【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』証巻02

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 光明寺(善導)の『疏』(玄義分)に云わく、「「弘願」と言うは、『大経』の説の如し。一切善悪の凡夫、生を得るは、皆、阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざるは莫しとなり。又、仏の密意弘深なれば教門をして暁り難し。三賢・十聖、測りて闚う所に弗ず。況んや我、信外の軽毛なり。敢えて旨趣を知らんや。仰いで惟みれば、釈迦は此の方より発遣し、弥陀は即ち彼の国より来迎す。彼に喚ばい、此に遣わす。豈に去かざるべけんや。唯、懃に法に奉えて、畢命を期として、此の穢身を捨てて即ち彼の法性の常楽を証すべし」と。

 又云わく(定善義)、「西方寂静無為の楽には、畢竟逍遙して有無を離れたり。大悲、心に熏じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なること無し。或いは神通を現じて法を説き、或いは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意に随いて出ず。群生見る者、罪、皆除こると。

 又賛じて云わく、帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫より来、六道に流転して尽く皆逕たり。到る処に余の楽無し。唯、愁歎〔或る本、「生死」の字なり。〕の声を聞く。此の生平を畢えて後、彼の涅槃の城に入らん」と。已上

 夫れ真宗の教・行・信・証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。故に、若しは因、若しは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえる所に非ざること有ること無し。因浄なるが故に果亦浄なり。知るべしとなり。

 二に「還相の回向」と言うは、則ち是れ利他教化地の益なり。則ち是れ必至補処の願より出でたり。

 亦「一生補処の願」と名づく。亦「還相回向の願」と名づくべきなり。『註論』(論註)に顕れたり。故に願文を出ださず。『論の註』を披くべし。

 『浄土論』に曰わく、「出第五門は、大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園・煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向を以ての故に。是れを「出第五門」と名づく」と。已上

 『論註』に曰わく、「還相は、彼の土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。若しは往、若しは還、皆、衆生を抜いて生死海を渡せんが為なり。是の故に「回向を首として大悲心を成就することを得るが故に」(論)と言えり」と。

 又言わく(論註)、「「即ち彼の仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と上地の諸の菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るが故に」(論)とのたまえり。「平等法身」は、八地已上、法性生身の菩薩なり。寂滅平等の法なり。此の寂滅平等の法を得るを以ての故に、名づけて「平等法身」とす。平等法身の菩薩の所得なるを以ての故に、名づけて「寂滅平等の法」とするなり。此の菩薩は報生三昧を得。三昧神力を以て、能く一処・一念・一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸仏及び諸仏大会衆海を供養す。能く無量世界に仏法僧無さぬ処にして、種種に示現し、種種に一切衆生を教化し度脱して、常に仏事を作す。初めに往来の想・供養の想・度脱の想無し。是の故に此の身を名づけて「平等法身」とす。此の法を名づけて「寂滅平等の法」とす。「未証浄心の菩薩」は、初地已上、七地以還の諸の菩薩なり。此の菩薩、亦能く身を現すこと、若しは百、若しは千、若しは万、若しは億、若しは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。要ず心を作して三昧に入りて、乃し能く作心せざるに非ず。作心を以ての故に、名づけて「未証浄心」とす。此の菩薩、安楽浄土に生まれて即ち阿弥陀仏を見たてまつらんと願ず。阿弥陀仏を見たてまつる時、上地の諸の菩薩と、畢竟じて身等しく法等しと。龍樹菩薩・婆藪槃頭菩薩の輩、彼に生まれんと願ずるは、当に此の為なるべしならくのみと。

(証巻は続く)

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