一日示して云く、人その家に生まれ、その道に入らば、先ずその家の業を修すべし、知るべきなり。我が道にあらず、自が分にあらざらん事を知り修するは即ち非なり。
今も出家人として、即ち仏家に入り、僧道に入らば、すべからくその業を習うべし。
その儀を守ると云うは、我執を捨て、知識の教に随うなり。その大意は、貪欲無きなり。貪欲なからんと思わば先ずすべからく吾我を離るべきなり。吾我を離るるには、観無常是れ第一の用心なり。
世人多く、我れは元来人によしと言われ思われんと思うなり。それが即ちよくも成り得ぬなり。ただ我執を次第に捨て、知識の言に随いゆけば昇進するなり。
「理を心得たるように云えども、しかありと云えども、我れはその事が捨て得ぬ。」と云って執し好み修するは、いよいよ沈淪するなり。
禅僧の能く成る第一の用心は、祇管打坐すべきなり。利鈍賢愚を論ぜず、坐禅すれば自然に好くなるなり。
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『正法眼蔵随聞記』
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