同年七月、山僧天童に掛錫す。時に彼の典座来得て相見して云く、「解夏了に典座を退し郷に帰り去らんとす。適兄弟の老子箇裏に在りと説くを聞く、如何ぞ来って相見せざらん。」
山僧、喜踊感激、佗を接して説話するの次で、前日舶裏に在りし文字弁道の因縁を説出す。
典座云く、「文字を学ぶ者は、文字の故を知らんと為、弁道を務むる者は、弁道の故を肎わんと要す。」
山僧佗に問う、「如何にあらんか是れ文字。」
座云く、「一二三四五。」
又問う、「如何にあらんか是れ弁道。」
座云く、「徧界かつて蔵さず。」
其の余の説話、多般有りと雖も、今録さざる所なり。山僧、聊か文字を知り弁道を了ずることは、乃ち彼の典座の大恩なり。向来一段の事、先師全公に説似す、公甚だ隨喜するのみ。 山僧、後に雪竇頌有り、僧に示して、「一字七字三五字、万像窮め来るに、拠を為さず、夜深け月白うして滄溟に下る、驪珠を捜得して多許有り」と云うを看る。
前年彼の典座の云う所と、今日雪竇の示す所と、自ら相い符合す。弥よ知る彼の典座は是れ真の道人なることを。然あれば則ち従来看る所の文字は、是れ一二三四五なり。今日看る所の文字も、また六七八九十なり。後来の兄弟、這頭より那頭を看了し、那頭より這頭を看了し、恁のごとくの功夫を作さば、便ち文字上一味の禅を了得し去らん。若し是の如くならずんば、諸方五味禅の毒を被って、僧食を排弁するに、未だ好手を得ること能わざるなり。
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1、職を勤める姿が仏の姿
2、心が整えば味も整う
3、米を洗うことも修行のうち
4、心を他のことに移さない
5、菜っ葉も伽藍も上下なし
6、よし悪しの隔てなく授かる心
7、一茎菜を拈じて、丈六身と作し
8、ことに見合った細かい心配り
9、食べることも仏法を行じていること
10、他人のしたことは自分のしたことにならない
11、よく自分のことを勤める
12、学問も修行も天地のいのちに気づくこと
13、まず心をこめて行ずること
14、修行は日々の足下にある
15、すべて行ずることが仏事
16、自他の境をとりはずす
17、ただ自然に変わっていくだけ
18、自然のまま喜びの心で引き受ける
19、親心は無償の心
20、天地の寸法は隔たりがない
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