典座教訓

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『典座教訓』19、親心は無償の心

いわゆるろうしんとは、いわゆる老心とは、ふぼのこころなり。たとえば父母の心なり。たとえばふぼのいっしをおもうがごとく、父母の一子を念うがごとく、さんぼうをそんねんすること三宝を存念することいっしをおもうがごとくせよ。一子を念うが如くせよ。ひんじゃきゅうしゃ、あながちにいっしを貧者窮者、強に一子をあいいくす。そのこころざしいかん。愛育す。其の志如何。げにんしらず。ちちとなり外人識らず、父と作りははとなってまさにこれをしる。母と作って方に之を識る。じしんのひんぷをかえりみず、自身の貧富を顧みず、ひとえにわがこの偏えに吾が子のちょうだいならんことをおもう。長大ならんことを念う。おのさむきをかえりみず...
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『典座教訓』18、自然のまま喜びの心で引き受ける

おおよそもろもろのちじちょうしゅ、凡そ諸の知事頭首、およびとうしょく、さじさむのじせつ、及び当職、作事作務の時節、きしん、ろうしん、だいしんをほじすべ喜心、老心、大心を保持すべきものなり。いわゆる、きものなり。いわゆる、きしんとは、きえつのこころなり、喜心とは、喜悦の心なり。おもうべし、われもしてんじょうに想ふべし、我れ若し天上にしょうぜば、らくにあらわしてひまなし。生ぜば、楽に著して間無し。ほっしんすべからず。しゅぎょういまだ発心すべからず。修行未だびんならず。いかにいわんや便ならず。何に況んやさんぼうくようのじきをなすべけんや。三宝供養の食を作すべけんや。まんぽうのなか、万法の中、さいそん...
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『典座教訓』17、ただ自然に変わっていくだけ

もしことをたっとぶべきものならば、若し事を貴ぶべき者ならば、ごどうのことをたっとぶべし。悟道の事を貴ぶべし。もしときをたっとぶべきものならば、若し時を貴ぶべき者ならば、ごどうのときをたっとぶべきものか。悟道の時を貴ぶべき者か。ことをしたいみちをたのしむのあと、事を慕い道を耽しむの跡、しゃをにぎってたからとする、沙を握って宝と為る、なおそのしるしあり。猶お其の験有り。かたちをもしてらいをなす、形を模して礼を作す、しばしばそのかんをみる。屡其の感を見る。いかにいわんやそのしょくこれおなじく、何に況んや其の職是れ同じく、そのしょうこれいつなるをや。其の称是れ一なるをや。そのじょうそのごう、其の情其の...
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『典座教訓』16、自他の境をとりはずす

まさにしるべしたいまだかつて応に知るべし佗未だかつてほっしんせずといえども、発心せずと雖も、もしひとりのほんぶんにんをみまわば、若し一の本分人を見ば、すなわちそのどうをぎょうとくせん。則ち其の道を行得せん。いまだひとりのほんぶんにんをみずと未だ一の本分人を見ずといえども、もしこれふかくほっしんせば、雖も、若し是れ深く発心せば、すなわちそのどうをぎょうようせん。則ち其の道を行膺せん。すでにりょうけつをもってせば、既に両闕を以てせば、なにをもってかいちえきあらん。何を以てか一益あらん。だいそうこくのしょざんしょじに、大宋国の諸山諸寺に、ちじちょうしゅのしょくにいるやからを知事頭首の職に居る族をみる...
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『典座教訓』15、全て行ずることが仏事

さんぞうきこくよりこのかた、山僧帰国より以降、しゃくをけんにんにとどむること錫を建仁に駐むることいちりょうさんねん。かのてら、一両三年。彼の寺、おろかにこのしょくをおけども、愗かにこの職を置けども、※「愗かに」・・・「憖(なまじ)に」の誤字と考えられ「仕方なく」という意味で読む。ただみょうじのみあって、唯名字のみ有って、まったくひとのじつなし。いまだ全く人の実無し。未だこれぶつじなることをしらず。是れ仏事なることを識らず、あにあえてどうをべんこうせんや。豈に肯て道を弁肎せんや。まことにれんみんすべし。真に憐憫すべし。そのひとにあわずして其の人に遇わずしてむなしくこういんをわたり、虚しく光陰を度...
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『典座教訓』14、修行は日々の足下にある

しらずんばあるべからず。知らずんばあるべからず。おもうべし想うべしふさいよくしょうたいをやしない、莆菜能く聖胎を養い、よくどうがをしょうずることを。能く道芽を長ずることを。いやしとなすべからず、賤しと為すべからず、かろしとなすべからず。軽ろしと為すべからず。にんでんのどうし、ふさいの人天の導師、莆菜のけやくをなすべきものなり。また化益を為すべき者なり。又たしゅそうのとくしつを衆僧の得失をみるべからず、見るべからず、しゅそうのろうしょうを衆僧の老少をかえりみるべからず。顧みるべからず。じなおじのらくしょをしらず、自猶お自の落処を知らず、たいかでかたの佗争でか佗のらくしょをしることをえんや。落処を...
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『典座教訓』13、まず心をこめて行ずること

まことにそれとうしき、誠に夫れ当職、せんもんげんしょう、先聞現証、めにありみみにあり。眼に在り耳に在り。もじありどうりあり。文字有り道理有り。しょうてきというべきか。たとい正的と謂うべきか。縦いしゅくはんじゅうのなをかたじけのうせば粥飯頭の名を忝うせば、しんじゅつもまたこれにどうずべし、心術も亦之に同ずべし、『ぜんえんしんぎ』にいわく、『禅苑清規』に云く、「にじのしゅくはん、りすること「二時の粥飯、理することまさにせいほうなるべし。合に精豊なるべし。しじのくすべからくけっしょう四事の供すべからく闕少せしむることなかるべし。せしむること無かるべし。せそん20ねんのいおん、世尊二十年の遺恩、じそん...
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『典座教訓』12、学問も修行も天地のいのちに気付くこと

どうねん7がつ、同年七月、さんぞうてんどうにかしゃくす。山僧天童に掛錫す。ときにかのてんぞきたってしょうけんして時に彼の典座来得て相見していわく、「かいげりょうにてんぞをたいし云く、「解夏了に典座を退しごうにかえらんとす。郷に帰り去らんとす。たまたまひんでいのろうしこりに適兄弟の老子箇裏にありととくをきく、なんぞ在りと説くを聞く、如何ぞきたってしょうけんせざらん。」来って相見せざらん。」さんぞう、きようかんげき、山僧、喜踊感激、たをせっしてせたするのついで、佗を接して説話するの次で、ぜんじつはくりにありしもじべんどう前日舶裏に在りし文字弁道のいんねんをせつしゅつす。の因縁を説出す。てんぞいわく...
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『典座教訓』11、よく自分のことを勤める

またかてい16ねん、みずのとひつじ、又嘉定十六年、癸未、ごがつのころ、五月の中、けいげんのはくりにあり。慶元の舶裏に在り。わしせったのついで、倭使頭説話の次で、いちろうそうありきたる。一老僧有り来る。としは60さいほど。年六十許歳。いちじきにすなわちはくりにいたって、一直に便ち舶裏に到って、わきゃくにとうて和客に問うてわじんをたずねかう。倭椹を討ね買う。さんぞうたをしょうして山僧佗を請してちゃをきっせしむ。茶を喫せしむ。たのしょざいをとえば、佗の所在を問えば、すなわちこれ便ち是れいくおうざんのてんぞなり。阿育王山の典座なり。たいわく、佗云く、「われこれせいしょくじんなり。ごうを「吾は是れ西蜀人...
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『典座教訓』10、他人のしたことは自分のしたことにならない

さんぞうてんどうにありしとき、山僧天童に在りし時、ほんぷのようてんぞしょくにみてりき。本府の用典座職に充てりき。よちなみにさいまかんでとうろうをすぎ予因みに斎罷んで東廊を過ぎちょうねんさいにおもむくのりょじ、超然斎に赴くの路次、てんぞぶつでんまえにあって典座仏殿前に在ってたいをさらす。苔を晒す。てにたけづえをかまえ、手に竹杖を携え、こうべにかたがさなし。頭に片笠無し。てんぴねっし、ちせんねっす。天日熱し、地甎熱す。かんりゅうはいかいすれども、汗流徘徊すれども、ちからをはげましてたいをさらす。力を励して苔を晒す。ややくしんをみる。せぼねゆみのごとく稍苦辛を見る。背骨弓の如くほうびはつるににたり。...
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『典座教訓』9、食べることも仏法を行じていること

せしゅいんにいって施主院に入ってざいをしゃしさいをもうけば、財を捨し斎を設けば、またまさにもろもろのちじまた当に諸の知事いっとうにしょうりょうすべし。一等に商量すべし。これそうりんのきゅうれいなり。是れ叢林の旧例なり。えもつひょうさんは、回物俵散は、おなじくともにしょうりょうせよ。同じく共に商量せよ。けんをおかししょくをみだすことを権を侵し職を乱す事をえざれ。さいしゅくにょほうに得ざれ。斎粥如法にべんじおわらば、あんじょうにあんちし、弁じ了らば、案上に安置し、てんぞけさをかけ、ざぐをのべ典座袈裟を搭け、坐具を展べまずそうどうをのぞんで、先ず僧堂を望んで、ふんこうきゅうはいし、焚香九拝し、はいし...
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『典座教訓』8、ことに見合った細かい心配り

このごとくさんらいしさんきょして、此の如く参来し参去して、もしせんごうのぎさいあらば、如し纎毫の疑猜有らば、たのどうす、他の堂司、およびしょりょうのちょうしゅ、及び諸寮の頭首、りょうしゅ、りょうしゅそとうにとい、寮主、寮首座等に問い、うたがいをしょうしきたってすなわち疑を銷し来って便ちしょうりょうすらく、商量すらく、いちりゅうべいをきっするに、一粒米を喫するに、いちりゅうべいをそえ、一粒米を添え、いちりゅうべいをわかちうれば、一粒米を分ち得れば、かえってりょうこのはんりゅうべいをえる却て両箇の半粒米を得。さんぶん、よんぶん、いちはん、三分、四分、一半、りょうはんあり。たのりょうこの両半あり。他...
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『典座教訓』7、一茎菜を拈じて、丈六身と作し

このことわりひつぜんなるすら、この理必然なるすら、なおいまだめいりょうならざるは、なお未だ明了ならざるは、そつにしぎふんぴしてそのやばの卒に思議紛飛して其の野馬のごとく、じょうねんほんちしてりんえんに如く、情念奔馳して林猿におなじきよってなり。同じき由ってなり。もしかのえんばをして若し彼の猿馬をしていったんたいほへんしょうせしめば、一旦退歩返照せしめば、じねんにたじょういっぺんならん。これ自然に打成一片ならん。是れすなわちもののしょてんをこうむるとも、乃ち物の所転を被るとも、よくそのものをてんずるのしゅだんな能く其の物を転ずるの手段なり。このごとくちょうわじょうけつして、り。此の如く調和淨潔し...
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『典座教訓』6、よし悪しの隔てなく授かる心

いわゆるたといいわゆる縦いふさいこうふさいこうをつくるときも、莆菜羮を作る時も、けんおきょうこつのこころをしょうずべ嫌厭軽忽の心を生ずべからず。たといづにゅうこうをつくるからず。縦い頭乳羮を作るときも、きやくかんえつ のこころを時も、喜躍歓悦の心をしょうずべからず。生ずべからず。すでにたんぢゃくなし、既に耽著無し、なんぞおいあらん。何ぞ悪意有らん。しかればすなわち、そにむかうといえども然れば則ち、麁に向うと雖もまったくたいまんなく、さいにあうと全く怠慢無く、細に逢うといえどもいよいよしょうじんあるべし。雖も弥精進有るべし。せつにものおうて切に物を遂うてこころをへんずることなかれ。心を変ずること...
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『典座教訓』5、菜っ葉も伽藍も上下なし

にょほうにとうたし、くわにいれて如法に洮汰し、鍋に納れてひをたきはんをむす。いにしえにいわく、火を燒き飯を蒸す。古に云く「はんをむすくわじゅうをじじゅうとなし「飯を蒸す鍋頭を自頭となしこめをゆりてみずはこれ米を淘りて水は是れしんめいなりとしる」と。身命なりと知る」と。むしおわるはんはすなわちはんらりに蒸し了る飯は便ち飯籮裏におさめ、すなわちはんおけにおさめて、収め、乃ち飯桶に収めて、たいばんのうえにあんぜよ。抬槃の上に安ぜよ。さいこうとうをちょうべんすること、まさ菜羮等を調弁すること、応にはんをむすじせつにあたるべし。に飯を蒸す時節に当るべし。てんぞしたしくはんこうをみて、典座親しく飯羮を見て...
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『典座教訓』4、心を他のことに移さない

じょうこゆうどうのこうし、上古有道の高士、おのずからてずからくわしくいたり、自ら手ずから精しく至り、これをしゅうすることのごとし。之を修することこの如し。こうらいのばんしん、後来の晩進、これをたいまんすべけんか。之を怠慢すべけんか。せんらいいう、「てんぞはばんをもって先来云ふ、「典座は絆を以てどうしんとなす」と。道心となす」と。べいしゃあやまってゆりさること米砂誤って淘り去ることあるがごときは、おのずからてずから有るが如きは、自ら手ずからけんてんせよ。『しんぎ』にいわく、検点せよ。『清規』に云く、「ぞうじきのとき、すべからく「造食の時、すべからくしたしくおのずからしょうこして、親しく自ら照顧し...
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『典座教訓』3、米を洗うことも修行のうち

『ぜんえんしんぎ』にいわく、『禅苑清規』に云く、ろくみしょうならず、さんとくたらざ「六味精ならず、三徳給らざるは、てんぞのしゅうにぶするるは、典座の衆に奉するしょいにあらず」と。所以にあらず」と。まずこめをみんとししてすなわち先ず米を看んとして便ちしゃをみ、まずしゃをみんとして砂を看、先ず砂を看んとしてすなわちこめをみる。便ち米を看る。しんさいにみきたりみさって、審細に看来り看去って、ほうしんすべからずんば、放心すべからずんば、じねんにさんとくえんまんし、自然に三徳円満し、ろくみともにそなわらん。六味倶に備らん。せっぽう、とうざんにあって、てんぞと雪峰、洞山に在って典座となる。いちにちこめをゆ...
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『典座教訓』2、心が整えば味も整う

ゆえにせぞくのじきづしおよび所以に世俗の食厨子及びせんぷとうにおなじからざるものか。饌夫等に同じからざる者か。さんぞうざいそうのとき、かじつ山僧在宋の時、暇日ぜんしごんきゅうとうにしもんするに、前資勤旧等に咨問するに、かれらいささかけんもんをこして、彼等いささか見聞を挙して、もってさんぞうがためにとく。この以て山僧が為めに説く。このせつじは、こらいうどうのぶっそ、説似は、古来有道の仏祖、のこすところのこつずいなり。おおよそ遺す所の骨隨なり。大抵すべからく『ぜんねんしんぎ』をすべからく『禅苑清規』をじゅくけんすべし。熟見すべし。しかしてのちすべからく然して後すべからくきんきゅうしさいのせつをきく...
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『典座教訓』20、天地の寸法は隔たりがない

いわゆる、だいしんとは、いわゆる、大心とは、そのこころをだいせんにし、其の心を大山にし、そのこころをたいかいにし、其の心を大海にし、へんなくとうなきこころなり。偏無く党無き心なり。りょうをかかげてかろしとせず、両を提げて軽しと為ず、きんをあげておもしとすべからず。鈞を扛げて重しとすべからず。しゅんせいにひかれて春声に引かれてしゅんたくにあそばず。春沢に游ばず。しゅうしきをみるといえども秋色を見ると雖もさらにしゅうしんなく、更に秋心無く、しうんをいっけいにあらそい、四運を一景に競い、しゅりょうをいちもくにみる。銖両を一目に視る。このいっせつにおいて、是の一節に於いて、だいのじをしょすべし。大の字...
仏教を学ぶ

『典座教訓』(てんぞきょうくん)

典座教訓とは、修行道場で食事を担当する役職である「典座」の心がまえを示した書です。1237年に道元禅師により、自身の中国での修行の経験を踏まえて著されました。それまで日本では注目されることなく軽視されていた典座の職を高く評価し、重要視するべきだと説いています。修行としての食事とはいかなるものであるかを示され、典座の大切さや意義を中国で出会われた老典座との逸話などをまじえ、喜びの心(喜心)・相手を思いやる心(老心)・動じない心(大心)の三心を、調理する者の心とし、素材そのものを生かす料理でなければならないと説かれています。典座教訓に著されている中国・宋での体験は、道元禅師の仏法・修行のあり方に影...