【仏教用語/人物集 索引】

『典座教訓』14、修行は日々の足下にある

投稿日:1237年8月13日 更新日:

しらずんばあるべからず。
知らずんばあるべからず。

おもうべし
想うべし

ふさいよくしょうたいをやしない、
莆菜能く聖胎を養い、

よくどうがをしょうずることを。
能く道芽を長ずることを。

いやしとなすべからず、
賤しと為すべからず、

かろしとなすべからず。
軽ろしと為すべからず。

にんでんのどうし、ふさいの
人天の導師、莆菜の

けやくをなすべきものなり。また
化益を為すべき者なり。又た

しゅそうのとくしつを
衆僧の得失を

みるべからず、
見るべからず、

しゅそうのろうしょうを
衆僧の老少を

かえりみるべからず。
顧みるべからず。

じなおじのらくしょをしらず、
自猶お自の落処を知らず、

たいかでかたの
佗争でか佗の

らくしょをしることをえんや。
落処を識ることを得んや。

じのひをもってたのひとなす、
自の非を以て佗の非と為す、

あにあやまらざらんや。
豈に誤らざらんや。

ぎねんばんしん、
耆年晩進、

そのかたちことなりといえども、
其の形異なりと雖も、

うちぐもうも、そうほうこれおなじ。
有智愚朦も、僧宝是れ同じ。

またさくはひなるもいまはこれ、
また昨は非なるも今は是、

しょうぼんだれかしらん。
聖凡誰か知らん。

『ぜんえんしんぎ』にいわく、
禅苑清規』に云く、

「そうはぼんしょうとなく
「僧は凡聖と無く

じっぽうにつうえす。」と。
十方に通会す。」と。

もしいっさいのぜひあるも、
若し一切の是非有るも、

これをかんすることなかれ。
之を管すること莫れ。

しいきなんぞじきしゅむじょうぼだいの
志気那ぞ直趣無上菩提の

どうごうにあらざらんや。
道業に非らざらんや。

もしこうらいのいっぽをあやまらば、
如し向来の一歩を錯らば、

すなわちたいめんしてしゃかせん。
便ち対面して蹉過せん。

こじんのこつずい、まったくかくのごとき
古人の骨髄、全く恁のごとき

のくふうをなすのところにあり。
功夫を作すの処に在り。

こうだいとうしょくをつっかさどる
後代当職を掌る

ひんでいも、またこのごときの
兄弟も、また恁のごときの

くふうをなしてはじめてえん。
功夫を作して始めて得ん。

ひゃくじょうこうそのきじょう、
百丈高祖の規縄、

あにきょねんならんや。
豈に虚然ならんや。

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