【仏教用語/人物集 索引】

スッタニパータ【第1 蛇の章】12、聖者

投稿日:0202年5月28日 更新日:

207 親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者ブッダ)の悟りである。

208 すでに生じた煩悩の芽を断ち切って、新たに植えることなく、現に生ずる煩悩を長ぜしめることがないならば、この独り歩む人を聖者と名づける。かの大仙人は平安の境地を見たのである。

209 平安の境地、煩悩の起こる基礎を考究して、その種をわきまえ知って、それを愛執する心を長せしめないならば、彼は、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想を捨てて迷える者の部類に赴かない。

210 あらゆる執著の場所を知り終わって、そのいずれをも欲することなく、貪りを離れ、欲のない聖者は、作為によって求めることがない。彼は彼岸に達しているからである。

211 あらゆるものに打ち勝ち、あらゆるものを知り、いとも聡明で、あらゆる事物に汚されることなく、あらゆるものを捨て、妄執が滅びて解脱した人、諸々の賢者は、彼を聖者であると知る。

212 智慧の力あり、戒と誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気を付けていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、諸々の賢者は、彼を聖者であると知る。

213 独り歩み、怠ることのない聖者は、非難と賞賛とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人、諸々の賢者は、彼を聖者であると知る。

214 他人が言葉を極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然とそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、諸々の賢者は、彼を聖者であると知る。

215 梭のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、諸々の賢者は、彼を聖者であると知る。

216 自己を制して悪を為さず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。彼は他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、彼を聖者であると知る。

217 他人から与えられたもので生活し、容器の上の部分から取り出した食物、中ほどまで取り出されたところから取り出された食物、底に残ったものを取り出した食物を得ても、食を与えてくれた人をほめることなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、彼を聖者であると知る。

218 婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたはおこたりを離れ、束縛から解脱している聖者、彼を諸々の賢者は真の聖者であると知る。

219 世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海を渡ったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、諸々の賢者は、彼を聖者であると知る。

220 両者は住所も生活も隔たって、等しくない。在家者は妻を養うが、善く誓戒を守る出家者は何ものをも我がものとみなす執著がない。在家者は、他のものの生命を害って、節制することがないが、聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。

221 たとえば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者修行者に及ばない。

<蛇の章>第1 おわる

 まとめの句

 蛇とダニヤと犀の角と耕す人と、チュンダと破壊と賤しい人と、慈しみを修めることと雪山に住む者とアーラヴァカと、勝利とまた聖者と、
 これらの十二の経が「蛇の章」と言われる。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典の『スッタニパータ』を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダの言葉」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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