一日示して云く、古人云く、「聞くべし、見るべし。」と。また云く、「経ずんば見るべし、見ずんば聞くべし。」と。
言うところは、聞かんよりは見るべし、見んよりは経べし、いまだ経ずんば見るべし。いまだ見ずんば聞くべしとなり。
また云く、学道の用心、本執を放下すべし。身の威儀を改むれば、心も随って転ずるなり。先ず律儀の戒行を守らば、心も随って改まるべきなり。宋土には俗人等の常の習いに、父母の孝養の為に、宗廟にして各々集会して泣くまねをするほどに、終には実に泣くなり。学道の人も、初めより道心なくとも、ただ強いて道を好み学せば、終には真の道心も起るべきなり。
初心の学道の人は、ただ衆に随って行道すべきなり。修行の用心故実等を学し知らんと思う事なかれ。用心故実等も、ただ一人山にも入り市にも隠れて行ぜん時、あやまりなくよく知りたらばよしと云う事なり。衆に随って行ぜば、道を得べきなり。たとえば舟に乗りて行くには、故実を知らず、ゆくやうを知らざれども、よき船師に任せて行けば、知りたるも知らざるも彼岸に到るが如し。善知識に随って衆と共に行じて私なければ、自然に道人なり。
学道の人、もし悟りを得ても、今は至極と思うて行道をやむる事なかれ。道は無窮なり。悟りてもなお行道すべし。良遂座主、麻谷に参ぜし因縁を思うべし。
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『正法眼蔵随聞記』
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