【仏教用語/人物集 索引】

『典座教訓』13、まず心をこめて行ずること

投稿日:1237年8月13日 更新日:

まことにそれとうしき、
誠に夫れ当職、

せんもんげんしょう、
先聞現証、

めにありみみにあり。
眼に在り耳に在り。

もじありどうりあり。
文字有り道理有り。

しょうてきというべきか。たとい
正的と謂うべきか。縦い

しゅくはんじゅうのなをかたじけのうせば
粥飯頭の名を忝うせば、

しんじゅつもまたこれにどうずべし、
心術も亦之に同ずべし、

『ぜんえんしんぎ』にいわく、
禅苑清規』に云く、

「にじのしゅくはん、りすること
「二時の粥飯、理すること

まさにせいほうなるべし。
合に精豊なるべし。

しじのくすべからくけっしょう
四事の供すべからく闕少

せしむることなかるべし。
せしむること無かるべし。

せそん20ねんのいおん、
世尊二十年の遺恩、

じそんをがいふくす。
児孫を蓋覆す。

びゃくごうこういちぶんのくどく、
白毫光一分の功徳

じゅゆうふじん」と。
受用不尽」と。

しかあればすなわち
然あれば則ち

「ただしゅうにぶすることをしって、
「但衆に奉することを知って

ひんをうれうべからず。
貧を憂うべからず。

もしうげんのこころなくんば、
若し有限の心無くんば、

おのずからむきゅうのふくあらん」と。
自ら無窮の福有らん」と。

けだしこれしゅうにくうずるは
蓋し是れ衆に供ずるは

じゅうじのしんじゅつなり。
住持の心術なり。

くようのもつしきを
供養の物色を

ちょうべんするのじゅつは、
調弁するの術は、

もののさいをろんせず、
物の細を論せず、

もののそをろんぜず、
物の麁を論ぜず、

ふかくしんじつのこころ
深く真実の心、

きょうじゅうのこころをしょうずるを、
敬重の心を生ずるを、

せんようとなす。
詮要と為す。

みずやしょうすいのいっぱつも、
見ずや漿水の一鉢も、

またじゅうごうをくうじておのずから
也た十号を供じて自ら

ろうばせいぜんのみょうくどくをえ、
老婆生前の妙功徳を得、

あんらのはんかも、
菴羅の半果も、

またいちじにしゃしてよく
也た一寺に捨して能く

いくおうさいごのだいぜんこんをきざし、
育王最後の大善根を萌し、

きべつをさずかり、
記莂を授かり、

たいかをかんぜり。
大果を感ぜり。

ほとけのえんといえども、
仏の縁と雖も、

たこしょうじつにしかず。
多虚少実に如かず。

これひとのぎょうなり。
是れ人の行なり。

いわゆる、だいごみをととのうるも、
いわゆる、醍醐味を調うるも

いまだかならずしもじょうとなさず。
未だ必ずしも上と為さず。

ふさいこうをととのうるも、
莆菜羮を調うるも、

いまだかならずしもげとなさず。
未だ必ずしも下と為さず。

ふさいをささげ、ふさいをえらぶとき、
莆菜を捧げ、莆菜を択ぶ時

まごころ、じょうしん、じょうけつしん
真心、誠心、浄潔心

にして、だいごみにじゅんずべし。
にして、醍醐味に準ずべし。

ゆえはいかんとなれば、
所以は何んとなれば、

ぶっぽうしょうじょうのだいかいしゅうに
仏法清浄の大海衆に

ちょうそうするときはだいごみをみず、
朝宗する時は醍醐味を見ず、

ふさいみをそんせず、
莆菜味を存せず、

ただいちだいかいのみのみ。
唯一大海の味のみ。

いわんやまたどうげをちょうじ
況んや復た道芽を長じ

しょうたいをやしなうことは、
聖胎を養う事は、

だいごとふさいと、
醍醐と莆菜と、

いちにょにしてににょなきおや。
一如にして二如無きおや。

「びくのくち、かまどのごとく」
比丘の口、竈の如く」

のせんげんあり。
の先言あり。

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