【仏教用語/人物集 索引】

『典座教訓』12、学問も修行も天地のいのちに気付くこと

投稿日:1237年8月13日 更新日:

どうねん7がつ、
同年七月、

さんぞうてんどうにかしゃくす。
山僧天童に掛錫す。

ときにかのてんぞきたってしょうけんして
時に彼の典座来得て相見して

いわく、「かいげりょうにてんぞをたいし
云く、「解夏了に典座を退し

ごうにかえらんとす。
郷に帰り去らんとす。

たまたまひんでいのろうしこりに
適兄弟の老子箇裏に

ありととくをきく、なんぞ
在りと説くを聞く、如何ぞ

きたってしょうけんせざらん。」
来って相見せざらん。」

さんぞう、きようかんげき、
山僧、喜踊感激、

たをせっしてせたするのついで、
佗を接して説話するの次で、

ぜんじつはくりにありしもじべんどう
前日舶裏に在りし文字弁道

のいんねんをせつしゅつす。
の因縁を説出す。

てんぞいわく、
典座云く、

「もじをまなぶものは、
「文字を学ぶ者は、

もじのこをしらんとし、
文字の故を知らんと為、

べんどうをつとむるものは、
弁道を務むる者は、

べんどうのこをうけがわんとようす。」
弁道の故を肎わんと要す。」

さんぞうたにとう、
山僧佗に問う、

いかにあらんかこれもじ。
「如何にあらんか是れ文字。」

ぞいわく、「1・2・3・4・5。」
座云く、「一二三四五。」

またとう、
又問う、

「いかにあらんかこれべんどう。」
「如何にあらんか是れ弁道。」

ぞいわく、「へんかいかつてかくさず。」
座云く、「徧界かつて蔵さず。」

そのよのせった、
其の余の説話、

たはんありといえども、
多般有りと雖も、

いましるさざるところなり。
今録さざる所なり。

さんぞう、いささかもじをしり
山僧、聊か文字を知り

べんどうをりょうずることは、
弁道を了ずることは、

すなわちかのてんぞのだいおんなり。
乃ち彼の典座の大恩なり。

こうらいのいちだんのじ、
向来一段の事、

せんしぜんこうにせつじす、
先師全公に説似す、

こうはなはだずいきするのみ。
公甚だ随喜するのみ。

さんぞう、のちにせっちょうじゅあり、
山僧、後に雪竇頌有り、

そうにしめして
僧に示して、

「いちじ・しちじ・さん・ごじ、
「一字七字三五字、

ばんしょうきわめきたるに、
万像窮め来るに、

よりどころをなさず、
拠を為さず、

よふけつきしろうしてそうめいにくだる、
夜深け月白うして滄溟に下る

りじゅをそうてしてたこあり」
驪珠を捜得して多許有り」

というをみる。
と云うを看る。

ぜんねんかのてんぞのいうところと、
前年彼の典座の云う所と、

こんにちせちょうのしめすところと、
今日雪竇の示す所と、

おのずからあいふごうす。
自ら相い符合す。

いよいよしるかのてんぞは
弥よ知る彼の典座

これしんのどうにんなることを。
是れ真の道人なることを。

しかあればすなわち
然あれば則ち

じゅうらいみるところのもじは、
従来看る所の文字は、

これ1・2・3・4・5なり。
是れ一二三四五なり。

こんにちみるところのもじも、
今日看る所の文字も、

また6・7・8・9・10なり。
また六七八九十なり。

こうらいのひんでい、
後来の兄弟、

しゃとうよりなとうをかんりょうし、
這頭より那頭を看了し、

なとうよりしゃとうをかんりょうし、
那頭より這頭を看了し、

かくのごとくのくふうをなさば、
恁のごとくの功夫を作さば、

すなわちもじじょういちみのぜんを
便ち文字上一味の禅を

りょうえしさらん。
了得し去らん。

もしこのごとくならずんば、
若し是の如くならずんば、

しょほうごみぜんのどくをこうぶって、
諸方五味禅の毒を被って、

そうじきをはいべんするに、
僧食を排弁するに、

いまだこうしゅをえること
未だ好手を得ること

あたわざるなり。
能わざるなり。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

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