲をのぞく。如来在世より、法滅の時にいたるまでこれあり。破法輪僧はただ如来在世のみにあり。余時はただ南洲にあり、三洲になし。この罪、最大なり。この三無間業をつくれるによりて、提婆達多、順次生に阿鼻地獄に墮す。かくのごとく五逆つぶさにつくれるものあり、一逆をつくれるものあり。提婆達多がごときは三逆をつくれり。ともに阿鼻地獄に墮すべし。その一逆をつくれるがごとき、阿鼻地獄一の寿報なるべし。具造五逆のひと、一のなかにつぶさに五報をうくとやせん、また前後にうくとやせん。

先徳曰く、阿含、涅槃同在一劫、火有厚薄(阿含、涅槃に同じく一在り、火に厚薄有り)と。
あるいはいはく、唯在増苦増(唯だ増苦増すこと在り)と。

いま提婆達多、かさねて三逆をつくれり、一逆をつくれる人の罪には三倍すべし。しかあれども、すでに臨命終のときは南無の言をとなへて悪心すこしきまぬかる。うらむらくは具足して南無仏と称ぜざること。阿鼻にしてははるかに釈迦牟尼仏に帰命したてまつる。続善ちかきにあり。なほ阿鼻地獄に四仏の提婆達多あり。

瞿伽離比丘は千釈出家の時、そのなかの一人なり。調達、瞿伽離、二人出城門のとき、二人ののれる馬、たちまちに仆倒し、二人のむまよりおち、冠ぬげておちぬ。ときのみる人、みないはく、この二人は仏法におきて益をうべからず。

この瞿伽離比丘、また倶伽離といふ。此生に舎利弗目犍連を謗ずるに、無根の波羅夷をもてす。世尊みづからねんごろにいさめましますにやまず。梵王くだりていさむるにやまず。二尊を謗ずるによりて、次生に墮すべし。又、いまに続善根の縁にあはず。

四禅比丘、臨命終のとき謗仏せしによりて四禅の中陰かくれて阿鼻地獄に墮せり。かくのごとくなるを順次生受業となづく。
この五無間業を、なにによりて無間業となづく。そのゆゑ五あり。
一者趣果無間。故名無間。捨此身已、次身即受。故名無間(一つには趣果無間なり。故に無間と名づく。此の身を捨し已りて次の身を即ち受く。故に無間と名づく)。

二者受苦無間。故名無間。五逆之罪、生阿鼻獄一劫之中、受苦相続無有楽間。因従果称名無間業(二つには受苦無間なり。故に無間と名づく。五逆の罪、阿鼻獄に生ずる一の中、受苦相続して楽間有ること無し。因つて果に従つて称して無間業と名づく)。

三者時量無間故、名無間。五逆之罪、生阿鼻獄。決定一劫時不断故。故名無間(三つには時量無間の故に無間と名づく。五逆の罪は阿鼻獄に生ず。決定して一時に不断なるが故に。故に無間と名づく)。

四者寿命無間。故名無間。五逆之罪、生阿鼻獄。一劫之中、寿命無絶。因従果称名為無間(四つには寿命無間なり。故に無間と名づく。五逆の罪は阿鼻獄に生ず。一の中、寿命絶ゆること無し。因つて果に従つて名を称じて無間と為す)。

五者身形無間。故名無間。五逆之罪、生阿鼻獄。阿鼻地獄、縱広八万四千由旬、一人入中身亦遍満。一切人入、身亦遍満。不相妨げ。因従果号名曰無間(五つには身形無間なり。故に無間と名づく。五逆の罪は阿鼻獄に生ず。阿鼻地獄は、縱広八万四千由旬なり。一人中に入るも身亦た遍満す。一切人入るも身亦た遍満す。相妨げせず。因つて果に従つて号名て無間と曰ふ)。

第三順後次受業者、謂若業此生造作増長、墮第三生、或墮第四生、或復過此、雖百千劫、受異熟果、是名順後次受業(第三に順後次受業とは、謂く、若しを此生に造作し増長して、第三生に墮し、あるいは第四生に墮し、あるいは復た此れを過ぎて、百千なりと雖も異熟果を受く、是れを順後次受業と名づく)。

いはく、人ありて、この生に、あるいは善にもあれ、あるいは悪にもあれ、造作しをはれりといへども、あるいは第三生、あるいは第四生、乃至百千生のあひだにも、善悪の業を感ずるを、順後次受業となづく。菩薩の三祇功徳、おほく順後次受業なり。かくのごとくの道理しらざるがごときは、行者おほく疑心をいだく。いまの闍夜多尊者の在家のときのごとし。もし鳩摩羅多尊者にあはずは、そのうたがひ、とけがたからん。行者もし思惟それ善なれば、悪すなはち滅す。それ悪思惟すれば、善すみやかに滅するなり。

室羅筏国昔有二人、一恆修善、一常作悪。修善行者、於一身中、恆修善行、未甞作悪。作悪行者、於一身中、常作悪行、未甞修善(室羅筏国に昔二の人有り、一は恆に善を修す、一は常に悪を作る。善行を修する者は、一身の中に、恆に善行を修して、未だ甞て悪を作らず。悪行を作る者は、一身の中に、常に悪行を作りて、未だ甞て善を修せず)。

修善行者、臨命終時、順後次受悪業力故、欻有地獄中有現前、便作是念、我一身中、恆修善行、未甞作悪、応生天趣、何因縁有此中有現前。遂起念言、我定応有順後次受悪業今熟故、此地獄中有現前(善行を修せる者は、臨命終の時に、順後次受の悪業の力の故に、欻に地獄の中有有りて現前するに、便ち是の念を作さく、我れ一身の中に恆に善行を修す、未だ甞て悪を作らず。応に天趣に生ずべきに、何の因縁にてか此の中有有りて現前する。遂に念を起して言く、我れ定んで応に順後次受の悪業有りて今熟すべきが故に、此の地獄の中有、現前す)。

即自憶念一身已来所修善業、深生歓喜。由勝善思現在前故、地獄中有即便隠歿、天趣中有欻爾現前。従此命終、生於天上(即ち自ら一身已来の所修の善業を憶念して、深く歓喜を生ず。勝善思現在前するに由るが故に、地獄の中有即便ち隠歿して、天趣の中有欻爾に現前す。此れより命終して、天上に生ぜり)。

この恆修善行のひと、順後次受のさだめてうくべきが我が身にありけるとおもふのみにあらず、さらにすすみておもはく、一身の修善もまたさだめてのちにうくべし。ふかく歓喜すとはこれなり。この憶念まことなるがゆゑに、地獄の中有すなはちかくれて、天趣の中有たちまちに現前して、いのちをはりて天上にむまる。この人もし悪人ならば、命終のとき、地獄の中有現前せば、おもふべし、われ一身の修善その功徳なし、善悪あらんにはいかでかわれ地獄の中有をみん。このとき因果を撥無し、三宝を毀謗せん。もしかくのごとくならば、すなはち命終し、地獄におつべし。かくのごとくならざるによりて、天上にむまるるなり。この道理、あきらめしるべし。

作悪行者、臨命終時、順後次受善業力故、欻有天趣中有現前、便作是念、我一身中常作悪行、未甞修善、応生地獄、何縁有此中有現前。遂起邪見、撥無善悪及異熟果。邪見力故、天趣中有尋隠歿、地獄中有欻爾現前。従此命終、生於地獄(悪行を作れる者は、臨命終の時、順後次受の善業力の故に、欻ちに天趣の中有有りて現前するに、便ち是の念を作さく、我れ一身の中に常に悪行を作る、未だ甞て善を修せず、応に地獄に生ずべし、何の縁にてか此の中有有りて現前する。遂に邪見を起して、善悪及び異熟果を撥無す。邪見力の故に、天趣の中有尋いでち隠歿し、地獄の中有欻爾に現前す。此れより命終して地獄に生ぜり)。

この人いけるほど、常に悪をつくり、さらに一善を修せざるのみにあらず、命終のとき、天趣の中有の現前せるをみて、順後次受を知らず、われ一生のあひだ悪をつくれりといへども、天趣にむまれんとす。はかりしりぬ、さらに善悪なかりけり。かくのごとく善悪を撥無する邪見力のゆゑに、天趣の中有たちまちに隠歿して、地獄の中有すみやかに現前し、いのちをはりて地獄におつ。これは邪見のゆゑに、天趣の中有かくるるなり。

しかあればすなはち、行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見と、形をつくすまで学習すべし。

まづ因果を撥無し、仏法を毀謗し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。まさにしるべし、今生の我が身、ふたつなしみつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく悪業を感得せん、をしからざらんや。悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。

皓月供奉、問長沙景岑和尚、古徳云、了即業障本来空、未了応須償宿債。只如師子尊者、二祖大師、為什麼得償債去(皓月供奉、長沙の景岑和尚に問ふ、古徳云く、了ずれば即ち業障本来空なり、未だ了ぜずは応に須らく宿債を償ふべし。只師子尊者、二祖大師の如きは、什麼としてか償債を得去るや)。

長沙云、大徳不識本来空(大徳、本来空を識らず)。
彼云、如何是本来空(如何ならんか是れ本来空)。
長沙云、業障是(業障是れなり)。
彼云、如何是業障(如何ならんか是れ業障)。
長沙云、本来空是(本来空是れなり)。
皓月無語。
長沙便示一偈云(長沙便ち一偈を示して云く)、
假有元非有(假の有も元と有に非ず)、
假滅亦非無(假の滅も亦た無に非ず)。
涅槃償債義(涅槃償債の義)、
一性更無殊(一性更に殊なること無し)。

長沙景岑は南泉の願禅師の上足なり。久しく参学のほまれあり。ままに道得是あれども、いまの因縁は渾無理会得なり。ちかくは永嘉の語を会せず、つぎに鳩摩羅多の慈誨をあきらめず。はるかに世尊の所説、ゆめにもいまだみざるがごとし。仏祖の道処全てつたはれずは、たれかなんぢを尊崇せん。

業障とは三障のなかの一障なり。いはゆる三障とは、業障、報障、煩悩障なり。業障とは五無間業をなづく。皓月が問、この心なしといふとも、先来いひきたること、かくのごとし。皓月が問は、業不亡の道理によりて順後業のきたれるにむかふてとふところなり。

長沙のあやまりは、如何是本来空と問するとき、業障是とこたふる、おほきなる僻見なり。業障なにとしてか本来空ならん。つくらずは業障ならじ。つくられば本来空にあらず。つくるはこれつくらぬなり。業障の当躰をうごさかずながら空なりといふは、すでにこれ外道の見なり。業障本来空なりとして放逸に造業せん、衆生さらに解脱の期あるべからず。解脱のひなくは、諸仏の出世あるべからず。諸仏の出世なくは、祖師西来すべからず。祖師西来せずは、南泉あるべからず。南泉なくは、たれかなんぢが参学眼を換却せん。また如何是業障と問するとき、さらに本来空是と答する、ふるくの縛馬答に相似なりといふとも、おもはくはなんぢ未了得の短才をもて久学の供奉に相対するがゆゑに、かくのごとくの狂言を発するなるべし。
のち偈にいはく、涅槃償債義、一性更無殊。

なんぢがいふ一性は什麼性なるぞ。三性のなかにいづれなりとかせん。おもふらくは、なんぢ性を知らず。涅槃償債義とはいかに。なんじがいふ涅槃はいづれの涅槃なりとかせん。声聞の涅槃なりとやせん、支仏の涅槃なりとやせん、諸仏の涅槃なりとやせん。たとひいづれなりとも、償債義にひとしかるべからず。なんぢが道処さらに仏祖の道処にあらず。更買草鞋行脚(更に草鞋を買ひて行脚)すべし。師子尊者、二祖大師等、悪人のために害せられん、なんぞうたがふにたらん。最後身にあらず、無中有の身にあらず、なんぞ順後次受業のうくべきなからん。すでに後報のうくべきが熟するあらば、いまのうたがふところにあらざらん。

あきらかにしりぬ、長沙いまだ三時業をあきらめずといふこと。参学のともがら、この三時業をあきらめんこと、鳩摩羅多尊者のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業なり、廃怠すべからず。

このほか不定業等の八種の業あること、ひろく参学すべし。いまだこれをしらざれば、仏祖の正法つたはるべからず。この三時業の道理あきらめざらんともがら、みだりに人天の導師と称ずることなかれ。

世尊言、
假令経百劫(假令百を経とも)、
所作業不亡(所作の業は亡ぜじ)。
因縁会遇時(因縁会遇せん時)、
果報還自受(果報還つて自ら受く)。
汝等当知、若純黒業得純黒異熟、若純白業得純白異熟、若黒白業得雑異熟。是故、応離純黒及黒白雑業、当勤修学純白之業(汝等当に知るべし、若し純黒業なれば純黒の異熟を得ん、若し純白業なれば純白の異熟を得ん、若し黒白業なれば雑の異熟を得ん。是の故に、応に純黒及び黒白の雑業を離るべし、当に純白の業を勤修学すべし)。
時諸大衆、聞仏説已、歓喜信受(時に諸の大衆、仏説を聞き已りて、歓喜信受しき)。

世尊のしめしましますがごときは、善悪の業つくりをはりぬれば、たとひ百千万をふといふとも不亡なり。もし因縁にあへばかならず感得す。しかあれば、悪業は懺悔すれば滅す。また転重軽受す。善業は隨喜すればいよいよ増長するなり。これを不亡といふなり。その報なきにはあらず。

正法眼蔵三時業第八

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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