「 正法眼蔵随聞記 」 一覧

『正法眼蔵随聞記』78、善悪と云う事定め難し

また云く、善悪と云う事定め難し。世間の綾羅錦繍をきたるをよしと云い、麁布糞掃をわるしと云う、仏法には是れをよしとし清しとす。金銀錦綾をわるしとし穢れたりとす。是のごとく一切の事に渡りて皆然り。 予が如 ...

『正法眼蔵随聞記』19、如何なるか是れ不昧因果底の道理

ある時、奘、師に問うて云く、如何なるか是れ不昧因果底の道理。 師云く、不動因果なり。 云く、なんとしてか脱落せん。 師云く、歴然一時見なり。 云く、是のごとくならば、果、引起こすや。 師云く、惣て是の ...

『正法眼蔵随聞記』59、世間の女房なんどだにも

ある時、比丘尼云く、「世間の女房なんどだにも、仏法とて学すれば、比丘尼の身には少々の不可ありとも何で叶わざるべきと覚ゆ。如何。」と云いし時、 示して云く、この義然るべからず。在家の女人その身ながら仏法 ...

『正法眼蔵随聞記』20、犯戒と言うは受戒以後の所犯を道うか

奘問うて云く、犯戒と言うは、受戒以後の所犯を道うか、ただしまた未受以前の罪相をも犯戒と道うべきか。 師答えて云く、犯戒の名は受後の所犯を道うべし。未受以前所作の罪相をばただ罪相、罪業と道って犯戒と道う ...

『正法眼蔵随聞記』89、学人、人の施を受けて悦ぶ事なかれ

示して云く、学人、人の施を受けて悦ぶ事なかれ。また受けざる事なかれ。 故僧正の云く、「人の供養を得て悦ぶは制にたがう。悦ばざるは檀那の心にたがう。」と。 この故実は、我れに供養ずるにあらず、三宝に供ず ...

『正法眼蔵随聞記』6、学道の人は後日を待って行道せんと思う事なかれ

示に云く、学道の人は後日を待って行道せんと思う事なかれ。ただ今日今時をすごさずして、日々時々を勤むべきなり。 ここにある在家人、長病あり。去年の春のころあひちぎりて云く、「当時の病療治して、妻子を捨て ...

『正法眼蔵随聞記』102、春秋に云く

示して云く、春秋に云く、「石の堅き、是れをわれどもその堅きを奪うべからず。丹のあかき、是れをわれどもそのあかき事を奪うべからず。」と。 玄沙因に僧問う、「如何なるか是れ堅固法身。」沙云く、「膿滴々地。 ...

『正法眼蔵随聞記』100、俗の野諺に云く

示して云く、俗の野諺に云く、「唖せず聾せざれば家公とならず。」と。云う心は、人の毀謗をきかず、人の不可を云わざればよく我が事を成ずるなり。是のごとくなる人を、家の大人とす。 是れ即ち俗の野諺なりと云え ...

『正法眼蔵随聞記』94、奘問うて云く、叢林の勤学の行履と云うは

一日奘問うて云く、「叢林の勤学の行履と云うは如何。」 示して云く、只管打坐なり。あるいは閣上、あるいは桜下にして常坐をいとなむ。人に交わりて物語をせず、聾者の如く瘂者の如くにして常に独坐を好むなり。 ...

『正法眼蔵随聞記』93、学道はすべからく吾我を離るべし

一日示して云く、学道はすべからく吾我を離るべし。たとひ千経万論を学し得たりとも、我執を離れずは終に魔坑に落つ。古人云く、「仏法の身心なくは、いづくんぞ仏となり祖とならん。」と。 我を離ると云うは、我が ...

『正法眼蔵随聞記』24、たとい我れ道理を以て道うに

法談の次に示して云く、たとい我れ道理を以て道うに、人僻事を言うを、理を攻めて言い勝つは悪きなり。 次に、我れは現に道理と思えども、「我が非にこそ。」と言って負けてのくもあしばやなると言うなり。 ただ人 ...

『正法眼蔵随聞記』(しょうぼうげんぞう ずいもんき)

『正法眼蔵随聞記』は鎌倉時代の法語集。道元禅師の法語を、その2歳年長の弟子で、永平寺2世となった孤雲懐奘(こうん えじょう)が記した語録書。嘉禎年間(1235~1238年)の成立。懐奘没後に弟子たちが ...



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