夜話に云く、古人云く、「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり。」と。今の学道の人、この心あるべきなり。広劫多生の間、幾回か徒らに生じ、徒らに死せし。まれに人界に生まれて、たまたま仏法に逢う時、何にしても死に行くべき身を、心ばかりに惜しみ持つとも叶うべからず。遂に捨行く命を、一日片時なりとも仏法のため捨てたらば、永劫の楽因なるべし。
後の事、明日の活計を思うて捨つべき世を捨てず、行ずべき道を行ぜずして、あたら日夜を過ごすは口惜しき事なり。ただ思い切って、明日の活計なくは飢え死にもせよ、寒え死にもせよ、今日一日道を聞いて仏意に随って死なんと思う心を先ず発すべきなり。その上に道を行じ得ん事は一定なり。
この心無くて世を背き道を学するようなれども、なおしり足をらふみて、夏冬の衣服等の事をした心にかけ、明日明年の活命を思うて仏法を学せんは、万劫千生学すともかなうべしとも覚えず。またさる人もやあらんずらん、存知の意趣、仏祖の教にはあるべしともおぼえざるなり。
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『正法眼蔵随聞記』
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