何を基準に物事を見ているか

仏教を学ぶ

スッタニパータ – ブッダの言葉

かの尊き師・尊き人、覚った人に礼したてまつる。【 第1 蛇の章 】1、蛇1 身体に蛇の毒がひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。蛇が脱皮してふるい皮を捨て去るように。2 池の蓮華を水にもぐって折り取るように、愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 蛇が脱皮してふるい皮を捨て去るように。3 流れる妄執の水をからし尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。蛇が脱皮してふるい皮を捨て去るように。4 激流が弱々しい葦の橋を壊すように、すっかり驕慢を滅し尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去...
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「正法眼蔵」道心(どうしん)

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「正法眼蔵」生死(しょうじ)

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『典座教訓』19、親心は無償の心

いわゆるろうしんとは、いわゆる老心とは、ふぼのこころなり。たとえば父母の心なり。たとえばふぼのいっしをおもうがごとく、父母の一子を念うがごとく、さんぼうをそんねんすること三宝を存念することいっしをおもうがごとくせよ。一子を念うが如くせよ。ひんじゃきゅうしゃ、あながちにいっしを貧者窮者、強に一子をあいいくす。そのこころざしいかん。愛育す。其の志如何。げにんしらず。ちちとなり外人識らず、父と作りははとなってまさにこれをしる。母と作って方に之を識る。じしんのひんぷをかえりみず、自身の貧富を顧みず、ひとえにわがこの偏えに吾が子のちょうだいならんことをおもう。長大ならんことを念う。おのさむきをかえりみず...
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『典座教訓』17、ただ自然に変わっていくだけ

もしことをたっとぶべきものならば、若し事を貴ぶべき者ならば、ごどうのことをたっとぶべし。悟道の事を貴ぶべし。もしときをたっとぶべきものならば、若し時を貴ぶべき者ならば、ごどうのときをたっとぶべきものか。悟道の時を貴ぶべき者か。ことをしたいみちをたのしむのあと、事を慕い道を耽しむの跡、しゃをにぎってたからとする、沙を握って宝と為る、なおそのしるしあり。猶お其の験有り。かたちをもしてらいをなす、形を模して礼を作す、しばしばそのかんをみる。屡其の感を見る。いかにいわんやそのしょくこれおなじく、何に況んや其の職是れ同じく、そのしょうこれいつなるをや。其の称是れ一なるをや。そのじょうそのごう、其の情其の...
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『典座教訓』14、修行は日々の足下にある

しらずんばあるべからず。知らずんばあるべからず。おもうべし想うべしふさいよくしょうたいをやしない、莆菜能く聖胎を養い、よくどうがをしょうずることを。能く道芽を長ずることを。いやしとなすべからず、賤しと為すべからず、かろしとなすべからず。軽ろしと為すべからず。にんでんのどうし、ふさいの人天の導師、莆菜のけやくをなすべきものなり。また化益を為すべき者なり。又たしゅそうのとくしつを衆僧の得失をみるべからず、見るべからず、しゅそうのろうしょうを衆僧の老少をかえりみるべからず。顧みるべからず。じなおじのらくしょをしらず、自猶お自の落処を知らず、たいかでかたの佗争でか佗のらくしょをしることをえんや。落処を...
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『典座教訓』5、菜っ葉も伽藍も上下なし

にょほうにとうたし、くわにいれて如法に洮汰し、鍋に納れてひをたきはんをむす。いにしえにいわく、火を燒き飯を蒸す。古に云く「はんをむすくわじゅうをじじゅうとなし「飯を蒸す鍋頭を自頭となしこめをゆりてみずはこれ米を淘りて水は是れしんめいなりとしる」と。身命なりと知る」と。むしおわるはんはすなわちはんらりに蒸し了る飯は便ち飯籮裏におさめ、すなわちはんおけにおさめて、収め、乃ち飯桶に収めて、たいばんのうえにあんぜよ。抬槃の上に安ぜよ。さいこうとうをちょうべんすること、まさ菜羮等を調弁すること、応にはんをむすじせつにあたるべし。に飯を蒸す時節に当るべし。てんぞしたしくはんこうをみて、典座親しく飯羮を見て...
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『典座教訓』3、米を洗うことも修行のうち

『ぜんえんしんぎ』にいわく、『禅苑清規』に云く、ろくみしょうならず、さんとくたらざ「六味精ならず、三徳給らざるは、てんぞのしゅうにぶするるは、典座の衆に奉するしょいにあらず」と。所以にあらず」と。まずこめをみんとししてすなわち先ず米を看んとして便ちしゃをみ、まずしゃをみんとして砂を看、先ず砂を看んとしてすなわちこめをみる。便ち米を看る。しんさいにみきたりみさって、審細に看来り看去って、ほうしんすべからずんば、放心すべからずんば、じねんにさんとくえんまんし、自然に三徳円満し、ろくみともにそなわらん。六味倶に備らん。せっぽう、とうざんにあって、てんぞと雪峰、洞山に在って典座となる。いちにちこめをゆ...
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『正法眼蔵随聞記』8、人法門を問う

一日示して云く、人、法門を問う、あるいは修行の方法を問うことあらば、衲子はすべからく実を以て是れを答うべし。若しくは他の非器を顧み、あるいは初心末入の人意得べからずとて、方便不実を以て答ふべからず。菩薩戒の意は、たとひ小乗の器、小乗の道を問うとも、ただ大乗を以て答うべきなり。如来一期の化儀も尓前方便の権教は実に無益なり。ただ最後実教のみ実に益あるなり。しかれば、他の得不得を論ぜず、ただ実を以て答うべきなり。もしこの中の人を見ば、実徳を以て是れをうる事を得べし。仮徳を以てうる事を得べし。外相仮徳を以て是れを見るべからず。昔、孔子に一人有って来帰す。孔子問うて云く、「汝何を以てか来って我れに帰する...
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『正法眼蔵随聞記』46、学人問うて云く某甲なお学道心に繋けて

一日学人問うて云く、「某甲なを学道心に繋けて年月を運ぶといえども、いまだ省悟の分あらず。古人多く道う、聡明霊利に依らず、有知明敏をも用いずと。しかあれば、我が身下根劣智なればとて卑下すべきにもあらずと聞こえたり。もし故実用心の存ずべきようありや、如何。」示して云く、しかあり。有智高才を須いず霊利弁聡に頼らず。実の学道あやまりて盲聾癡人のごとくになれとすすむ。全く多聞高才を用いざるが故に下々劣器ときらうべからず。実の学道はやすかるべきなり。しかあれども、大宋国の叢林にも、一師の会下に数百千人の中に、実の得道得法の人はわずか一二なり。しかあれば、故実用心もあるべき事なり。今これを案ずるに、志の至る...
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『正法眼蔵随聞記』30、学道の人、衣粮を煩わす事なかれ

示して云く、学道の人、衣粮を煩わす事なかれ。ただ仏制を守って、心を世事に出す事なかれ。仏言く、「衣服に糞掃衣あり、食に常乞食あり。」と。いづれの世にかこの二事尽くる事有らん。無常迅速なるを忘れて徒らに世事に煩ふ事なかれ。露命のしばらく存ぜる間、ただ仏道を思うて余事を事とする事なかれ。ある人問うて云く、「名利の二道は捨離し難しと云えども、行道の大なる礙なれば捨てずんばあるべからず。故に是れを捨つ。衣粮の二事は小縁なりと云えども、行者の大事なり。糞掃衣、常乞食、是れは上根の所行、また是れ西天の風流なり。神丹の叢林には常住物等あり。故にその労なし。我が国の寺院には常住物なし。乞食の儀も即ち絶えたり、...
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『正法眼蔵随聞記』85、学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ

示して云く、学道の人は吾我のために仏法を学する事なかれ。ただ仏法のために仏法を学すべきなり。その故実は、我が身心を一物ものこざず放下して、仏法の大海に廻向すべきなり。その後は一切の是非を管ずる事なく、我が心を存ずる事なく、成し難き事なりとも仏法につかわれて強いて是れをなし、我が心になしたき事なりとも、仏法の道理に為すべからざる事ならば放下すべきなり。あなかしこ、仏道修行の功をもて代わりに善果を得んと思う事なかれ。ただ一たび仏道に廻向しつる上は、二たび自己をかえりみず、仏法のおきてに任せて行じゆきて、私曲を存ずる事なかれ。先証皆是の如し。心に願いて求むる事なければ即ち大安楽なり。世間の人にまじわ...
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『正法眼蔵随聞記』29、人は思い切って命をも捨て

示して云く、人は思い切って命をも捨て、身肉手足をも斬る事は中々せらるるなり。然れば、世間の事を思い、名利執心の為にも、是のごとく思うなり。ただ依り来る時に触れ、物に随って心品を調うる事難きなり。学者、命を捨つると思うて、しばらく推し静めて、云うべき事をも修すべき事をも、道理に順ずるか順ぜざるかと案じて、道理に順ぜばいいもし、行じもすべきなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を...
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『正法眼蔵随聞記』39、学道の人は人情をすつべきなり

夜話に云く、学道の人は人情をすつべきなり。人情を捨つると云うは、仏法に順じ行ずるなり。世人多くは小乗根性なり。善悪を弁じ是非を分ち、是を取り非を捨つるはなお是れ小乗の根性なり。ただ世情を捨つれば仏道に入るなり。仏道に入るには善悪を分ち、よしと思い、あししと思う事を捨て、我が身よからん、我が心何とあらんと思う心を忘れ、善くもあれ悪しくもあれ、仏祖の言語行履に順い行くなり。我が心に善しと思い、また世人のよしと思う事、必ずよからず。然れば、人目も忘れ、心をも捨て、ただ仏教に順い行くなり。身も苦しく、心も患とも、我が身心をば一向に捨てたるものなればと思うて、苦しく愁つべき事なりとも、仏祖先徳の行履なら...
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『正法眼蔵随聞記』54、近代の僧侶

一日請益の次に云く、近代の僧侶、多く世俗に従うべしと云う。思うに然らず。世間の賢すらなお民俗に随う事を穢れたる事と云って、屈原の如きは「皆酔えり。我れは独醒めたり。」とて、民俗に随わずしてついに滄浪に没す。況んや仏法は、事々皆世俗に違背せるなり。俗は髪をかざる、僧は髪を剃る、俗は多く食す、僧は一食するすら、皆そむけり。然して後、還って大安楽人なり。故に一切世俗に背くべきなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらが...
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『正法眼蔵随聞記』77、三覆して後に云え

示して云く、「三覆して後に云え。」と云う心は、おおよそ物を云わんとする時も、事を行わんとする時も、必ず三覆して後に言い行うべし。先儒多くは三たび思いかえりみるに、三たびながら善ならば云い行なえと云うなり。宋土の賢人等の心は、三覆をばいくたびも覆せよと云うなり。言よりさきに思い、行よりさきに思い、思う時に必ずたびごとに善ならば、言行すべしとなり。衲子もまた必ずしかあるべし。我れながら思う事も云う事も、主にも知られずあしき事もあるべき故に、先ず仏道にかなうや否やとかえりみ、自他の為に益ありやいなやと能々思いかえりみて後に、善なるべければ、行いもし言いもすべきなり。行者もしこの心を守らば、一期仏意に...
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『正法眼蔵随聞記』79、世間の人多分云く

また云く、世間の人多分云く、「学道の志あれども世のすえなり、人くだれり。我が根劣なり。如法の修行に堪うべからず。ただ随分にやすきにつきて結縁を思い、他生に開悟を期すべし。」と。今は云く、この言う事は、全く非なり。仏法に正像末を立つ事、しばらく一途の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れるたるにあらず。不可思議に希有に浅増しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給う事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の機なり。非器なりと思う事なかれ。依行せば必ず得べきなり。既に心あれば善悪を分別しつべし。手足あり、合掌行歩にかけたる事あるべからず。仏法...
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『正法眼蔵随聞記』96、先師全和尚入宋せんとせし時

示して云く、先師全和尚、入宋せんとせし時、本師叡山の明融阿闍梨、重病に沈み、既に死なんとす。その時この師云く、「我れ既に老病に沈み、死去せんとする事近きにあり。汝一人老病をたすけて、冥路をとぶらうべし。今度の入唐暫く止まって、死去の後その本意をとげらるべし。」と。時に先師、弟子及び同朋等をあつめて商議して云く、「我れ幼少の時双親の家を出でて後、この師の覆育を蒙って今成長せり。世間養育の恩もっとも重し。また出世の法門の事、大小権実の教文、因果をわきまえ是非を知って、等輩にもこえ、名誉を得たる事も、また仏法の道理を知って、今入宋求法の志をおこすまでも、彼の恩にあらずと云う事なし。然るに今年すでに窮...
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『正法眼蔵随聞記』98、人の心元より善悪なし

一日雑話の次に云く、人の心元より善悪なし。善悪は縁に随っておこる。仮令、人発心して山林に入る時は、林家はよし、人間はわるしと覚ゆ。また退心して山林を出る時は、山林はわるしと覚ゆ。是れ即ち決定して心に定相なくして、縁にひかれて兎も角もなるなり。故に善縁にあえばよくなり、悪縁に近づけばわるくなるなり。我が心本よりわるしと思うことなかれ。ただ善縁に随うべきなり。また云く、人の心は決定人の言に随うと存ず。大論に云く、「喩えば愚人の手に摩尼を以てるが如し。是れを見て、『汝下劣なり、自ら手に物をもてり。』と云うを聞いて思わく、『珠は惜しし、名聞は有り。我れは下劣ならじ。』と思う。思いわずらいて、なお名聞に...
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『正法眼蔵随聞記』27、祖席に禅話を覚り得る故実

夜話に云く、祖席に禅話を覚り得る故実は、我が本より知り思う心を、次第に知識の言に随って改めて去くなり。仮令仏と云うは、我が本知ったるようは、相好光明具足し、説法利生の徳ありし釈迦弥陀等を仏と知ったりとも、知識もし仏と云うは蝦蟆蚯蚓ぞと云わば、蝦蟆蚯蚓を、是れらを仏と信じて、日比の知恵を捨つるなり。この蚯蚓の上に仏の相好光明、種々の仏の所具の徳を求むるもなお情見あらたまらざるなり。ただ当時の見ゆる処を仏と知るなり。もし是の如く言に従って、情見本執をあらためてもて去けば、自ら合う処あるべきなり。然るに近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがう時は、仏とはとこそあるべけれ、また我が存ずるようにたが...
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『正法眼蔵随聞記』33、もし人来って用事を云う中に

夜話に云く、もし人来って用事を云う中に、あるいは人に物を乞い、あるいは訴訟等の事をも云わんとて、一通の状をも所望する事出来有るに、その時、我は非人なり、遁世籠居の身なれば、在家等の人に非分の事を謂わんは非なりとて、眼前の人の所望を叶えぬは、その時に臨み思量すべきなり。実に非人の法には似たれども、然有らず。その心中をさぐるに、なお我れは遁世非人なり、非分の事を人に云はば人定めて悪しく思いてんと云う道理を思うて聞かざらんは、なお是れ我執名聞なり。ただ眼前の人の為に、一分の利益は為すべからんをば、人の悪しく思わん事を顧みず為すべきなり。このこと非分なり、悪しとてうとみもし、中をも違わんも、是のごとき...
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『正法眼蔵随聞記』44、学道の人、世間の人に智者もの知りと知られては無用なり

夜話に云く、学道の人、世間の人に、智者もの知りと知られては無用なり。真実求道の人の一人もあらん時は、我が知るところの仏祖の法を説かざる事あるべからず。たとひ我れを殺さんとしたる人なりとも、真実の道を聞かんと、真の心を以て問わんには、怨心を忘れて為に是れを説くべきなり。その外は、教家の顕密及び内外の典籍等の事、知ったる気色して全く無用なり。人来って是の如き事を問うに、知らずと答えたらんに一切苦しかるべからざるなり。それを、物知らぬはわろしと人も思い、愚人と自らも覚ゆる事を傷れで、物を知らんとて博く内外典を学し、剰え世間世俗の事をも知らんと思うて、諸事を好み学し、あるいは人にも知ったる由をもてなす...
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『正法眼蔵随聞記』45、今この国の人は

夜話に云く、今この国の人は、多分あるいは行儀につけ、あるいは言語につけ、善悪是非、世人の見聞識知を思うて、その事をなさば人あしく思いてん、その事は人よしと思いてん、乃至向後までもと執するなり。是れまた全く非なり。世間の人、必ずしも善とする事あたはず。人はいかにも思わば思え、狂人とも云え、我が心に仏道に順じたらばなし、仏法にあらずは行ぜずして一期をもすごさば、世間の人はいかに思うとも、苦しかるべからず。遁世と云うは、世人の情を心にかけざるなり。ただ仏祖の行履、菩薩の慈行を学行して、諸天善神の冥にてらす処に慚愧して、仏制に任せて行じもてゆかば、一切苦しかるまじきなり。さればとてまた、人のあししと思...
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『正法眼蔵随聞記』23、昔、魯の仲連

夜話に云く、昔、魯の仲連と云う将軍ありて、平原君が国にあって能く朝敵を平らぐ。平原君賞して数多の金銀等を与えしかば、魯の仲連辞して云く、「ただ将軍の道なれば敵を討つ能を成すのみ。賞を得て物を取らんとにはあらず。」と謂って、敢て取らずと言う。魯仲連が廉直とて名誉の事なり。俗なお賢なるは、我れその人としてその道の能を成すばかりなり。代わりを得んと思わず。学人の用心も是のごとくなるべし。仏道に入りては仏法の為に諸事を行じて、代りに所得あらんと思うべからず。内外の諸教に、皆無所得なれとのみ進むるなり。心を取る。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありま...
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『正法眼蔵随聞記』26、昔、智覚禅師と云し人

示して云く、昔、智覚禅師と云し人の発心出家の事、この師は初めは官人なり。富に誇るに正直の賢人なり。有る時、国司たりし時、官銭を盗んで施行す。傍の人、是れを官奏す。帝、聴いて大いに驚きあやしむ。諸臣皆あやしむ。罪過すでに軽からず。死罪に行なはるべしと定まりぬ。爰に帝、議して云く、「この臣は才人なり、賢者なり。今ことさらにこの罪を犯す、もし深き心有らんか。もし頚を斬らん時、悲しみ愁たる気色あらば、速やかに斬るべし。もしその気色なくんば、定めて深き心あり。斬るべからず。」勅使ひきさりて斬らんと欲する時、少しも愁の気色なし。返りて喜ぶ気色あり。自ら云く、「今生の命は一切衆生に施す。」と。使、驚きあやし...
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『正法眼蔵随聞記』22、故鎌倉の右大将

また物語に云く、故鎌倉の右大将、始め兵衛佐にて有りし時、内府の辺に一日はれの会に出仕の時、一人の不当人在りき。その時、大納言のおほせて云く、「是れを制すべし。」と。大将の云く、「六波羅におほせらるべし。平家の将軍なり。」大納言の云く、「近々なれば。」大将の云く、「その人にあらず。」と。是れ美言なり。この心にて、後に世をも治めたりしなり。今の学人もその心あるべし。その人にあらずして人を呵する事なかれ。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集...
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『正法眼蔵随聞記』95、泉大道の云く

一日参の次に示して云く、泉大道の云く、「風に向って坐し、日に向って眠る。時の人の錦被たるに勝れり。」と。この言葉、古人の語なれども少し疑いあり。時の人と云うは、世間貪利の人を云うか。もし然らば、敵対もっともくだれり。何ぞ云うに足らん。もし学道の人を云うか。然らば何ぞ錦を被ると云わん。この心をさぐるに、なお被を重くする心有りやと聞ゆ。聖人はしからず。金玉と瓦礫と等しくす。執する事なし。故に釈迦如来、牧牛女が乳の粥を得ても食し、馬麦を得ても食す。何も等しくす。法に軽重なし。情愛に浅深あり。今の世に金玉を重しとて人の与うれども取らず、木石をば軽しとて是れを愛するもあり。思うべし、金玉も本来土中より得...
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『正法眼蔵随聞記』78、善悪と云う事定め難し

また云く、善悪と云う事定め難し。世間の綾羅錦繍をきたるをよしと云い、麁布糞掃をわるしと云う、仏法には是れをよしとし清しとす。金銀錦綾をわるしとし穢れたりとす。是のごとく一切の事に渡りて皆然り。予が如きは聊か韵声を整え、文字をかきまぐるを、俗人等は尋常なる事に云うもあり。またある人は、出家学道の身として是の如き事知れると、そしる人もあり。何れをか定めて善ととり悪とすつべきぞ。文に云く、「ほめて白品の中にあるを善と云う。そしりて黒品の中におくを悪と云う。」と。また云く、「苦を受くべきを悪と云い、楽を招くべきを善と云う。」と。是のごとく子細に分別して、真実の善をとって行じ、真実の悪を見てすつべきなり...
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『正法眼蔵随聞記』20、犯戒と言うは受戒以後の所犯を道うか

奘問うて云く、犯戒と言うは、受戒以後の所犯を道うか、ただしまた未受以前の罪相をも犯戒と道うべきか。師答えて云く、犯戒の名は受後の所犯を道うべし。未受以前所作の罪相をばただ罪相、罪業と道って犯戒と道うべからず。問うて云く、四十八軽戒の中に、未受戒の所犯を犯と名づくと見ゆ。如何。答えて云く、然らず。彼の未受戒の者、今受戒せんとする時、所造の罪を懺悔する時、今の戒に望めて十戒等を授くるに、軽戒を犯せるを犯すと云うなり。以前所造の罪を犯戒と云うにあらず。問うて云く、今受戒せん時、所造の罪を懺悔せん為に、未受の者をして懺悔せしむるに、「十重四十八軽戒を教えて読誦せしむべし。」と見えたり。また下の文に、「...
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『正法眼蔵随聞記』100、俗の野諺に云く

示して云く、俗の野諺に云く、「唖せず聾せざれば家公とならず。」と。云う心は、人の毀謗をきかず、人の不可を云わざればよく我が事を成ずるなり。是のごとくなる人を、家の大人とす。是れ即ち俗の野諺なりと云えども、取って衲僧の行履としつべし。他のそしりにあわず、他の恨みにあわず、いかでか我が道を行ぜん。徹得困の者、是れを得べし。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふり...
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『法句経』ダンマパダ【 第26章 バラモン 】

383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。384 バラモンが二つの事柄(止と観)について彼岸に達し、完全になったならば、彼はよく知る人であるので、彼の束縛は全て消え失せるであろう。385 彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、彼を我はバラモンと呼ぶ。386 静かに思い、塵垢なく、落ち着いて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、彼を我はバラモンと呼ぶ。387 太陽は昼に輝き、月は夜に照し。武士は鎧を着て輝き、バラモンは瞑想に専念して輝く。しかしブッ...
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『法句経』ダンマパダ【 第18章 汚れ 】

235 あなたはいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまたあなたに近づいた。あなたはいま死出の門路に立っている。しかしあなたには旅の資糧さえも存在しない。236 だから、自己の拠り所をつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。237 あなたの生涯は終りに近づいた。あなたは、閻魔王の近くに赴いた。あなたには、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。238 だから、自己の拠り所をつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、あなたはもはや生と老いとに近づかないであろう。239 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ご...