仏教を本気で学ぶ

身・口・意の三業(さんごう)

食べる、寝る、座る、立つ、歩く、走る。身体で表すどんな動きも自分以外のものに影響を与えています。また、自分以外のものや環境から影響を受けて自分の身体が動いています。言葉で表すどんなことも正しく伝わっているか、伝えたつもりになっていないか注意します。言葉は何かを仮に表したもので、完全なものではありません。心に表れるどんな想い・考えも偏っていないか、その想い・考えに囚われていないか注意します。心に表れたことに囚われると、言葉になり、身体の動きになります。そのような行為のことを業(ごう)といいます。これらの、身体(身)、言葉(口)、心(意)を三業といいます。例えば、地震や大雨などの災害支援ボランティ...
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仏教三大聖木(無憂樹・菩提樹・沙羅双樹)

仏教三大聖木とは、ブッダ誕生の花である無憂樹(むゆうじゅ)、ブッダ悟りの木である菩提樹(ぼだいじゅ)、ブッダ入滅(にゅうめつ)の木である沙羅双樹(さらそうじゅ)のことをさします。<< 戻る
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仏教用語/人物集 索引

このウェブサイトに出てくる仏教用語/人物を五十音順で探すことが出来ます。
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サールナート – ブッダが教えを説き始めた地(鹿野苑)

サールナートはブッダが教えを説き始めた地として仏教の四大聖地および八大聖地の一つに数えられます。その教えを説いた相手は五比丘だと伝えられています。サールナートのうち鹿野苑(ろくやおん)だったとされる場所は現在、インド政府によって整理され遺跡公園になっています。そこには、ブッダの初転法輪(しょてんぼうりん)の地に立つダーメーク・ストゥーパがあり(写真)、4頭の獅子像があしらわれているアショーカ王の石柱も出土し、インドの国章となっています。また、バラナシ(ベナレス)の北方約10kmに位置します。「スッタニパータ」には「仙人のあつまる所という名の林」という名で出てきます。・「生きとし生ける者の最上者...
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サンカーシャ – ブッダ三道宝階降下の地(僧伽舎)

サンカーシャはブッダ三道宝階降下の地として仏教の八大聖地の一つに数えられます。音訳して僧伽舎(そうぎゃしゃ)とも書かれます。サヘート・マヘートにある祇園精舎の香堂(ガンダクティー)からブッダは生後7日目に死別した母マーヤー夫人に法を説くために忉利天(とうりてん・三十三天)へ昇天し、サンカーシャの地に降り立ったという三道宝階降下伝説が残されています。忉利天で3ヶ月間、母マーヤー夫人に法を説いた後、三道の宝階を降下してサンカーシャの地に現れたと伝えられています。降下される時、三つの階段が築かれ中央の金の階段をブッダが、右側の白金の階段を白い払子(ほっす)を手にしたブラフマー神(梵天)が、左側の瑠璃...
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戒・定・慧の三学(さんがく)

三学(さんがく)とは、ブッダによって示された、修行者が必ず修めるべき3つの基本的な修行項目のことです。三勝学(さんしょうがく)ともいわれます。戒学、定学、慧学の3つを指して三学といいます。この戒、定、慧のそれぞれを次で見ていきましょう。戒学(かいがく)戒により、悪をとどめ善を修めることで、身・口・意(しん・く・い)の三業(さんごう)が清らかになり、禅定に入りやすくなる。定学(じょうがく)その禅定を修めることで、身心を静かに精神統一を行ない、雑念を払い思いが乱れないことで智慧が得られやすくなる。慧学(えがく)その智慧を修めることで、正しく真実の姿を見極めることが出来るようになる。この戒・定・慧の...
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娑婆(しゃば)

娑婆とは、私たちの住むこの現実世界を指す言葉です。saha の音写。<< 戻る
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三結(さんけつ)

三結とは、四向四果の内の預流果を得る人の断ずべき三種の煩悩のことで、「見結」「戒取結」「疑結」のこと。「結」は煩悩の異名です。巴語(パーリ語)でtini samyojanani 、三つの束縛という意味です。①見結(けんけつ)とは、我有りと見なす見解のこと。我見。②戒取結(かいしゅけつ)とは、誤った戒律を行ずることを解脱の因と見なすこと。③疑結(ぎけつ)とは、正しい道理を疑うこと。<< 戻る
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三帰依文(さんきえもん)

Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmiDhammaṃ saraṇaṃ gacchāmiSaṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(巴語(パーリ語))ブッダン サラナン ガッチャーミダンマン サラナン ガッチャーミサンガン サラナン ガッチャーミ(カナ読み)南無帰依仏南無帰依法南無帰依僧(漢文)私は、仏陀(ブッダ)に帰依します。私は、法(ダンマ)に帰依します。私は、僧伽(サンガ)に帰依します。(日本語訳)・「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。私は、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」(スッタニパ...
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『坐禅用心記』(ざぜんようじんき)/瑩山禅師

正和元(1312)年、瑩山禅師は能登(石川県)に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで『坐禅用心記』を撰述しました。坐禅の心得を説いた指導書で、『普勧坐禅儀』と共に参禅する者にとって欠くことのできない教説です。坐禅の意義から、参禅の時の呼吸や姿勢、眼の開き方、手の置き方など、さらには食事や衣服などの注意にもふれられ、細かく丁寧に示されています。その全文を掲載いたします。①ルビ(かな読み)②書き下し本文(大太字)『坐禅用心記』それざぜんはじきにひとをして夫れ坐禅は直に人をしてしんちをかいめいし、心地を開明し、ほんぶんにあんじゅうせしむ。本分に安住せしむ。これをほんらいのめんもくを是を本来の面目をあら...
人物

坂本龍一(さかもとりゅういち)

坂本龍一は作曲家・編曲家・ピアニスト・音楽プロデューサー。東京都出身。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバーとして細野晴臣、高橋幸宏と共に国内外で活躍。矢野顕子、忌野清志郎、デヴィッド・シルヴィアンらとの共同制作楽曲も多数ある。俳優として出演した大島渚の監督映画『戦場のメリークリスマス』で映画音楽も手掛け、日本人初の英国アカデミー賞 作曲賞を受賞。映画『ラストエンペラー』においてはアカデミー作曲賞を受賞。映画『リトル・ブッダ』は全曲、坂本龍一による作曲であり、指揮も自身が行っている。『energy flow』が癒し系楽曲として絶大な人気を得た時には、「他にもっと(自身の)良い曲が...
人物

佐藤蛾次郎(さとうがじろう)

俳優・タレント。大阪府高石市出身。E・NESTO所属。息子は俳優の佐藤亮太。1968年の映画「吹けば飛ぶよな男だが」で山田洋次監督に見いだされ、「男はつらいよ」シリーズで渥美清さん演じる主人公、寅次郎の〝弟分〟、源公役でブレーク。味のある演技で国民の心をわしづかみにした。生誕 1944年(昭和19年)8月9日命日 2022年(令和4年)12月9日戒名 慈愛院和演日忠居士(じあいいんわえんにっちゅうこじ)<< 戻る
人物

三遊亭円楽(6代目)(さんゆうていえんらく)

落語家、日本の俳優。東京都墨田区出身。出囃子は『元禄花見踊』。本名は會泰通。五代目圓楽一門会所属で、幹事長を務める。2017年6月27日から、客員として落語芸術協会に加入し、2つの噺家団体で活動していた。マネジメントはオフィスまめかな。 2016年に群馬県前橋市の曹洞宗鷲霊山釈迦尊寺で得度を行っており、戒名はその僧名からきている。2019年に出版した本『流されて円楽に流れつくか圓生に』(竹書房)で円楽は、圓生襲名への意欲を示していた。師匠は三遊亭圓楽 (5代目)。生誕 1950年(昭和25年)2月8日命日 2022年(令和4年)9月30日戒名 泰通圓生上座(たいつうえんしょうじょうざ)<< 戻...
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懴悔文(さんげもん)

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)【読み下し文】我れ昔より造る所の諸の悪業は、(われむかしよりつくるところのもろもろのあくごうは)皆な無始の頓・瞋・痴に由る、(みなむしの とん・じん・ち による)身・口・意従り生ずる所なり、(しん・く・い よりしょうずるところなり)一切、我れ今皆な懺悔したてまつる。(いっさい、われいまみなさんげしたてまつる)<< 戻る
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仏の三十二相(さんじゅうにそう)

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賽銭泥棒(さいせんどろぼう)

賽銭泥棒とは、お寺や神社にお参りに行った時に、お賽銭が入っている賽銭箱からお金を盗む行為です。また、仏像などの前に賽銭として置いているものや池の中に投げ込まれた賽銭などを盗むことも同様です。賽銭泥棒は窃盗罪にあたり、10年以下の懲役が課せられます。お寺側も見回りを強化したり、監視カメラを設置したり、用がないときは扉を閉めたり、先の例では後半のお金が見える形でのお賽銭をしないように呼び掛けたり、対策はしていますが、どのお寺も予算には限りがあり、十分な対策はとれていません。賽銭泥棒が出たという話になると、気味が悪いということで人の出入りが少なくなり、逆効果となります。賽銭泥棒は繰り返される例も多く...
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忉利天(とうりてん)- 三十三天

忉利天とは、仏教世界観における天の1つで、欲界の六欲天の内の第2天です。須弥山(しゅみせん)の頂上にあり、その東西南北にそれぞれ8つの城、中央に善見城(ぜんけんじょう)があり、合計33の城があります。善見城中の殊勝殿(しゅしょうでん)には帝釈天(たいしゃくてん)が住んでいます。梵語トラーヤストゥリンシャの音訳語の略称で、原語は「33」を意味し、ここでは「33種の天からなる世界」をさし、「三十三天」と意訳されます。数々の立派な建物、庭園、香樹などがあり、一種の楽園として描かれています。ブッダは生後7日目に死別した母マーヤー夫人に法を説くために祇園精舎から忉利天へ昇天し、ここで3ヶ月間、母マーヤー...
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三門・山門(さんもん)

仏教寺院において正式な入口のことを三門または山門といいます。空門(くうもん)、無相門(むそうもん)、無作門(むさもん)の三境地を通って境内に入るという意味で三解脱門(さんげだつもん)とも呼ばれます。他にも、貪・瞋・痴の三毒を解脱する境界の門という意味を持たせるもの、声聞・縁覚・菩薩の三乗が通る門という意味を持たせるものもあります。また、実際に三つの門がある場合と、一つの門の場合とがあります。山門とも書かれるのは、山に建立された寺院が多くあったことによります。平地に境内があっても山号がついている寺院が多くあるのもこの理由です。三門か、山門か、どちらで呼ぶかは寺院によります。また、どちらもあるとい...
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三黙道場(さんもくどうじょう)

三黙道場とは、坐禅を組み、食事を食べ、睡眠する僧堂(坐禅堂)、トイレをする東司(とうす)、お風呂に入る浴司(よくす)の三か所で、誰とも話をせずに静かに行動する場所のことです。気持ちが緩みそうになる場所ですが、自らを戒めるために定められています。<< 戻る
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斎食(さいじき)

斎食とは、① 正午を過ぎてから食事しないよう午前中にとる食事、② 正午や決まった時間にとる食事、③ 法要など仏事の時に出す食事、④ 精進料理、⑤ 寺で出される食事のことをいいます。① 正午を過ぎてから食事しないよう午前中にとる食事それぞれの時代、それぞれの宗派の戒に基づき詳細は異なりますが、基本的に修行僧は午前中に食事を済ませて、午後以降は食事を口にしない生活をしています。その起源はお釈迦様のいた時代までさかのぼり、托鉢した食事を午前中にいただいていたことだと考えられます。朝に托鉢をして、朝の勤行の前に一食をいただき、午前11時頃にもう一食をとるという場合もあります。② 正午や決まった時間にと...
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賽銭箱(さいせんばこ)

賽銭箱とは、お寺や神社にお参りに行った時に、お賽銭を入れるための箱であり、お賽銭を受けるための箱です。主に木製で、ステンレス製のものもあります。賽銭箱に書いている文字・お賽銭・賽銭・賽錢(旧字体。以下、旧字体除く)・賽銭箱・浄財・開運・奉納・(寺の紋)・(寺院名)・南無・一粒万倍・PayPay・R Pay・R Edy・Donation box(インドなどで確認)<< 戻る
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お賽銭(おさいせん)

お賽銭とは、お寺や神社にお参りに行った時に、賽銭箱などへお金を入れることです。ただし、2つの意味があります。一般参拝客にとっては、自分のお願いを聴いてもらおうという意味でお賽銭をしていることが多くあります。それに対して、お寺や神社側にとっては、日頃の感謝の気持ちを仏様や神様にお伝えするという意味でお賽銭をすると説明します。「賽」という字には「仏神から福を受けたのに感謝し、飲食物などを供え、儀式を行い、仏神を招き、慰めたり祈願したりする」の意味があります。もともとはお金ではなく、お米などをお供えしたそうなので「お賽」だったのでしょう。それがお金で代用されるようになり「お賽銭」になった時にも、現代...
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参拝(さんぱい)- 寺院へのお参りについて

参拝とは、敬意を表してうやうやしく寺院などの本尊に手を合わせ、頭を下げて祈ることです。その寺院に複数のお堂がある場合、まずは本堂の本尊にお参りし、他のお堂に行く機会があればそれぞれのお堂でお参りします。神社や仏教以外の宗教の参拝方法(例えば、柏手を打つ)を寺院ではしません。上記のように音をさせず、静かに手をあわせます。基本的には寺院全てに通ずるような参拝方法は少ないですが、寺院によっては参拝方法を定めているので、そこに行くからには決まりを受け入れなければいけません。参拝時、ロウソクや線香、焼香台があれば、注意書き(有料かなど)に従って利用できる寺院もあります。同様に鐘を撞くことができたり、鏧子...
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三毒(さんどく)

三毒とは、迷い苦しむ原因となる欲望のことで、煩わせる心・悟りに至る道を妨げる心のことで、人間の諸悪・苦しみの根源とされている貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを指します。その中でも癡が根本であると考えていました。邪悪。貪(とん・ラーガ(梵)・ローパ(巴))とは、貪欲(とんよく)ともいい、むさぼりや必要以上に求める心で、通常「欲」「物惜しみ」「むさぼり」と表現されます。瞋(しん・ドヴェーシャ(梵)・ドーサ(巴))とは、瞋恚(しんに)ともいい、怒りの心で、通常「いかり」「にくしみ」と表現されます。癡(ち/痴・モーハ(梵)(巴))とは、愚癡(ぐち)ともいい、真理に対する無知の心で、通常「おろかさ」と...
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サヘート・マヘート – ブッダ布教の地(祇園精舎・舎衛城)

サヘート・マヘートはブッダ布教の地として仏教の八大聖地の一つに数えられます。隣接した二つの遺跡群をまとめた呼称です。①サヘート遺跡・・・祇園精舎(祇園は「祇樹給孤独園」の略。ジェータ林(祇園)にある孤独な人々に食を給する長者の園。)②マヘート遺跡・・・舎衛城(サーヴァッティーもしくはシュラーヴァスティー)舎衛城はブッダの生きた時代にはバーセナディ王(波斯匿王)が治めるコーサラ国の首都でした。先述のように遺跡としては分けて考えられていますが、当時の感覚では大きな首都である舎衛城の中に祇園精舎があったと認識してもらった方が分かりやすいと思います。なお、祇園精舎は「阿弥陀経」が説かれた場所とされてい...
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「正法眼蔵」三時業(さんじごう)

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「正法眼蔵」三時業(さんじごう)/六十巻本

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「正法眼蔵」坐禅箴(ざぜんしん)

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三世仏(さんぜぶつ)

三世仏、三世如来とも呼ばれます。過去・現在・未来の三世に対応した仏・如来を指します。代表的なものは上掲載画像のように向かって左から、阿弥陀仏・釈迦仏・弥勒仏を、それぞれ過去・現在・未来の三世に対応させる三世仏です。この場合、阿弥陀仏は、十劫もの昔に成道した仏として過去仏に、釈迦仏は歴史上の仏として現在仏に、弥勒仏は釈迦仏入滅後56億7千万年後に現れる次の仏として未来仏に対応されています。上記と違う場合、薬師仏を過去仏に対応される例では、阿弥陀仏を未来仏に対応されていたり、その他、過去仏に釈迦仏を対応されていたり、薬師仏を対応されていたり、盧舎那仏を対応されていたり、様々な例があるようです。(浄...
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三蔵法師(さんぞうほうし)

三蔵法師(さんぞうほうし)とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した高僧のことです。また、訳経僧を指していう場合もあります。日本では中国の小説『西遊記』に登場する人物「三蔵法師」として有名ですが、三蔵法師というのは一般名詞なので、そう呼ばれる人は他にもいるということになります。<< 戻る
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梵語(サンスクリット語・梵字・悉曇)

梵語(ぼんご・サンスクリット語)とは、古代インドの文章語であり、北伝の仏教(説一切有部とその分派、ならびに大乗仏教の諸部派)に使われている言葉です(⇔南伝・巴語)。「サンスクリット」とは「完成された」「洗練された」を意味する言葉です。また、梵字は梵語を書き表すのに使われた一種の表音文字です。いろいろな字体がありますが、日本にはその中の、6世紀から9世紀にかけて中央インドを中心に用いられた流行書体である悉曇文字(しったんもじ)という字体が仏教と共につたえられました。悉曇文字には、「成就・完成」という意味があり、特に密教では、悉曇は大日如来から相承した神聖な文字であると説かれています。また、梵字は...
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サイの角(さいのつの)

サイ(犀)の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からのほめたりけなしたりする世評に煩わされることなく、ただ一人でも自分の確信に随って暮らすようにという意味が込められている。「サイの角」の譬喩によって「独り歩む修行者」「独り覚った人」の心境、生活を『スッタニパータ【第1 蛇の章】3、サイの角』で述べている。以上は初期仏教の話で、後代の仏教教学で考えた「独覚」とは必ずしも一致しないと考えられている。・スッタニパータ【第1 蛇の章】3、サイの角<< 戻る