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『正法眼蔵随聞記』96、先師全和尚入宋せんとせし時

投稿日:1235年6月11日 更新日:

示して云く、先師全和尚、入宋せんとせし時、本師叡山の明融阿闍梨、重病に沈み、既に死なんとす。
その時この師云く、「我れ既に老病に沈み、死去せんとする事近きにあり。汝一人老病をたすけて、冥路をとぶらうべし。今度の入唐暫く止まって、死去の後その本意をとげらるべし。」と。

時に先師、弟子及び同朋等をあつめて商議して云く、「我れ幼少の時双親の家を出でて後、この師の覆育を蒙って今成長せり。世間養育の恩もっとも重し。また出世の法門の事、大小権実の教文、因果をわきまえ是非を知って、等輩にもこえ、名誉を得たる事も、また仏法の道理を知って、今入宋求法の志をおこすまでも、彼の恩にあらずと云う事なし。然るに今年すでに窮老して、重病の床に臥し給えり。余命存じがたし。後会期すべきにあらず。よってあながちに是れをとどむ。彼の命もそむき難し。今身命を顧みず入宋求法するも、菩薩の大悲利生の為なり。彼の命にそむき、宋土にゆかん道理如何。各々存知をのべらるべし。」

時に人々皆云く、「今年の入宋止るべし。老病已に窮れり、死去定なり。今年ばかり止って、明年の入宋もっとも然るべし。彼の命をもそむかず、重恩をも忘れず、今一年半年の入宋の遅々、何のさまたげかあらん。師弟の本意も相違せず、入宋の本意も如意なるべし。」

時に我れ、末臘にて云く、「仏法の悟り、今はさて有りなんとおぼしめさるる義ならば、御とどまり然るべし。」
先師の云く、「然んなり、仏法修行のみち、是れほどにてさてもありなんと存ず。始終是のごとくならば、さりとも出離、などかと存ず。」
我れ云く、「その義ならば御とどまりあるべし。」
時に先師、皆の議をはりて云く、「各々の議定、皆とどまるべき道理なり。我が所存は然らず。今度止りたりとも、決定死ぬべき人ならば、それによりて命のぶべからず。また、我れとどまりて看病外護せんによりて、苦痛もやむべからず。また最後に我があつかい勧めんによりて決定生死を離るべき道理にもなし。ただ一旦命に随いたるうれしさばかりか。是れによりて出離得道の為に一切無用なり。誤って求法の志をさえて、罪業の因縁となるべし。然るに、もし入宋求法の志をとげて、一分の悟りをも開きたらば、一人有漏の迷情にこそたがうとも、多人得道の縁となるべし。功徳もし勝れば、また師の恩報じつべし。たとひまた渡海の間に死にて本意をとげずとも、求法の志をもて死せば、玄奘三蔵のあとをも思うべし。一人の為にうしないやすき時を空しくすぐさん事、仏意にかなうべからず。よって今度の入宋、一向に思い切りおわりぬ。」とて、終に入宋しき。

先師にとりて真実の道心と存ぜし事、是等の心なり。然れば、今の学人も、あるいは父母の為、あるいは師匠の為に、無益の事を行じて、徒らに時を失い、勝れたる道を指しおきて、光陰をすぐす事なかれ。

時に奘云く、真実求法の為には、有漏の父母師僧の障縁をすつべき道理、然るべし。ただし、父母恩愛等のかたおば一向に捨離すとも、また菩薩の行を存ぜん時、自利をさしおきて、利他をさきとすべきか。然るに老病にしてまた他人のたすくべきもなく、我れ一人その人にあたりたるを、自らの修行を思って彼をたすけずは、菩薩の行にそむくか。また大士の善行を嫌うべからず。縁に対して事に随って、仏法を存ずべきか。もし是れらの道理によらば、またゆいてたすくべきか、如何。

示して云く、利他の行も自行の道も、劣なるを捨てて、勝れたるを取るは大土の善行なり。老病をたすけんとて水菽の孝を至すは、今生暫時の妄愛迷情の悦びばかりなり。背きて無為の道を学せんは、たとひ遺恨はありとも、出世の縁となるべし。是れを思え、是れを思え。

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『正法眼蔵随聞記』

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