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鎌倉の五山 ~五山制度と臨済宗~

インドの五山、中国の五山と、鎌倉五山や京都五山にどのようにつながってきたかをこれまでも別記してきました。五山制度は時の権力者、幕府が寺を格付け管理するための制度であり、権力者が変われば五山も変わるとい ...

京都の五山 ~五山制度と臨済宗~

1386(至徳3)年、室町幕府三代将軍足利義満によって、最終的な五山が決定され、南禅寺を別格上位とする京都五山と鎌倉五山が決定しました。今回は京都五山を紹介します。合わせて、インドの五山、中国の五山と ...

向嶽寺派(本山向嶽寺(山梨塩山))の開派

南朝 : 天授4・北朝 : 永和4(1378)年、抜隊得勝禅師により始まる。臨済宗向嶽寺派(楊岐派の禅)。 << 戻る

高師直(こうのもろなお)

  鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に仕えた武将、官僚、政治家、歌人。正式な名乗りは、高階師直(たかしな の もろなお)。鎌倉幕府有力御家人足利氏執事、建武政権雑訴決断所三番奉行人 ...

虎関師錬(こかんしれん)

  鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての臨済宗の僧。諱は師錬、字は虎関。父は藤原左金吾校尉で、母は源氏。玄恵の兄弟とする説もある。京都の出身。諡号は本覚国師。漢詩・漢文に優れ、五山文学の代表 ...

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

  第96代天皇および南朝初代天皇。諱は尊治。大覚寺統の天皇。 京都で2度の討幕(正中の変、元弘の変)を企てた後醍醐天皇は、正慶元年(1332)鎌倉幕府に隠岐に流されました。 しかし、楠木正 ...

国泰寺派(本山国泰寺(富山高岡))の開派

正安2(1300)年頃、慈雲妙意禅師により始まる。国泰寺派(楊岐派の禅)。 << 戻る

孤雲懐奘(こうんえじょう)

鎌倉時代の禅宗僧侶。京都に生まれる。懐弉とも記述されます。道元禅師に就いて嗣法。弟子には徹通義介、寒巌義尹、寂円がいる。 父は九条為通。幼少の頃より比叡山に上り、18歳で出家し天台宗の学僧になります。 ...

小松原法難

文永元(1264)年11月11日、念仏信仰者の地頭・東条景信(とうじょうかげのぶ)の軍勢に日蓮聖人は襲撃され、弟子一人は討ち取られ、自らも眉に三寸の疵(きず)を負わされました。 << 戻る

道元禅師 永平寺を孤雲懐奘禅師に譲る

建長4(1252)年、夏頃から体調を崩し、建長5(1253)年には永平寺の貫首を弟子の孤雲懐奘禅師(こうんえじょうぜんじ)に譲ります。 << 戻る

「正法眼蔵」虚空(こくう)

這裏是什麼処在のゆゑに、道現成をして仏祖ならしむ。仏祖の道現成、おのれづから嫡々するゆゑに、皮肉骨髓の渾身せる、掛虚空なり。虚空は、二十空等の群にあらず。おほよそ、空ただ二十空のみならんや、八万四千空 ...

「正法眼蔵」古仏心(こぶつしん)

祖宗の嗣法するところ、七仏より曹渓にいたるまで四十祖なり。曹渓より七仏にいたるまで四十仏なり。七仏ともに向上向下の功徳あるがゆゑに、曹渓にいたり七仏にいたる。曹渓に向上向下の功徳あるがゆゑに、七仏より ...

「正法眼蔵」光明(こうみょう)

大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云、 尽十方界、是沙門眼。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界、是沙門家常語。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界、是沙門全身。 (尽十方界、是れ沙門の全身) ...

「正法眼蔵」古鏡(こきょう)

諸仏諸祖の受持し単伝するは古鏡なり。同見同面なり、同像同鑄なり、同参同証す。胡来胡現、十万八千、漢来漢現、一念万年なり。古来古現し、今来今現し、仏来仏現し、祖来祖現するなり。 第十八祖伽耶舎多尊者は、 ...

『典座教訓』8、ことに見合った細かい心配り

このごとくさんらいしさんきょして、 此の如く参来し参去して、 もしせんごうのぎさいあらば、 如し纎毫の疑猜有らば、 たのどうす、 他の堂司、 およびしょりょうのちょうしゅ、 及び諸寮の頭首、 りょうし ...

『典座教訓』4、心を他のことに移さない

じょうこゆうどうのこうし、 上古有道の高士、 おのずからてずからくわしくいたり、 自ら手ずから精しく至り、 これをしゅうすることのごとし。 之を修することこの如し。 こうらいのばんしん、 後来の晩進、 ...

『典座教訓』3、米を洗うことも修行のうち

『ぜんえんしんぎ』にいわく、 『禅苑清規』に云く、 ろくみしょうならず、さんとくたらざ 「六味精ならず、三徳給らざ るは、てんぞのしゅうにぶする るは、典座の衆に奉する しょいにあらず」と。 所以にあ ...

『典座教訓』2、心が整えば味も整う

ゆえにせぞくのじきづしおよび 所以に世俗の食厨子及び せんぷとうにおなじからざるものか。 饌夫等に同じからざる者か。 さんぞうざいそうのとき、かじつ 山僧在宋の時、暇日 ぜんしごんきゅうとうにしもんす ...

『正法眼蔵随聞記』5、古人云く、聞くべし見るべし

一日示して云く、古人云く、「聞くべし、見るべし。」と。また云く、「経ずんば見るべし、見ずんば聞くべし。」と。 言うところは、聞かんよりは見るべし、見んよりは経べし、いまだ経ずんば見るべし。いまだ見ずん ...

『正法眼蔵随聞記』18、広学博覧はかなうべからざる事なり

示して云く、広学博覧はかなうべからざる事なり。一向に思い切って、留まるべし。ただ一事について用心故実をも習い、先達の行履をも尋ねて、一行を専ら励みて、人師先達の気色すまじきなり。 ⇒ 続きを読む ⇒  ...

『正法眼蔵随聞記』41、故僧正云く、衆各用いる所の衣粮等

夜話に云く、故僧正云く、「衆各用いる所の衣粮等の事、予が与えると思う事なかれ。皆是れ諸天の供ずる所なり。我れは取り次ぎ人に当ったるばかりなり。また各一期の命分具足す。奔走する事なかれ。」と常にすすめら ...

『正法眼蔵随聞記』48、古人云く朝に道を聞かば夕に死すとも可なり

夜話に云く、古人云く、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり。」と。今の学道の人、この心あるべきなり。広劫多生の間、幾回か徒らに生じ、徒らに死せし。まれに人界に生まれて、たまたま仏法に逢う時、何にしても死 ...

『正法眼蔵随聞記』92、古人多くは云く光陰虚しく度る事なかれ

示して云く、古人多くは云く、「光陰虚しく度る事なかれ。」と。あるいは云く、「時光、徒らに過ごす事なかれ。」と。 学道の人、すべからく寸陰を惜しむべし。露命消えやすし、時光すみやかに移る。しばらく存ずる ...

『正法眼蔵随聞記』103、古人云く知因識果の知事に属して

示して云く、古人云く、「知因識果の知事に属して、院門の事全て管ぜず。」と。言う心は、寺院の大小の事、すべからく管せず、ただ工夫打坐すべしとなり。 また云く、「良田万頃よりも薄芸身に従うるにはしかず。」 ...

『正法眼蔵随聞記』104、古人の云く百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし

示して云く、古人の云く、「百尺の竿頭にさらに一歩を進むべし。」と。この心は、十丈の竿のさきにのぼりて、なお手足をはなちて即ち身心を放下せんが如し。 是れについて重々の事あり。 今の世の人、世をのがれ家 ...

『正法眼蔵随聞記』37、故僧正建仁寺におはせし時

示して云く、故僧正建仁寺におはせし時、独りの貧人来って云く、「我が家貧にして絶煙数日におよぶ、夫婦子息両三人餓死しなんとす。慈悲をもて是れを救い給え。」と云う。 その時、房中に都て衣食財物等無りき。思 ...

『正法眼蔵随聞記』40、故建仁寺僧正の伝をば

夜話に云く、故建仁寺僧正の伝をば顕兼の中納言入道書いたるなり。その時辞する言に云く、「儒者に書かせらるべきなり。その故は、儒者はもとより身を忘れて、幼きより長るまで学問を本とす。故に書いたるものに誤り ...

『正法眼蔵随聞記』22、故鎌倉の右大将

また物語に云く、故鎌倉の右大将、始め兵衛佐にて有りし時、内府の辺に一日はれの会に出仕の時、一人の不当人在りき。 その時、大納言のおほせて云く、「是れを制すべし。」と。 大将の云く、「六波羅におほせらる ...

『正法眼蔵随聞記』71、古人云く、霧の中を行けば覚えざるに衣しめる

一日示して云く、古人云く、「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。」と。よき人に近づけば、覚えざるによき人となるなり。 昔、倶胝和尚に使えし一人の童子のごときは、いつ学し、いつ修したりとも見へず、覚えざれ ...

興禅護国論

建久9(1198)年、栄西禅師により「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」が著されました。 << 戻る

中国の五山 ~五山制度と臨済宗~

鎌倉時代後期、幕府の実権を握っていた北条氏は、中国の南宋にならい五山制度を導入しました。鎌倉の主な禅寺を五山と呼ぶようになり、鎌倉幕府滅亡後の室町時代初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、それに ...

弘法大師の諡号を賜わる

延喜21(921)年、空海上人は醍醐天皇から弘法大師の諡号(しごう)を賜わる。 東寺と金剛峯寺座主を兼務する観賢は、朝廷に働きかけて空海上人への弘法大師号宣下を実現させました。ですから、空海上人が「弘 ...



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