【仏教用語/人物集 索引】

『正法眼蔵随聞記』33、もし人来って用事を云う中に

投稿日:1235年6月11日 更新日:

夜話に云く、もし人来って用事を云う中に、あるいは人に物を乞い、あるいは訴訟等の事をも云わんとて、一通の状をも所望する事出来有るに、その時、我は非人なり、遁世籠居の身なれば、在家等の人に非分の事を謂わんは非なりとて、眼前の人の所望を叶えぬは、その時に臨み思量すべきなり。

実に非人の法には似たれども、然有らず。その心中をさぐるに、なお我れは遁世非人なり、非分の事を人に云はば人定めて悪しく思いてんと云う道理を思うて聞かざらんは、なお是れ我執名聞なり。ただ眼前の人の為に、一分の利益は為すべからんをば、人の悪しく思わん事を顧みず為すべきなり。このこと非分なり、悪しとてうとみもし、中をも違わんも、是のごとき不覚の知音中違ん、何か悪かるべき。顕には非分の僻事をすると人には見ゆれども、内には我執を破って名聞を捨つる、第一の用心なり。

仏菩薩は、人の来って云う時は、身肉手足をも斬るなり。況んや人来って一通の状を乞わん、少分の悪事の名聞ばかりを思うてその事を聞かざらんは我執の咎なり。人は「ひじりならず、非分の要事云う人かな。」と、所詮なく思うとも、我れは名聞をすて、一分の人の利益とならば、真実の道に相応すべきなり。古人もその義あるかと見ゆること多し。予もその義を思う。少々檀那知音の思いかけざる事を人に申し伝えてと云うをば、紙少分こそ入れ、一分の利益をなすは、やすき事なり。

奘問うて云く、この事、実に然なり。ただし善き事に人の利益とならん事を、人にも云い伝えんはさるべし。もし僻事を以て人の所帯を取らんと思い、あるいは人の為に悪しき事を云うをば、云い伝うべきか、如何。

師答えて云く、理非等の事は我が知るべきにあらず。ただ一通の状を乞えば与うれども、理非に任せて沙汰すべき由、云う人にも、状にも載すべし。請け取って沙汰せん人こそ、理非をば明らむべけれ。我が分上にあらず。是の如き事を理を柾げて人に云わん事、また非なり。また現の僻事なれども、我れを大事にも思う人の、この人の云わん事は善悪違えじと思うほどの知音檀那の処へ、僻事を以て不得心の所望をなさば、それをば、今の人の所望ば、一往聞くとも、彼の状にも、去り難く申せば申すばかりなり、道理に任せて沙汰あるべしと云うべきなり。一切に是なれば、彼もこれも遺恨あるべからざるなり。

是の如き事、人に対面をもし、出来る事に任せて能々思量すべきなり。所詮は事に触れて名聞我執を捨つべきなり。

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『正法眼蔵随聞記』

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