【仏教用語/人物集 索引】

『正法眼蔵随聞記』98、人の心元より善悪なし

投稿日:1235年6月11日 更新日:

一日雑話の次に云く、人の心元より善悪なし。善悪は縁に随っておこる。仮令、人発心して山林に入る時は、林家はよし、人間はわるしと覚ゆ。また退心して山林を出る時は、山林はわるしと覚ゆ。是れ即ち決定して心に定相なくして、縁にひかれて兎も角もなるなり。故に善縁にあえばよくなり、悪縁に近づけばわるくなるなり。我が心本よりわるしと思うことなかれ。ただ善縁に随うべきなり。

また云く、人の心は決定人の言に随うと存ず。
大論に云く、「喩えば愚人の手に摩尼を以てるが如し。是れを見て、『汝下劣なり、自ら手に物をもてり。』と云うを聞いて思わく、『珠は惜しし、名聞は有り。我れは下劣ならじ。』と思う。思いわずらいて、なお名聞にひかれて、人の言について珠をおいて、後に下人に取らしめんと思うほどに珠を失う。」と云う。

人の心は是のごとし。一定この事我が為によしと思えども、人の語につく事あり。されば、何に本よりあしき心なりとも、善知識に随い、良き人の久しく語るを聞けば、自然に心もよくなるなり。悪人に近づけば、我が心にわるしと思えども、人の心に暫く随うほどに、やがて真実にわるくなるなり。

また、人の心、決定して物をこの人にとらせじと思えども、あながちにしいて切に重ねて云えば、にくしと思いながら与うるなり。決定して与えんと思えども、便宜あしくて時すぎぬれば、さてやむ事も有り。

然らば、学人道心なくとも、良き人に近づき、善縁にあうて、同じ事をいくたびも聞き見るべきなり。この言一度聞き見れば、今は見聞かずともと思う事なかれ。道心一度発したる人も、同じ事なれども、聞くたびにみがかれて、いよいよよきなり。いわんや無道心の人も、一度二度こそつれなくとも、度々重なれば、霧の中を行く人の、いつぬるると覚えざれども、自然に恥る心もおこり、真の道心も起るなり。

故に、知りたる上にも聖教をまたまた見るべし、聞くべし。師の言も、聞きたる上にも聞きたる上にも重ね重ね聞くべし。いよいよ深き心有るなり。道の為にさわりとなりぬべき事をば、かねて是れに近づくべからず。善友にはくるしくわびしくとも近づきて、行道すべきなり。

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『正法眼蔵随聞記』

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