『典座教訓』3、米を洗うことも修行のうち

投稿日:2023年8月13日 更新日:

『禅苑清規』に云く、「六味精ならず、三徳給らざるは、典座の衆に奉する所以にあらず」と。先ず米を看んとして便ち砂を看、先ず砂を看んとして便ち米を看る。審細に看来り看去って、放心すべからずんば、自然に三徳円満し、六味倶に備らん。

雪峰、洞山に在って典座と作る。
一日米を淘る次、洞山問う、「砂を淘り去って米か、米を淘り去って砂か」。
峰云く、「砂米一時に去る」。
洞山云く、「大衆、箇の什麼をか喫す」。
峰、盆を覆却す。
山云く、「子佗後別に人に見え去ること在らん」と。

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※このページは学問的な正しさを追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるための功夫をしています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

1、職を勤める姿が仏の姿
2、心が整えば味も整う
3、米を洗うことも修行のうち
4、心を他のことに移さない
5、菜っ葉も伽藍も上下なし

6、よし悪しの隔てなく授かる心
7、一茎菜を拈じて、丈六身と作し
8、ことに見合った細かい心配り
9、食べることも仏法を行じていること
10、他人のしたことは自分のしたことにならない

11、よく自分のことを勤める
12、学問も修行も天地のいのちに気づくこと
13、まず心をこめて行ずること
14、修行は日々の足下にある
15、すべて行ずることが仏事

16、自他の境をとりはずす
17、ただ自然に変わっていくだけ
18、自然のまま喜びの心で引き受ける
19、親心は無償の心
20、天地の寸法は隔たりがない

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