【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」古鏡(こきょう)

投稿日:1241年9月9日 更新日:

諸仏諸祖の受持し単伝するは古鏡なり。同見同面なり、同像同鑄なり、同参同証す。胡来胡現、十万八千、漢来漢現、一念万年なり。古来古現し、今来今現し、仏来仏現し、祖来祖現するなり。

第十八祖伽耶舎多尊者は、西域の摩提国の人なり。姓は鬱頭藍、父名天蓋、母名方聖。母氏かつて夢見にいはく、ひとりの大神、おほきなるかがみを持してむかへりと。ちなみに懐胎す、七日ありて師をむめり。師、はじめて生ぜるに肌体みがける瑠璃のごとし。いまだかつて洗浴せざるに自然に香潔なり。いとけなくより閑静をこのむ、言語よのつねの童子にことなり。うまれしより一の浄明の円鑑、おのづから同生せり。

円鑑とは円鏡なり、奇代の事なり。同生せりといふは、円鑑も母氏の胎よりむめるにはあらず。師は胎生す、師の出胎する同時に、円鑑きたりて、天真として師のほとりに現前して、ひごろの調度のごとくありしなり。

この円鑑、その儀よの常にあらず。童子むかひきたるには円鑑を両手にささげきたるがごとし、しかあれども童面かくれず。童子さりゆくには円鑑をおほうてさりゆくがごとし、しかあれども童身かくれず。童子睡眠するときは円鑑そのうへにおほふ、たとへば花蓋のごとし。童子端坐のときは円鑑その面前にあり。おほよそ動容進止にあひしたがふなり。しかのみにあらず、古来今の仏事、ことごとくこの円鑑にむかひてみることをう。また天上人間の衆事諸法、みな円鑑にうかみてくもれるところなし。たとへば、経書にむかひて照古照今をうるよりも、この円鑑よりみるはあきらかなり。

しかあるに、童子すでに出家受戒するとき、円鑑これより現前せず。このゆゑに近里遠方、おなじく奇妙なりと讃歎す。まことに此娑婆世界に比類すくなしといふとも、さらに他那裡に親族かくのごとくなる種胤あらんことを莫怪なるべし、遠慮すべし。まさにしるべし、若樹若石に化せる経巻あり、若田若里に流布する知識あり。彼も円鑑なるべし。いまの黄紙朱軸は円鑑なり、たれか師をひとへに希夷なりとおもはん。

あるとき出遊するに、僧伽難提尊者にあうて、直にすすみて難提尊者の前にいたる。尊者とふ、汝が手中なるはまさに何の所表かある。有何所表を問著にあらずとききて参学すべし。

師いはく、諸仏大円鑑、内外無瑕翳、両人同得見、心眼皆相似(諸仏の大円鑑は内外瑕翳なし。両人同じく得見あり、心と眼と皆相似たり)。

しかあれば、諸仏大円鑑、なにとしてか師と同生せる。師の生来は大円鑑の明なり。諸仏はこの円鑑に同参同見なり。諸仏は大円鑑の鑄像なり。大円鑑は、智にあらず理にあらず、性にあらず相にあらず。十聖三賢等の法のなかにも大円鑑の名あれども、いまの諸仏の大円鑑にあらず。諸仏かならずしも智にあらざるがゆゑに諸仏に智慧あり。智慧を諸仏とせるにあらず。

参学しるべし、智を説著するは、いまだ仏道の究竟説にあらざるなり。すでに諸仏大円鑑たとひわれと同生せりと見聞すといふとも、さらに道理あり。いわゆるこの大円鑑、この生に接すべからず、他生に接すべからず。玉鏡にあらず銅鏡にあらず、肉鏡にあらず髓鏡にあらず。円鑑の言偈なるか、童子の説偈なるか。童子この四句の偈をとくことも、かつて人に学習せるにあらず。かつて或従経巻にあらず、かつて或従知識にあらず。円鑑をささげてかくのごとくとくなり。師の幼稚のときより、かがみにむかふを常儀とせるのみなり。生知の弁慧あるがごとし。大円鑑の童子と同生せるか、童子の大円鑑と同生せるか、まさに前後生もあるべし。大円鑑は、すなはち諸仏の功徳なり。

このかがみ、内外にくもりなしといふは、外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず。面背あることなし、両箇おなじく得見あり。心と眼とあひにたり。相似といふは、人の人にあふなり。たとひ内の形像も、心眼あり、同得見あり。たとひ外の形像も、心眼あり、同得見あり。いま現前せる依報正報、ともに内に相似なり、外に相似なり。我にあらず、たれにあらず、これは両人の相見なり、両人の相似なり。彼もわれといふ、われもかれとなる。

心と眼と皆相似といふは、心は心に相似なり、眼は眼に相似なり。相似は心眼なり。たとへば心眼各相似といはんがごとし。いかならんかこれ心の心に相似せる。いはゆる三祖六祖なり。いかならんかこれ眼の眼に相似なる。いはゆる道眼被眼礙(道眼、眼の礙を被る)なり。

いま師道得する宗旨かくのごとし。これはじめて僧伽難提尊者に奉覲する本由なり。この宗旨を挙拈して、大円鑑の仏面祖面を参学すべし、古鏡の眷属なり。

第三十三祖大鑑禅師、かつて黄梅山の法席に功夫せしとき、壁書して祖師に呈する偈にいはく、
菩提本無樹、
明鏡亦非台。
本来無一物、
何処有塵埃。
(菩提もと樹無し、明鏡また台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃有らん。)

しかあれば、この道取を学取すべし。大鑑高祖、よの人これを古仏といふ。
圜悟禅師いはく、稽首曹渓真古仏。

しかあればしるべし、大鑑高祖の明鏡をしめす、本来無一物、何処有塵埃なり。明鏡非台、これ命脈あり、功夫すべし。明々はみな明鏡なり。かるがゆゑに明頭来明頭打といふ。いづれのところにあらざれば、いづれのところなし。いはんやかがみにあらざる一塵の、尽十方界にのこれらんや。かがみにあらざる一塵の、かがみにのこらんや。しるべし、尽界は塵刹にあらざるなり、ゆゑに古鏡面なり。

南嶽大慧禅師の会に、ある僧とふ、
如鏡鑄像、光帰何処(鏡の像の鑄るが如き、光何れの処にか帰す)。

師云、大徳未出家時相貌、向甚麼処去(大徳未出家時の相貌、甚麼の処に向つてか去る)。
僧曰、成後為甚麼不鑑照(成りて後、甚麼としてか鑑照せざる)。
師云、雖不鑑照、瞞他一点也不得(鑑照せずと雖も、他の一点をも瞞ずること、又不得なり)。

いまこの万像は、なにものとあきらめざるに、たづぬれば鏡を鑄成せる証明、すなはち師の道にあり。鏡は金にあらず玉にあらず、明にあらず像にあらずといへども、たちまちに鑄像なる、まことに鏡の究弁なり。

光帰何処は、如鏡鑄像の如鏡鑄像なる道取なり。たとへば、像帰像処(像は像の処に帰す)なり、鑄能鑄鏡(鑄は能く鏡を鑄る)なり。大徳未出家時相貌、向甚麼処去といふは、鏡をささげて照面するなり。このとき、いづれの面々かすなはち自己面ならん。

師いはく、雖不鑑照、瞞他一点也不得といふは、鑑照不得なり、瞞他不得なり。海枯不到露底(海枯れて底を露はすに到らず)を参学すべし、莫打破、莫動著(打破すること莫れ、動著すること莫れ)なり。しかありといへども、さらに参学すべし、拈像鑄鏡(像を拈じて鏡を鑄る)の道理あり。当恁麼時は、百千万の鑑照にて、瞞々点々なり。

雪峰真覚大師、あるとき衆にしめすにいはく、
要会此事、我這裡如一面古鏡相似。胡来胡現、漢来漢現(此の事を会せんと要せば、我這裡、一面の古鏡の如く相似なり。胡来胡現し、漢来漢現す)。

時玄沙出問、忽遇明鏡来時如何(時に玄沙出でて問ふ、忽ちに明鏡来に遇はん時、如何)。
師云、胡漢倶隠(胡漢倶に隠る)。
玄沙曰、某甲即不然(某甲は即ち然らず)。
峰云、儞作麼生。
玄沙曰、請和尚問(請すらくは和尚問ふべし)。
峰云、忽遇明鏡来時如何(忽ち明鏡来に遇はん時如何)。
玄沙曰、百雑碎。

しばらく雪峰道の此事といふは、是什麼事と参学すべし。しばらく雪峰の古鏡をならひみるべし。如一面古鏡の道は、一面とは、辺際ながく断じて、内外さらにあらざるなり。一珠走盤の自己なり。いま胡来胡現は、一隻の赤鬚なり。漢来漢現は、この漢は、混沌よりこのかた、盤古よりのち、三才五才の現成せるといひきたれるに、いま雪峰の道には、古鏡の功徳の漢現せり。いまの漢は漢にあらざるがゆゑに、すなはち漢現なり。いま雪峰道の胡漢倶隠、さらにいふべし、鏡也自隠なるべし。

玄沙道の百雑碎は、道也須是恁麼道(道ふことは須らく是れ恁麼道なるべし)なりとも、比来責儞、還吾碎片来。如何還我明鏡来(比雷儞に責む、吾れに碎片を還し来れと。如何が我れに明鏡を還し来る)なり。

黄帝のとき十二面の鏡あり、家訓にいはく、天授なり。又広成子の崆峒山にして与授せりけるともいふ。その十二面のもちゐる儀は、十二時に時時に一面をもちゐる、又十二月に毎月毎面にもちゐる、十二年に年年面々にもちゐる。いはく、鏡は広成子の経典なり。黄帝に伝授するに、十二時等は鏡なり。これより照古照今するなり。十二時もし鏡にあらずよりは、いかでか照古あらん。十二時もし鏡にあらずは、いかでか照今あらん。いはゆる十二時は十二面なり、十二面は十二鏡なり、古今は十二時の所使なり。この道理を指示するなり。これ俗の道取なりといへども、漢現の十二時中なり。

軒轅黄帝膝行進崆峒、問道乎広成子(軒轅黄帝、膝行して崆峒に進んで、道を広成子に問ふ)。
于時広成子曰、鏡是陰陽本、治身長久。自有三鏡、云天、云地、云人。此鏡無視無聴。抱神以静、形将自正。必静必清、無労汝形、無搖汝精、乃可以長生(時に広成子曰く、鏡は是れ陰陽の本、身を治めて長久なり。自ら三鏡有り、云く天、云く地、云く人。此の鏡、無視なり、無聴なり。神を抱めて以て静に、形、将に自ら正しからんとす。必ず静にし必ず清にし、汝が形を労すること無く、汝が精を搖すことが無くんば、乃ち以て長生すべし)。

むかしはこの三鏡をもちて、天下を治し、大道を治す。この大道にあきらかなるを天地の主とするなり。俗のいはく、太宗は人をかがみとせり。安危理乱、これによりて照悉するといふ。三鏡のひとつをもちゐるなり。人を鏡とするとききては、博覽ならん人に古今を問取せば、聖賢の用舎をしりぬべし、たとへば、魏徴をえしがごとく、房玄齡をえしがごとしとおもふ。これをかくのごとく会取するは、太宗の人を鏡とすると道取する道理にはあらざるなり。

人をかがみとすといふは、鏡を鏡とするなり、自己を鏡とするなり。五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり。人物の去来をみるに、来無迹、去無方を人鏡の道理といふ。賢不肖の万般なる、天象に相似なり。まことに経緯なるべし。人面鏡面、日面月面なり。五嶽の精および四涜の精、世をへて四海をすます、これ鏡の慣習なり。人物をあきらめて経緯をはかるを太宗の道といふなり、博覽人をいふにはあらざるなり。

日本国自神代有三鏡、璽之与劍、而共伝来至今。一枚在伊勢大神宮、一枚在紀伊国日前社、一枚在内裡内侍所(日本国、神代より三鏡有り。璽と劍と、而も共に伝来して今に至る。一枚は伊勢大神宮に在り、一枚は紀伊国日前社に在り、一枚は内裏内侍所に在り)。

しかあればすなはち、国家みな鏡を伝持すること、あきらかなり。鏡をえたるは国をえたるなり。人つたふらくは、この三枚の鏡は、神位とおなじく伝来せり、天神より伝来せりと相伝す。しかあれば、百練の銅も陰陽の化成なり。今来今現、古来古現ならん。これ古今を照臨するは、古鏡なるべし。

雪峰の宗旨は、新羅来新羅現、日本来日本現ともいふべし。天来天現、人来人現ともいふべし。現来をかくのごとくの参学すといふとも、この現いま我らが本末をしれるにあらず、ただ現を相見するのみなり。かならずしも来現をそれ知なり、それ会なりと学すべきにあらざるなり。いまいふ宗旨は、胡来は胡現なりといふか。胡来は一条の胡来にて、胡現は一条の胡現なるべし。現のための来にあらず。古鏡たとひ古鏡なりとも、この参学あるべきなり。

玄沙出てとふ、たちまちに明鏡来にあはんに、いかん。
この道取、たづねあきらむべし。いまいふ明の道得は、幾許なるべきぞ。いはくの道は、その来はかならずしも胡漢にはあらざるを、これは明鏡なり、さらに胡漢と現成すべからずと道取するなり。明鏡来はたとひ明鏡来なりとも、二枚なるべからざるなり。たとひ二枚にあらずといふとも、古鏡はこれ古鏡なり、明鏡はこれ明鏡なり。古鏡あり明鏡ある証験、すなはち雪峰と玄沙と道取せり。これを仏道の性相とすべし。この玄沙の明鏡来の道話の七通八達なるとしるべし。八面玲瓏なること、しるべし。逢人には即出なるべし、出即には接渠なるべし。しかあれば、明鏡の明と古鏡の古と、同なりとやせん、異なりとやせん。

明鏡に古の道理ありやなしや、古鏡に明の道理ありやなしや。古鏡といふ言によりて、明なるべしと学することなかれ。宗旨は吾亦如是あり、汝亦如是あり。西天諸祖亦如是の道理、はやく練磨すべし。祖師の道得に、古鏡は磨ありと道取す。明鏡もしかるべきか、いかん。まさにひろく諸仏諸祖の道にわたる参学あるべし。

雪峰道の胡漢倶隠は、胡も漢も、明鏡時は倶隠なりとなり。この倶隠の道理、いかにいふぞ。胡漢すでに来現すること、古鏡を相礙せざるに、なにとしてかいま倶隠なる。古鏡はたとひ胡来胡現、漢来漢現なりとも、明鏡来はおのづから明鏡来なるがゆゑに、古鏡現の胡漢は倶隠なるなり。しかあれば、雪峰道にも古鏡一面あり、明鏡一面あるなり。

正当明鏡来のとき、古鏡現の胡漢を罜礙すべからざる道理、あきらめ決定すべし。いま道取する古鏡の胡来胡現、漢来漢現は、古鏡上に来現すといはず、古鏡裡に来現すといはず、古鏡外に来現すといはず、古鏡と同参来現すといはず。この道を聴取すべし。胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せしむるなり、胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、来におろそかなり。錯乱といふにおよばざるものなり。

時に玄沙いはく、某甲はすなはちしかあらず。
雪峰いはく、なんぢ作麼生。
玄沙いはく、請すらくは和尚とふべし。

いま玄沙のいふ請和尚問の言葉、いたづらに蹉過すべからず。いはゆる和尚問の来なる、和尚問の請なる、父子の投機にあらずは、為甚如此(甚と為てか此の如くなる)なり。すでに請和尚問ならん時節は、恁麼人さだめて問処を若会すべし。すでに問処の霹靂するには、無回避処なり。

雪峰いはく、忽遇明鏡来時如何。
この問処は、父子ともに参究する一条の古鏡なり。
玄沙いはく、百雑碎。

この道取は、百千万に雑碎するとなり。いはゆる忽遇明鏡来時は百雑碎なり。百雑碎を参得せんは明鏡なるべし。明鏡を道得ならしむるに、百雑碎なるべきがゆゑに。雑碎のかかれるところ、明鏡なり。さきに未雑碎なるときあり、のちにさらに不雑碎ならん時節を管見することなかれ。ただ百雑碎なり。百雑碎の対面は孤峻の一なり。

しかあるに、いまいふ百雑碎は、古鏡を道取するか、明鏡を道取するか。更請一転語(更に一転語を請ふ)なるべし。また古鏡を道取するにあらず、明鏡を道取するにあらず。古鏡明鏡はたとひ問来得なりといへども、玄沙の道取を擬議するとき、砂礫牆壁のみ現前せる舌端となりて、百雑碎なりぬべきか。碎来の形段作麼生。
万古碧潭空海月。

雪峰真覚大師と三聖院慧然禅師と行次に、ひとむれの獼猴をみる。ちなみに雪峰いはく、この獼猴、おのおの一面の古鏡を背せり。

この語よくよく参学すべし。獼猴といふはさるなり。いかならんか雪峰のみる獼猴。かくのごとく問取して、さらに功夫すべし。経をかへりみることなかれ。おのおの一面の古鏡を背せりとは、古鏡たとひ諸仏祖面なりとも、古鏡は向上にも古鏡なり。

獼猴おのおの面々に背せりといふは、面々に大面小面あらず、一面古鏡なり。背すといふは、たとへば、繪像の仏のうらをおしつくるを、背すとはいふなり。獼猴の背を背するに、古鏡にて背するなり。使得什麼糊来(什麼なる糊をか使得し来る)。

心みにいはく、さるのうらは古鏡にて背すべし、古鏡のうらは獼猴にて背するか。古鏡のうらを古鏡にて背す、さるのうらをさるにて背す。各背一面の言葉、虚設なるべからず。道得是の道得なり。しかあれば、獼猴か、古鏡か。畢竟作麼生道。我らすでに獼猴か、獼猴にあらざるか。たれにか問取せん。自己の獼猴にある、自知にあらず、他知にあらず。自己の自己にある、摸およばず。

三聖いはく、歴劫無名なり、なにのゆゑにかあらはして古鏡とせん。
これは、三聖の古鏡を証明せる一面一枚なり。歴劫といふは、一心一念未萌以前なり、劫裡の不出頭なり。無名といふは、歴劫の日面月面、古鏡面なり、明鏡面なり。無名真箇に無名ならんには、歴劫いまだ歴劫にあらず。歴劫すでに歴劫にあらずは、三聖の道得これ道得にあらざるべし。しかあれども、一念未萌以前といふは今日なり。今日を蹉過せしめず練磨すべきなり。まことに歴劫無名、この名たかくきこゆ。なにをあらはしてか古鏡とする、龍頭蛇尾。

このとき三聖にむかひて、雪峰いふべし、古鏡古鏡と。
雪峰恁麼いはず、さらに瑕生也といふは、きずいできぬるとなり。いかでか古鏡に瑕生也ならんとおぼゆれども、古鏡の瑕生也は、歴劫無名とらいふをきずとせるなるべし、古鏡の瑕生也は全古鏡なり。三聖いまだ古鏡の瑕生也の窟をいでざりけるゆゑに、道来せる参究は一任に古鏡瑕なり。しかあれば、古鏡にも瑕生なり、瑕生なるも古鏡なりと参学する、これ古鏡を参学するなり。

三聖いはく、有什麼死急、話頭也不識(什麼の死急か有らん、話頭も不識)。
いはくの宗旨は、なにとしてか死急なる。いはゆるの死急は、今日か明日か、自己か他門か。尽十方界か、大唐国裡か。審細に功夫参学すべきものなり。話頭也不識は、話といふは、道来せる話あり、未道得の話あり、すでに道了也の話あり。いまは話頭なる道理現成するなり。

たとへば、話頭も大地有情同時成道しきたれるか。さらに再全の錦にはあらざるなり。かるがゆゑに不識なり。対朕者不識なり、対面不相識なり。話頭はなきにあらず、祗是不識(祗是れ不識)なり、不識は条々の赤心なり、さらにまた明々の不見なり。

雪峰いはく、老僧罪過。
いはゆるは、あしくいひにけるといふにも、かくいふこともあれども、しかは心うまじ。老僧といふことは、屋裡の主人翁なり。いはゆる余事を参学せず、ひとへに老僧を参学するなり。千変万化あれども、神面鬼面あれども、参学は唯老僧一著なり。仏来来、一念万年あれども、参学は唯老僧一著なり。罪過は住持事繁なり。

おもへばそれ、雪峰徳山の一角なり、三聖は臨済の神足なり。両位の尊宿、おなじく系譜いやしからず、青原の遠孫なり、南嶽の遠派なり。古鏡を住持しきたれる、それかくのごとし。晩進の亀鑑なるべし。

雪峰示衆云、世界闊一丈、古鏡闊一丈。世界闊一尺、古鏡闊一尺(世界闊きこと一丈なれば、古鏡闊きこと一丈なり。世界闊きこと一尺なれば、古鏡闊きこと一尺なり)。
時玄沙、指火爐云、且道、火爐闊多少(時に玄沙、火爐を指して云く、且く道ふべし、火爐闊きこと多少ぞ)。
雪峰云、似古鏡闊(古鏡の闊きに似たり)。
玄沙云、老和尚脚跟未点地在(老和尚、脚跟未だ地に点かざること在り)。

一丈、これを世界といふ、世界はこれ一丈なり。一尺、これを世界とす、世界これ一尺なり。而今の一丈をいふ、而今の一尺をいふ。さらにことなる尺丈にはあらざるなり。

この因縁を参学するに、世界のひろさは、よの常におもはくは、無量無辺の三千大千世界および無尽法界といふも、ただ小量の自己にして、しばらく隣里の彼方をさすがごとし。この世界を拈じて一丈とするなり。このゆゑに雪峰いはく、古鏡闊一丈、世界闊一丈。

この一丈を学せんには、世界闊の一端を見取すべし。
又古鏡の道を聞取するにも、一枚の薄氷の見をなす、しかにはあらず。一丈の闊は世界の闊一丈に同参なりとも、形興かならずしも世界の無端に斉肩なりや、同参なりやと功夫すべし。古鏡さらに一顆珠のごとくにあらず。明珠を見解脱することなかれ、方円を見取することなかれ。尽十方界たとひ一顆明珠なりとも、古鏡にひとしかるべきにあらず。

しかあれば、古鏡は胡漢の来現にかかはれず、縱横の玲瓏に条々なり。多にあらず、大にあらず、闊はその量を挙するなり、広をいはんとにはあらず。闊といふは、よのつねの二寸三寸といひ、七箇八箇とかぞふるがごとし。仏道の算数には、大悟不悟と算数するに、二両三両をあきらめ、仏々祖々と算数するに、五枚十枚を見成す。一丈は古鏡闊なり、古鏡闊は一枚なり。

玄沙のいふ火爐闊多少、かくれざる道得なり。千古万古にこれを参学すべし。いま火爐をみる、たれ人となりてかこれをみる。火爐をみるに、七尺にあらず、八尺にあらず。これは動執の時節話にあらず、新条特地の現成なり。たとへば是什麼物恁麼来なり。闊多少の言きたりぬれば、向来の多少は多少にあらざるべし。当処解脱の道理、うたがはざりぬべし。火爐の諸相諸量にあらざる宗旨は、玄沙の道をきくべし。現前の一団子、いたづらに落地せしむることなかれ、打破すべし。これ功夫なり。

雪峰いはく、如古鏡闊。
この道取、しづかに照顧すべし。火爐闊一丈といふべきにあらざれば、かくのごとく道取するなり。一丈といはんは道得是にて、如古鏡闊は道不是なるにあらず。如古鏡闊の行履をかがみるべし。おほく人のおもはくは、火爐闊一丈といはざるを道不是とおもへり。闊の独立をも功夫すべし、古鏡の一片をも鑑照すべし。如如の行李をも蹉過せしめざるべし。動容揚古路、不墮悄然機なるべし。

玄沙いはく、老漢脚跟未点地在。
いはくの心は、老漢といひ、老和尚といへども、かならず雪峰にあらず。雪峰は老漢なるべきがゆゑに。脚跟といふはいづれのところぞと問取すべきなり、脚跟といふはなにをいふぞと参究すべし。参究すべしといふは、脚跟とは正法眼蔵をいふか、虚空をいふか、尽地をいふか、命脈をいふか、幾箇あるものぞ。一箇あるか、半箇あるか、百千万箇あるか。恁麼勤学すべきなり。

未点地在は、地といふは、是恁麼物なるぞ。いまの大地といふ地は、一類の所見に準じて、しばらく地といふ。さらに諸類、あるいは不思議解脱法門とみるあり、諸仏諸行道とみる一類あり。しかあれば、脚跟の点ずべき地は、なにものをか地とせる。地は実有なるか、実無なるか。

又おほよそ地といふものは、大道のなかに寸許もなかるべきか。問来問去すべし、道他道己すべし。脚跟は点地也是なる、不点地也是なる。作麼生なればか未点地在と道取する。大地無寸土の時節は、点地也未、未点地也未なるべし。
しかあれば、老漢脚跟未点地在は、老漢の消息なり、脚跟の造次なり。

㜈州金花山国泰院弘瑫禅師、ちなみに僧とふ、古鏡未磨時如何(古鏡未だ磨せざる時、如何)。
師云、古鏡。
僧云、磨後如何。
師云、古鏡。

しるべし、いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、磨後あれども、一面に古鏡なり。しかあれば、磨時は古鏡の全古鏡を磨するなり。古鏡にあらざる水銀等を和して磨するにあらず。磨自、自磨にあらざれども、磨古鏡なり。未磨時は古鏡くらきにあらず。くろしと道取すれども、くらきにあらざるべし、活古鏡なり。おほよそ鏡を磨して鏡となす、塼を磨して鏡となす。塼を磨して塼となす、鏡を磨して塼となす。磨してなさざるあり、なることあれども磨することえざるあり。おなじく仏祖の家業なり。

江西馬祖むかし南嶽に参学せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、伝法院に住してよの常に坐禅すること、わづかに十余歳なり。雨夜の草庵、おもひやるべし、封雪の寒床におこたるといはず。

南嶽あるとき馬祖の庵にいたるに、馬祖侍立す。
南嶽とふ、汝近日作什麼。
馬祖いはく、近日道一祗管打坐するのみなり。
南嶽いはく、坐禅なにごとをか図する。
馬祖いはく、坐禅は作仏を図す。
南嶽すなはち一片の塼をもちて、馬祖の庵のほとりの石にあてて磨す。
馬祖これをみてすなはちとふ、和尚、作什麼。
南嶽いはく、磨塼。
馬祖いはく、磨塼用作什麼。
南嶽いはく、磨作鏡。
馬祖いはく、磨塼豈得成鏡耶。
南嶽いはく、坐禅豈得作仏耶。

この一段の大事、むかしより数百歳のあひだ、人おほくおもふらくは、南嶽ひとへに馬祖を勧励せしむると。いまだかならずしもしかあらず。大聖の行履、はるかに凡境を出離せるのみなり。大聖もし磨塼の法なくは、いかでか為人の方便あらん。為人のちからは仏祖の骨髓なり。

たとひ構得すとも、なほこれ家具なり。家具調度にあらざれば仏家につたはれざるなり。いはんやすでに馬祖を接することすみやかなり。はかりしりぬ、仏祖正伝の功徳、これ直指なることを。まことにしりぬ、磨塼の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐禅となる。かるがゆゑに、塼を磨して鏡と為すこと、古仏の骨髓に住持せられきたる。

しかあれば、塼のなれる古鏡あり、この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汚なるなり。塼のちりあるにはあらず、ただ塼なるを磨塼するなり。このところに、作鏡の功徳の現成する、すなはち仏祖の功夫なり。磨塼もし作鏡せずは、磨鏡も作鏡すべからざるなり。たれかはかることあらん、この作に作仏あり、作鏡あることを。又疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨し為すことのあるべきか。

磨時の消息は、余時のはかるところにあらず。しかあれども、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟じてすなはちこれ磨塼作鏡なるべし。

いまの人も、いまの塼を拈じ磨して心みるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼も心あるべきなり。たれかしらん、塼来塼現の鏡子あることを。又たれかしらん、鏡来鏡現の鏡子あることを。

正法眼蔵古鏡第十九

仁治二年辛丑九月九日観音導利興聖宝林寺示衆
同四年癸卯正月十三日書写于栴檀林裡

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