【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』証巻03

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 問うて曰わく、『十地経』を案ずるに、菩薩の進趣階級、漸く無量の功勲有り。多の劫数を逕。然うして後、乃し此れを得。云何ぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地の諸の菩薩と身等しく法等しきや。

 答えて曰わく、「畢竟」は、未だ「即ち等し」と言うにはあらずなりと。畢竟じて、此の等しきことを失せざるが故に、「等」と言うならくのみと。

 問うて曰わく、若し即ち等しからずは、復た何ぞ「菩薩」と言うことを得ん。但、初地に登れば、以て漸く増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に「上地の菩薩と等し」と言うや。

 答えて曰わく、菩薩、七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。爾の時に、若し十方諸仏の神力加勧を得ずは、即便ち滅度して二乗と異無けん。菩薩、若し安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、即ち此の難無けん。是の故に須く「畢竟平等」と言うべし。

 復た次に『無量寿経』の中に、阿弥陀如来の本願に言わく(第二十二願)、「設い我、仏を得たらんに、他方仏土の諸の菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。其の本願の自在の所化、衆生の為の故に弘誓の鎧を被て、徳本を積累し一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒砂無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。若し爾らずは、正覚を取らじ」と。此の『経』を案じて彼の国の菩薩を推するに、或いは一地より一地に至らざるべし。「十地の階次」と言うは是れ、釈迦如来、閻浮提にして一の応化道ならくのみと。他方の浄土は、何ぞ必ず此くの如くせん。五種の不思議の中に仏法最不可思議なり。若し、菩薩、必ず一地より一地に至りて、超越の理無しと言わば、未だ敢えて詳らかならざるなり。譬えば樹有り。名づけて「好堅」と曰う。是の樹、地より生じて百歳ならん。乃し具に一日に長高なること百丈なるが如し。日日に此くの如し。百歳の長を計るに、豈に偱松に類せんや。松の生長するを見るに、日に寸を過ぎず。彼の好堅を聞きて、何ぞ能く即日を疑わざらん。人有りて、釈迦如来、羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制すとのたまえるを聞きて、是れ接誘の言にして称実の説に非ずと謂えり。此の論事を聞きて、亦当に信ぜざるべし。夫れ非常の言は常人の耳に入らず。之を然らずと謂えり。亦其れ宜しかるべきなり。

 「略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまえるを示現したまえるなりと知るべし。」(論)此れは云何が次第なるとならば、前の十七句は、是れ荘厳国土の功徳成就なり。既に国土の相を知りぬ。国土の主を知るべし。是の故に次に仏荘厳功徳を観ず。彼の仏、若し荘厳を為して何れの処にしてか座すると。是の故に先ず座を観ずべし。既に座を知りぬ。已に宜しく座主を知るべし。是の故に次に、仏、身業を荘厳したまえるを観ず。既に身業を知りぬ。何なる声名か有すと知るべし。是の故に次に、仏、口業を荘厳したまえるを観ず。既に名聞を知りぬ。宜しく得名の所以を知るべし。是の故に次に、仏の、心業を荘厳したまえるを観ず。既に三業具足したまえるを知りぬ。人天の大師と為りて化を受くるに堪えたる者は是れ誰ぞと知るべし。是の故に次に大衆の功徳を観ず。既に大衆、無量の功徳有すことを知りぬ。宜しく上首は誰ぞと知るべし。是の故に次に上首を観ず。上首は是れ仏なり。既に、上首、恐らくは長劫に同じきことを知りぬ。是の故に次に主を観ず。既に是の主を知りぬ。主、何なる増上か有すと。是の故に次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。

 菩薩を観ぜば、「云何が菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、彼の菩薩を観ずるに四種の正修行功徳成就したまえること有りと知るべし。」(論)真如は、是れ諸法の正体なり。体、如にして行ずれば則ち是れ不行なり。不行にして行ずるを「如実修行」と名づく。体は唯一如にして、義をして分かちて四とす。是の故に四行、一を以て正しく之を絯ぬ。

 「何者をか四とする。一には、一仏土に於いて、身、動揺せずして十方に遍ず。種種に応化して、実の如く修行して常に仏事を作す。偈に「安楽国は清浄にして、常に無垢の輪を転ず。化仏・菩薩は、日の、須弥に住持するが如きの故に」と言えり。諸の衆生の淤泥華を開くが故に」(論)とのたまえり。八地已上の菩薩は、常に三昧に在りて、三昧力を以て、身、本処を動ぜずして能く遍く十方に至りて、諸仏を供養し衆生を教化す。「無垢輪」は仏地の功徳なり。仏地の功徳は習気・煩悩の垢無さず。仏、諸の菩薩の為に常に此の法輪を転ず。諸の大菩薩、亦能く此の法輪を以て一切を開導して、蹔時も休息無けん。故に「常転」と言う。法身は日の如くして、応化身の光、諸の世界に遍ずるなり。「日」と言わば、未だ以て不動を明かすに足らざれば、復た「如須弥住持」と言うなり。「淤泥華」とは、『経』(維摩経)に言わく、「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に乃し蓮華を生ず。」此れは、凡夫、煩悩の泥の中に在りて、菩薩の為に開導せられて、能く仏の正覚の華を生ずるに喩う。諒に夫れ三宝を紹隆して、常に絶えざらしむと。

 「二には、彼の応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心・一念に大光明を放ちて、悉く能く遍く十方世界に至りて衆生を教化す。種種に方便し、修行所作して、一切衆生の苦を滅除するが故に、偈に「無垢荘厳の光、一念及び一時に、普く諸仏の会を照らして、諸の群生を利益する故に」と言えり。」(論)上に「不動にして至る」と言えり。或いは至るに前後有るべし。是の故に復た「一念・一時、無前・無後」と言えるなり。
 「三には、彼、一切の世界に於いて、余無く諸の仏会を照らす。大衆、余無く広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬し賛嘆す。偈に「天の楽・華・衣・妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別の心有ること無きが故に」と言えり」(論)と。「無余」とは、遍く一切世界・一切諸仏大会に至りて、一世界・一仏会として至らざること有ること無きことを明かすなり。肇公の言わく(注維摩詰経序)、「法身は像無くして形を殊にす。並びに至韻に応ず。言無くして玄籍弥いよ布き、冥権、謀無くして動じて事と会す」と。蓋し斯の意なり。

 「四には、彼、十方一切の世界に三宝無さぬ処に於いて、仏法僧宝功徳大海を住持し荘厳して、遍く示して如実の修行を解らしむ。偈に「何等の世界にか、仏法功徳宝無さざらん。我願わくは、皆往生して、仏法を示して仏の如くせん」と言えるが故に」(論)と。上の三句に「遍く至る」と言うと雖も、皆是れ有仏の国土なり。若し此の句無くは、便ち是れ法身、所として法ならざること有らん。上善、所として善ならざること有らん。観行の体相は竟りぬ。

(証巻は続く)

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