【仏教用語/人物集 索引】

『正法眼蔵随聞記』104、古人の云く百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし

投稿日:1235年6月11日 更新日:

示して云く、古人の云く、「百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし。」と。この心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なお手足をはなちて即ち身心を放下せんが如し。
是れについて重々の事あり。

今の世の人、世をのがれ家を出たるに似れども、行履をかんがうれば、なを真の出家にてはなきもあり。いはゆる出家と云うは、先ず吾我名利を離るべきなり。是れを離れずしては、行道頭燃を払い、精進手足をきれども、ただ無理の勤苦のみにて、出離にあらざるもあり。大宋国にも離れ難き恩愛を離れ、捨て難き世財を捨てて、叢林に交わり、祖席をふれども、審細にこの故実を知らずして行じゆくによりて、道をも悟らず、心をも明らめずしていたずらに一期をすぐすもあり。

その故は、人の心のありさま、初めは道心をおこして、僧にもなり知識に随えども、仏とならん事をば思わずして、身の貴く、我が寺の貴き由を施主檀那にも知られ、親類境界にも云い聞かせ、何にもして人に貴がられ、供養ぜられんと思い、あまつさえ僧ども不当不善なれども我れ独り道心もあり、善人なるようを、方便して云い聞かせ、思い知らせんとするようもあり。是れは言うに足らざる人、五闡提等の在世の悪比丘のごとく、決定地獄の心ばえなり。是れを物もしらぬ在家人は、道心者、貴き人、なんど思うもあり。

このきわを少したち出でて、施主檀那をも貪らず、親類恩愛をも捨てはてて、叢林に交わり行道するもあれども、本性懶惰懈怠なる者は、ありのままに懈怠ならん事もはずかしきかして、長老首座等の見る時は相構えて行道する由をして、見ざる時は事に触れて休み、いたずらならんとするもあり。是れは在家にしてさのみ不当ならんよりはよけれども、なお吾我名利のすてられぬ心ばえなり。

また全て師の心をもかねず、首座兄弟の見不見をも思わず、常に思わく、仏道は人の為ならず、身の為なりと云って、我が身心にて仏になさんと真実にいとなむ人もあり。是れは以前の人々よりは真の道者かと覚ゆれども、是れもなお吾我を思って、我が身よくなさんと思える故に、なお吾我を離れず。また諸仏菩薩に随喜せられんと思い、仏果菩提を成就せんと思える故に、名利の心なお捨てられざるなり。

是れまではいまだ百尺の竿頭を離れず、とりつきたる如し。ただ身心を仏法になげ捨てて、さらに悟道得法までも望む事なく修行しゆく、是れを不汚染の行人と云うなり。「有仏の処にもとどまらず、無仏の処をもすみやかにはしりすう。」と云う、この心なるべし。

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『正法眼蔵随聞記』

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