また云く、愚癡なる人はその詮なき事を思い云うなり。此につかわるる老尼公、当時いやしげにして有るを恥ずるかにて、ともすれば人に向っては昔上郎にて有りし由を語る。喩えば今の人にさありけりと思われたりとも、何の用とも覚えず。甚だ無用なりと覚ゆるなり。
皆人のおもわくは、この心あるかと覚ゆるなり。道心無きほども知らる。此らの心を改めて、少し人には似べきなり。
またあるいは入道の極めて無道心なる。去り難き知音にてあるに、道心おこらんと仏神に祈誓せよと云わんと思う。定めて彼腹立して中たがう事あらん。然れども道心をおこさざらんには、得意にてもたがいに詮なかるべし。
※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。
『正法眼蔵随聞記』
<< 戻る