中国の五山 ~五山制度と臨済宗~

投稿日:1168年1月1日 更新日:

鎌倉時代後期、幕府の実権を握っていた北条氏は、中国の南宋にならい五山制度を導入しました。鎌倉の主な禅寺を五山と呼ぶようになり、鎌倉幕府滅亡後の室町時代初期には鎌倉・京都それぞれに五山が定められ、それに次ぐ十刹と緒山が選ばれこの制度が定着したといわれます。定着するまでの過程では、五山に含まれた地含まれなかったりということがあり、基本的には幕府が寺を格付け管理するための制度であったようです。

鎌倉幕府は中国の南宋で禅寺の管理のために格式高い五つの寺を定めた五山制度を導入したわけですが、もともとはインドの五山にならったものであったようです。インドの五山とは、天竺五精舎、天竺五山とも呼ばれ、お釈迦様が生きていた時代を含む初期仏教の5つの精舎(伽藍・寺院)を指す言葉です。インドの五山とは、竹林精舎、祇園精舎、菴羅樹園精舎、大林精舎、霊鷲精舎です。また、信仰的、歴史的、地域的な問題もあり、必ずしも上記の名称に当てはまらないという場合もあります。

現在、日本の鎌倉五山や京都五山は固定しているように思うわけですが、五山制度が導入された時期は寺院の入れ替わりが多くあったようで、流動的でした。時の権力者、幕府が寺を格付け管理するための制度であったので、流動的で当たり前であったようです。しかしそれが、室町幕府三代将軍の足利義満の時に決められた五山が現在も踏襲されているとのことで、注目できる点であると思います。

五山制度は時の権力者、幕府が寺を格付け管理するための制度であったので、流動的であったということで、固定化されるまでの変遷がはっきりしない部分もあります。インドの五山、五精舎もはっきりしない部分が多いのですが、中国で五山制度がつくられた時にインドの五山も定めたのでないかという研究もあるようです。お釈迦様の時代に、ここが五山であるという呼ばれ方があったとも考えられませんから、どちらにしてもインドの五山はお釈迦様の時代よりも後に定められたのは確かであると思います。

今回の本題である中国の五山もはっきりしないことが多いのですが分かる限りまとめます。中国・南宋の第4代皇帝の寧宗(1168~1224年)がインドの五山である五精舎十塔所(天竺五精舎)の故事によって制度化されたということが一般的ですが、その根拠は何かと調べていくと、『中国の五山十刹制度について』(石井修道)という論文によると「ところで五山制度が嘉定年間に成立していれば、嘉定二八年(一二二三)に入宋し、宝慶三年(一二二七)に帰朝した永平道元(一二〇〇-一二五三)や端平二年(二二二五)に入宋し、淳祐元年(一二四一)に帰朝した東福円爾(一二〇二-一二八〇)が、五山制度について著述類に言及してもよいはずであるが見い出せない。」(上記より抜粋)とあるように、禅宗の一派である曹洞宗を伝えた道元禅師が中国に留学していた頃に制度化されていたはずの五山制度の話題がないという指摘です。実際はどうだったのでしょうか。

はっきりしないとは言え、鎌倉幕府は中国の南宋で禅寺の管理のために格式高い五つの寺を定めた五山制度を導入したわけですから、ルーツを確かめておきたいところです。中国の五山とは、五山十刹寺院とも呼ばれ、径山寺・霊隠寺・景徳寺・浄慈寺・広利寺です。また、五山之上として天界寺が定められています。時代によって寺院の入れ替わりや呼称の変化があったと思われますが、勅命により輪番で高僧を住持としたようです。

天界寺(てんかいじ)
南京にありましたが、現在は廃寺。大龍翔集慶禅寺。五山之上という位次でした。

径山寺(きんざんじ)
杭州余杭にあります。径山興聖万寿禅寺。五山之第一位という位次でした。

霊隠寺(りんにんじ)
杭州にあります。北山景徳霊隠禅寺。五山之第二位という位次でした。

景徳寺(けいとくじ)
寧波にあります。太白山天童景徳禅寺。五山之第三位という位次でした。

浄慈寺(じんずじ)
杭州にあります。南山浄慈報恩光孝禅寺。五山之第四位という位次でした。

広利寺(こうりじ)
寧波にあります。阿育王山広利禅寺。五山之第五位という位次でした。

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