【仏教用語/人物集 索引】

『正法眼蔵随聞記』7、海中に龍門と云う処あり

投稿日:1235年6月15日 更新日:

示して云く、海中に龍門と云う処あり。浪しきりにうつなり。諸の魚、波の処を過ぐれば必ず龍となるなり。故に龍門と云うなり。今は云く、彼の処、浪も他処に異ならず、水も同じくしわはゆき水なり。しかれども定まれる不思議にて、魚この処を渡れば必ず龍と成るなり。魚の鱗もあらたまらず、身も同じ身ながら、たちまちに龍となるなり。衲子の儀式も是れをもて知るべし。処も他所に似たれども、叢林に入れば必ず仏となり祖となるなり。食も人と同じく食し、同じく服し、飢を除き寒を禦ぐ事も同じけれども、ただ頭を円にし衣を方にして斎粥等にすれば、たちまちに衲子となるなり。成仏作祖も遠く求むべからず。ただ叢林に入ると入らざるとなり。龍門を過ぐると過ぎざるとなり。

また云く、俗の云く、「我れ金を売れども人の買う事無ければなり。」と。仏祖の道もかくのごとし。道を惜しむにあらず、常に与うれども人の得ざるなり。道を得る事は根の利鈍にはよらず。人々皆法を悟るべきなり。ただ精進と懈怠とによりて得道の遅速あり。進怠の不同は志の到ると到らざるとなり。志の到らざる事は、無常を思わざるに依るなり。念々に死去す、畢竟しばらくも止らず。しばらくも存ぜる間、時光を虚しくすごす事なかれ。

「倉の鼠食に飢え、田を耕す牛の草に飽かず。」と云う意は、財の中に有れども必ずしも食に飽かず、草の中に栖めども草に飢うる。人もかくのごとし。仏道の中にありながら、道にかなわざるものなり。希求の心止まざれば、一生安楽ならざるなり。

道者の行は善行悪行皆おもわくあり。人のはかる処にあらず。昔恵心僧都、一日庭前に草を食する鹿を人をして打ちおわしむ。

時に人有り、問うて云く、「師、慈悲なきに似たり、草を惜しんで畜生を悩ます。」

僧都云く、「我れもし是れを打たずんば、この鹿、人に馴れて悪人に近づかん時、必ず殺されん。この故に打つなり。」と。

鹿を打つは慈悲なきに似たれども、内心の道理、慈悲余れる事かくのごとし。

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『正法眼蔵随聞記』

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