【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」梅華(ばいか)

投稿日:1243年11月6日 更新日:

先師天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり。
上堂示衆云、天童仲冬第一句、槎々牙々老梅樹。忽開花一花両花、三四五花無数花。清不可誇、香不可誇。散作春容吹草木、衲僧箇清頂門禿。驀箚変怪狂風暴雨、乃至交袞大地雪漫々。老梅樹、太無端、寒凍摩挲鼻孔酸

(上堂の示衆に云く、天童仲冬の第一句、槎々たり牙々たり老梅樹。忽ちに開花す一花両花、三四五花無数花。清誇るべからず、香誇るべからず。散じては春の容と作りて草木を吹く、衲僧箇々頂門禿なり。驀箚に変怪する狂風暴雨あり、乃至大地に交袞てる雪漫漫たり。老梅樹、太だ無端なり、寒凍摩挲として鼻孔酸し)。

いま開演ある老梅樹、それ太無端なり、忽開花す、自結果す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは狂風をなし、あるいは暴雨をなす。あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古仏の眼睛なり。あるいは草木となれり、あるいは清香となれり。驀箚なる神変神怪きはむべからず。

乃至大地高天、明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり。葛藤の葛藤を結纏するなり。老梅樹の忽開花のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五葉の一花あり。この一花時、よく三花四花五花あり。百花千花万花億花あり。乃至無数花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の不可誇なり。優曇華優鉢羅花等、おなじく老梅樹花の一枝両枝なり。

おほよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。人中天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間天堂を樹功せり。百千花を人天花と称ず。万億花は仏祖花なり。恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作するなり。祖師本来茲土と喚作するなり。

先師古仏、上堂示衆云、瞿曇打失眼睛時、雪裏梅花只一枝。而今到処成荊棘、却笑春風繚乱吹(瞿曇眼睛を打失する時、雪裏の梅花只だ一枝なり。而今到処に荊棘を成す、却つて笑ふ春風の繚乱として吹くことを)。

いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨風水および草木昆蟲にいたるまでも、法益をかうむらずといふことなし。天地国土もこの法輪に転ぜられて活驋々地なり。未曽聞の道をきくといふは、いまの道を聞著するをいふ。未曽有をうるといふは、いまの法を得著するを称ずるなり。おほよそおぼろげの福徳にあらずは、見聞すべからざる法輪なり。

いま現在大宋国一百八十州の内外に、山寺あり、人里の寺あり、そのかず称計すべからず。そのなかに雲水おほし。しかあれども、先師古仏をみざるはおほく、みたるはすくなからん。いはんや言葉を見聞するは少分なるべし。いはんや相見問訊のともがらおほからんや。いはんや堂奥をゆるさるる、いくばくにあらず。いかにいはんや先師の皮肉骨髓、眼睛面目を礼拝することを聴許せられんや。

先師古仏たやすく僧家の討掛搭をゆるさず。よの常にいはく、無道心慣頭、我箇裏不可也。すなはちおひいだす。出了いはく、不一本分人、要作甚麼。かくのごときの狗子は騷人なり、掛搭不得といふ。

まさしくこれをみ、まのあたりこれをきく。ひそかにおもふらくは、彼らいかなる罪根ありてか、このくにの人なりといへども、共住をゆるされざる。われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるるのみにあらず、ほしきままに堂奥に出入して尊儀を礼拝し、法道をきく。

愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。先師の宋朝を化せしとき、なほ参得人あり、参不得人ありき。先師古仏すでに宋朝をさりぬ、暗夜よりもくらからん。ゆゑはいかん。先師古仏より前後に、先師古仏のごとくなる古仏なきがゆゑにしかいふなり。

しかあれば、いまこれを見聞せんときの晩学おもふべし、自余の諸方の人天も、いまのごとくの法輪を見聞すらん、参学すらんとおもふことなかれ。雪裏梅花は一現の曇花なり。ひごろはいくめぐりか我仏如来の正法眼睛を拝見しながら、いたづらに瞬目を蹉過して破顔せざる。

而今すでに雪裏の梅花まさしく如来の眼睛なりと正伝し、承当す。これを拈じて頂門眼とし、眼中睛とす。さらに梅花裏に参到して梅花を究尽するに、さらに疑著すべき因縁いまだきたらず。これすでに天上天下唯我独尊の眼睛なり、法界中尊なり。

しかあればすなはち、天上の天花、人間の天花、天雨曼陀羅華、摩訶曼陀羅花、曼殊沙花、摩訶曼殊沙花および十方無尽国土の諸花は、みな雪裏梅花の眷属なり。梅花の恩徳分をうけて花開せるがゆゑに、百億花は梅花の眷属なり、小梅花と称ずべし。

乃至空花地花三昧花等、ともに梅花の大小の眷属群花なり。花裡に百億国をなす、国土に開花せる、みなこの梅花の恩分なり。梅花の恩分のほかは、さらに一恩の雨露あらざるなり。命脈みな梅花よりなれるなり。

ひとへに嵩山少林の雪漫々地と参学することなかれ。如来の眼睛なり。頭上をてらし、脚下をてらす。ただ雪山雪宮のゆきと参学することなかれ、老瞿曇の正法眼睛なり。五眼の眼睛このところに究尽せり。千眼の眼睛この眼睛に円成すべし。

まことに老瞿曇の身心光明は、究尽せざる諸法実相の一微塵あるべからず。人天の見別ありとも、凡聖の情隔すとも、雪漫々は大地なり、大地は雪漫々なり。雪漫々にあらざれば尽界に大地あらざるなり。この雪漫々の表裏団圝、これ瞿曇老の眼睛なり。

しるべし、花地悉無生なり、花無生なり。花無生なるゆゑに地無生なり。花地悉無生のゆゑに、眼睛無生なり。無生といふは無上菩提をいふ。正当恁麼時の見取は、梅花只一枝なり。正当恁麼時の道取は、雪裏梅花只一枝なり。地花生々なり。

これをさらに雪漫々といふは、全表裏雪漫々なり。尽界は心地なり、尽界は花情なり。尽界花情なるゆゑに、尽界は梅花なり。尽界梅花なるがゆゑに、尽界は瞿曇の眼睛なり。而今の到処は、山河大地なり。到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果自然成の到処現成なり。西来東漸ありといへども、梅花而今の到処なり。

而今の現成かくのごとくなる、成荊棘といふ。大枝に旧枝新枝の而今あり、小条に旧条新条の到処あり。処は到に参学すべし、到は今に参学すべし。三四五六花裏は、無数花裏なり。花に裏功徳の深広なる具足せり、表功徳の高大なるを開闡せり。この表裏は、一花の花発なり。只一枝なるがゆゑに、異枝あらず、異種あらず。一枝の到処を而今と称ずる、瞿曇老漢なり。只一枝のゆゑに、附囑嫡々なり。
このゆゑに、吾有の正法眼蔵、附囑摩訶迦葉なり。汝得は吾髓なり。

かくのごとく到処の現成、ところとしても大尊貴生にあらずといふことなきがゆゑに、開五葉なり、五葉は梅花なり。このゆゑに、七仏祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり。みな只一枝の開五葉なり、五葉の一枝なり。一枝を参究し、五葉を参究しきたれば、雪裏梅花の正伝附囑相見なり。只一枝の語脈裏に転身転心しきたるに、雲月是同なり、渓山各別なり。

しかあるを、かつて参学眼なきともがらいはく、五葉といふは、東地の五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふと。この言は、挙して勘破するにたらざるなり。これらは参仏参祖の皮袋にあらず、あはれむべきなり。五葉一花の道、いかでか五代のみならん。六祖よりのちは道取せざるか。小児子の説話におよばざるなり。ゆめゆめ見聞すべからず。

先師古仏、歳旦上堂曰、元正啓祚、万物咸新。伏惟大衆、梅開早春(元正祚を啓き、万物咸く新たなり。伏して惟れば大衆、梅、早春に開く)。

しづかにおもひみれば、過現当来の老古錐、たとひ尽十方に脱体なりとも、いまだ梅開早春のみちあらずは、たれかなんぢを道尽箇といはん。ひとり先師古仏のみ古仏中の古仏なり。

その宗旨は、梅開に帯せられて万春はやし。万春は梅裏一両の功徳なり。一春なほよく万物を咸新ならしむ、万法を元正ならしむ。啓祚は眼睛正なり。万物といふは、過現来のみにあらず、威音王以前乃至未来なり。無量無尽の過現来、ことごとく新なりといふがゆゑに、この新は新を脱落せり。このゆゑに伏惟大衆なり。伏惟大衆は恁麼なるがゆゑに。

先師天童古仏、上堂示衆云、一言相契、万古不移。柳眼発新条、梅花満旧枝(一言相契すれば万古不移なり。柳眼新条を発き、梅花旧枝に満つ)。

いはく百大弁道は、終始ともに一言相契なり。一念頃の功夫は、前後おなじく万古不移なり。新条を繁茂ならしめて眼睛を発明する、新条なりといへども眼睛なり。眼睛の他にあらざる道理なりといへども、これを新条と参究す。

新は万物咸新に参学すべし。梅花満旧枝といふは、梅花全旧枝なり、通旧枝なり。旧枝是梅花なり。たとへば、花枝同条参、花枝同条生、花枝同条満なり。花枝同条満のゆゑに、吾有正法、附囑迦葉なり。面々満拈花、花々満破顔なり。

先師古仏、上堂示大衆云、楊柳粧腰帯、梅花絡臂鞲(先師古仏、上堂して大衆に示すに云く、楊柳腰帯を粧ひ、梅花臂鞲を絡く)。
かの臂鞲は、蜀錦和璧にあらず、梅花開なり。梅華開は、隨吾得汝なり。

波斯匿王、請賓頭盧尊者斎次、王問、承聞、尊者親見仏来。是不(波斯匿王、賓頭盧尊者を請じて斎する次でに、王問ふ、承聞すらくは、尊者親り仏を見来ると。是なりや不や)。
尊者以手策起眉毛示之(尊者、手を以て眉毛を策起して之を示す)。
先師古仏頌云(先師古仏頌して云く)、
策起眉毛答問端、
親曽見仏不相瞞。
至今応供四天下、
春在梅梢帯雲寒。
(眉毛を策起して問端に答ふ、親曽の見仏相瞞ぜず。今に至るまで四天下に応供す、春梅梢に在りて雲を帯して寒し。)

この因縁は、波斯匿王ちなみに尊者の見仏未見仏を問取するなり。見仏といふは作仏なり。作仏といふは策起眉毛なり。尊者もしただ阿羅漢果を証すとも、真阿羅漢にあらずは見仏すべからず。見仏にあらずは作仏すべからず。作仏にあらずは策起眉毛仏不得ならん。

しかあればしるべし、釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果を証して後仏の出世をまつ、尊者いかでか釈迦牟尼仏をみざらん。この見釈迦牟尼仏は見仏にあらず。釈迦牟尼仏のごとく見釈迦牟尼仏なるを見仏と参学しきたれり。

波斯匿王この参学眼を得開せるところに、策起眉毛の好手にあふなり。親曽見仏の道旨、しづかに参学眼あるべし。この春は人間にあらず、仏国にかぎらず、梅梢にあり。なにとしてかしかるとしる、雪寒の眉毛策なり。

先師古仏云、本来面目無生死、春在梅花入画図(本来の面目生死無し、春は梅花に在って画図に入る)。

春を画図するに、楊梅桃李を画すべからず。まさに春を画すべし。楊梅桃李を画するは楊梅桃李を画するなり、いまだ春を画せるにあらず。春は画せざるべきにあらず。しかあれども、先師古仏のほかは、西天東地のあひだ、春を画せる人はいまだあらず。ひとり先師古仏のみ、春を画する尖筆頭なり。

いはゆるいまの春は画図の春なり、入画図のゆゑに。これ余外の力量をとぶらはず、ただ梅花をして春をつかはしむるゆゑに、画にいれ、木にいるるなり。善巧方便なり。

先師古仏、正法眼蔵あきらかなるによりて、この正法眼蔵を過去現在未来の十方に聚会する仏祖に正伝す。このゆゑに眼睛を究徹し、梅花を開明せり。

正法眼蔵第五十三

爾時日本国寛元元年癸卯十一月六日在越州吉田県吉嶺寺深雪参尺大地漫々

もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。その時もこれよりほかに眼睛を求めば、いづれのときも対面不相識なるべし、相逢未拈出なるべきがゆゑに。今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。直に梅花眼睛を開明なるべし、さらにもとむることやみね。

先師古仏云、
明々歴々、
梅花影裏休相覓。
為雨為雲自古今、
古今寥々有何極。
(明々歴々たり、梅花の影裏に相覓むること休みね。雨を為し雲を為すこと古今よりす、古今寥々たり何の極まりか有らん。)

しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。行雲行雨は梅花の千曲万重色なり、千功徳なり。自古今は梅花なり。梅花を古今と称ずるなり。

古来、法演禅師いはく、
朔風和雪振渓林、
万物濳蔵恨不深。
唯有嶺梅多意気、
臘前吐出歳寒心。
(朔風雪に和して渓林に振ひ、万物濳し蔵るること恨み深からず。唯嶺の梅のみ有りて意気多し、臘前に吐出す歳寒の心。)

しかあれば、梅花の消息を通ぜざるほかは、歳寒心をしりがたし。梅花小許の功徳を朔風に和合して雪となせり。はかりしりぬ、風をひき雪をなし、歳を序あらしめ、および溪林万物をあらしむる、みな梅花力なり。

太原孚上座、頌悟道云(悟道を頌するに云く)、
憶昔当初未悟時、
一声画角一声悲。
如今枕上無閑夢、
一任梅花大小吹。
(憶昔る当初未悟の時、一声の画角一声悲なり。如今枕の上に閑なる夢なし、一任す梅花大小に吹くことを。)
孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。これ梅花の春風を大小吹せしむるなり。

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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