【仏教用語/人物集 索引】

『典座教訓』16、自他の境をとりはずす

投稿日:1237年8月13日 更新日:

まさにしるべしたいまだかつて
応に知るべし佗未だかつて

ほっしんせずといえども、
発心せずと雖も、

もしひとりのほんぶんにんをみまわば、
若し一の本分人を見ば、

すなわちそのどうをぎょうとくせん。
則ち其の道を行得せん。

いまだひとりのほんぶんにんをみずと
未だ一の本分人を見ずと

いえども、もしこれふかくほっしんせば、
雖も、若し是れ深く発心せば

すなわちそのどうをぎょうようせん。
則ち其の道を行膺せん。

すでにりょうけつをもってせば、
既に両闕を以てせば、

なにをもってかいちえきあらん。
何を以てか一益あらん。

だいそうこくのしょざんしょじに、
大宋国の諸山諸寺に、

ちじちょうしゅのしょくにいるやからを
知事頭首の職に居る族を

みるがごときは、
見るが如きは、

いちねんのしょうごんをなすといえども、
一年の精勤を為すと雖も、

おのおのさんぱんのじゅうじをそんし、
各々三般の住持を存し、

ときとともにこれをいとなみ、
時と与に之を営み、

えんをあらそうてこれをはげます。
縁を競うて之を励ます。

すでにたをりするがごとく、
已に佗を利するが如く、

かねてじりをゆたかにし、
兼ねて自利を豊かにし、

そうせきをいっこし、
叢席を一興し、

こうかくをいっしんし、
高格を一新し、

かたをひとしうしこうべをあらそい、
肩を斎うし頭を競い、

きびすをつぎあとをおもんず。
腫を継ぎ蹤を重んず。

これにおいてまさにつまびらかにすべし、
是に於いて応に詳かにすべし

みずからをみることたのごとくなる
自を見ること佗の如くなる

ぎじんあり、たをかえりみること
癡人有り、佗を顧みること

みずからのごとくなるくんしある
自の如くなる君子有る

ことを。こじんいわく、
ことを。古人云く、

「さんぶんのこういんにはやくすぐ、
「三分の光陰二早く過ぐ、

れいたいいってんもかいませず、
霊台一点も揩磨せず、

しょうをむさぼりひをおうて
生を貪り日を逐うて

くくとしてさる、よべどもこうべ
区々として去る、喚べども頭

をめぐらさずいかんせん。」と。
を廻らさず争奈何せん。」と

すべからくしるべし、
すべからく知るべし、

いまだちしきをみざれば、
未だ知識を見ざれば、

にんじょうにうばわることを。
人情に奪わるることを。

あわれむべし、
憐むべし、

ぐしちょうじゃしょでんのかざいを
愚子長者所伝の家財を

うんしゅつして、いたずらに
運出して、徒らに

たにんめんぜんにじんふんとなすことを。
佗人面前に塵糞と作すことを

いますなわちしかあるべからざるや。
今乃ち然あるべからざるや。

かつてとうしょくぜんらいの
嘗て当職前来の

ゆうどうをみるに、
有道を観るに、

そのしょうそのとくおのずからかのう。
其の掌其の徳自ら符う。

だいいのごどうもてんぞのときなり。
大潙の悟道も典座の時なり。

とうざんのまさんぎんも、
洞山の麻三斤も、

またてんぞのときなり。
また典座の時なり。

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