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二葉亭四迷(ふたばていしめい)

  小説家、翻訳家。本名、長谷川辰之助。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによる。文学に理解のなか ...

福澤諭吉(ふくざわゆきち)

  、、 - )は、日本の武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。諱は範(はん)。字は子囲(しい)。新字体で福沢諭吉。主な作品『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略 ...

仏旗(ぶっき)

「青、黄、赤、自、橙」の5色の旗は仏教のシンボルで仏旗といいます。イギリス人の仏教徒オルコット大尉が、1882年(明治15年)に考案したものといわれています。 1950年(昭和25年)にスリランカのコ ...

藤田東湖(ふじたとうこ)

  江戸時代末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者。東湖神社の祭神。 生誕 文化3年3月16日(1806年5月4日) 命日 安政2年10月2日(1855年11月11日) あなたに おすす ...

福島正則(ふくしままさのり)

  は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。 生誕 永禄4年(1561年) 命日 寛永元年7月13日(1624年8月26日) 海福寺殿月翁正印大居士 ...

古田織部(ふるたおりべ/重然/しげなり)

  戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人、芸術家。通称は古田織部。豊臣秀吉・徳川家康の茶堂、徳川秀忠の茶の湯指南役。茶道織部流の祖。江戸幕府の御茶吟味役。柳営茶道の祖。南山城・ ...

佛通寺派(本山佛通寺(広島三原))の開派

応永4(1397)年、愚中周及禅師により始まる。臨済宗佛通寺派(楊岐派の禅)。 << 戻る

『仏祖統紀』

『仏祖統紀(ぶっそとうき)』は1269年に中国・南宋の僧志磐が天台宗を仏教の正統に据える立場から編纂した全54巻の仏教史書です。 次の5篇19科を立てました。 本紀(8巻)  釈迦仏伝(巻1-4)   ...

「正法眼蔵」仏道(ぶつどう)

曹渓古仏、あるとき衆にしめしていはく、慧能より七仏にいたるまで四十祖あり。 この道を参究するに、七仏より慧能にいたるまで四十仏なり。仏々祖々を算数するには、かくのごとく算数するなり。かくのごとく算数す ...

「正法眼蔵」仏経(ぶっきょう)

このなかに、教菩薩法あり、教諸仏法あり。おなじくこれ大道の調度なり。調度ぬしにしたがふ、ぬし調度をつかふ。これによりて、西天東地の仏祖、かならず或従知識、或従経巻の正当恁麼時、おのおの発意、修行、証果 ...

「正法眼蔵」仏教(ぶっきょう)

諸仏の道現成、これ仏教なり。これ仏祖の仏祖のためにするゆゑに、教の教のために正伝するなり。これ転法輪なり。この法輪の眼睛裏に、諸仏祖を現成せしめ、諸仏祖を般涅槃せしむ。その諸仏祖、かならず一塵の出現あ ...

「正法眼蔵」仏向上事(ぶっこうじょうじ)

高祖筠州洞山悟本大師は、潭州雲巖山無住大師の親嫡嗣なり。如来より三十八位の祖向上なり、自己より向上三十八位の祖なり。 大師、有時示衆云、体得仏向上事、方有些子語話分(仏向上の事を体得して、方に些子語話 ...

「正法眼蔵」仏性(ぶっしょう)

釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性、如来常住、無有変易。 これ、我らが大師釈尊の師子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏、一切諸師の頂にん眼睛なり。参学しきたること、すでに二千一百九十年[当日日本仁治二年 ...

「正法眼蔵」仏祖(ぶっそ)

宗礼 仏祖の現成は、仏祖を挙拈して奉覲するなり。過現当来のみにあらず、仏向上よりも向上なるべし。まさに仏祖の面目を保任せるを拈じて、礼拝し相見す。仏祖の功徳を現挙せしめて住持しきたり、体証しきたれり。 ...

『正法眼蔵随聞記』13、仏々祖々、皆本は凡夫なり

示して云く、仏々祖々皆本は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪業もあり、悪心もあり。鈍もあり、癡もあり。然れども皆、改めて知識に従い、教行に依りしかば、皆仏祖と成りしなり。 今の人も然るべし。我が身おろかなれば ...

『正法眼蔵随聞記』51、父母の報恩等の事

夜話の次に奘問うて云く、父母の報恩等の事、作すべきか。 示して云く、孝順はもっとも用うる所なり。ただし、その孝順に在家出家の別あり。在家は孝経等の説を守りて生をつかう。死につかうる事、世人皆知れり。出 ...

『正法眼蔵随聞記』84、仏法のためには身命をおしむ事なかれ

一日示して云く、仏法のためには身命をおしむ事なかれ。俗なお道を思えば、身命をすて親族をかえりみず忠節をつくす。是れを忠臣とも賢者とも云うなり。 昔、漢の高祖、隣国と軍を興す。時にある臣下の母、敵国にあ ...

『正法眼蔵随聞記』90、ふるく云く、君子の力は牛に勝れたり

示して云く、ふるく云く、「君子の力は牛に勝れたり。しかれども、牛とあらそわず。」と。 今の学人、我れ智恵を学人に勝れて存ずとも、人と諍論を好む事なかれ。また悪口をもて人を云い、怒目をもて人を見る事なか ...

松殿基房(まつどのもとふさ)- 藤原基房(ふじわらのもとふさ)

  平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。実名は藤原基房。藤原北家、関白・藤原忠通の五男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣。松殿家の祖。 松殿・菩提院・中山を号す。通称は松殿関白。 ...

『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)

1228年、道元禅師が中国から帰国後直ちに建仁寺にて著された『普勧坐禅儀』には坐禅の心がまえや作法などについて書かれています。 オリジナルは格調高い四六駢儷体の漢文で、坐禅の基本的な仕方から、その本旨 ...

藤原清衡(ふじわらのきよひら)

  平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。 天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が出羽国最上郡(現・山形県寒河江市)の慈恩寺を再興したという(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。阿弥 ...

芙蓉道楷(ふようどうかい)

1118/01/01   -人物
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中国・宋時代の禅僧。投子義青に就いて嗣法。弟子には丹霞子淳がいる。 ・「芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。国主より定照禅師号ならびに紫袍をたまふに、祖、うけず、修表具辞す。国主とがめあれども、師 ...

扶桑略記

  扶桑略記(ふそうりゃくき)とは、1094年(寛治8年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされる私撰歴史書ですが、異説もあります。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二 ...

藤原頼通(ふじわらのよりみち)

  平安時代中期から後期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位、摂政、関白、太政大臣、准三宮。父・道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける ...

浮山法遠(ふさんほうおん)

1067/01/01   -人物
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中国・宋時代の禅僧。葉県帰省に就いて嗣法。その後、大陽警玄の下で修業を続け、ここでもその力量を認められらがらも、既に嗣法していたため、嗣ぐに相応しい弟子のいない大陽警玄の法を預かり、その後、投子義青に ...

藤原道長(ふじわらのみちなが)

  平安時代の中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。 父・兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼と ...

補陀落渡海のはじまり

868年11月3日、慶龍上人が熊野那智より渡海したのが一番古い記録です(「熊野年代記」)。補陀洛山寺は「補陀落渡海(ふだらくとかい)」の出発点だったことで知られています。 「補陀落」とはサンスクリット ...

南泉普願(なんせんふがん)

  中国唐の時代の禅僧。鄭州新鄭県の出身。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には趙州従諗、長沙景岑がいる。 南泉山に禅院を構え、30数年間、南泉山を下ることがなかった。大和元年(827年)頃、宣歙観 ...

普寂(ふじゃく)

  中国唐の時代。蒲州河東県出身。中国禅宗・北宗の二祖。大通神秀に就いて嗣法。弟子には道璿、宏正(弘正)、一行がいる。諡は大照禅師。別名は華厳尊者、両京法主、三帝国師。 法華・唯識・律を学び ...

藤原不比等(ふじわらのふひと)

  飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡 ...

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)

  飛鳥時代の政治家。日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。 大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の礎を築いた。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀 ...

仏教興隆の詔

594年、推古天皇が仏教を盛んにする詔を出す。これにより仏法僧の三宝を興隆させ、氏寺の建立が盛んになったといわれている。 594年という年代は推古2年で、初めての女性天皇である推古天皇のもと、聖徳太子 ...



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