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阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)

阿弥陀如来、阿弥陀仏について、このページでは主に造像さた仏像としての阿弥陀如来像、阿弥陀仏像、阿弥陀像について書きます。もともとの梵名は「アミターバ」あるいは「アミターユス」 といい、それを音写して「阿弥陀」、漢訳して無量光、無量寿とも呼ばれます。また、略して、弥陀仏とも呼ばれることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。衣服は全身を覆う一枚の衲衣(のうえ)や大衣(だいえ)の布を着て、装飾品は身につけず、持物は何も持っていません。例外もあり、一部には装身具を身につけたものもあります。頭部は螺髪(らほつ)と呼ばれる髪型で、中央部は頂髻相(ちょうけいそう)・肉髻(にっけい)を表していて盛り上が...
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掃除

小僧「掃除が終わりました」師匠「ここも埃が、あそこにも、どこも終わってないぞ!」小僧「おかしいな!?そう言われてみれば埃がありますね」師匠「きれいだと思って見ればきれいに見えるからな」小僧「はい」師匠「そういった先入観を先ず掃除してみなさい」<< 戻る
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餓鬼(がき)

餓鬼とは、三途・五趣(五道)・六趣(六道)の一つで、常に飢えと乾きに切迫され、食物や飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうことから、決して満たされることがない鬼神です。また、集団の名であり、個別の神をさすものではありません。「死者の霊」を意味する梵語プレータの音訳を薜茘多(へいれいた)といい、仏教では六道の内の餓鬼道(餓鬼の世界)に生まれた者のことをいいます。また、インド神話においてブータという熱病をもたらす鬼には臭餓鬼(しゅうがき)という訳名があります。「施餓鬼会」「餓鬼大将」「悪餓鬼」<< 戻る
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愛語(あいご)

愛語とは、四摂(ししょう)の一つである「あたたかい心のこもった言葉をかけること」で、これによって人々を救いに導く実践行です。そのことは聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(ほっけぎしょ)に出てきます。また、鎌倉時代の道元が著わした『正法眼蔵』にも「愛語」の言葉は何度も使われていて「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。」と説明されています。四字熟語にもなっている「和顔愛語」(わげんあいご/我がんあいご)はより分かりやすい言葉になっていますが、和やかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することを指す言葉です。・「自分を苦しめず、また他人を害しない言葉の...
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精進料理(しょうじんりょうり)- 菜食主義との違い

精進料理とは、仏教と共に中国から日本に伝わった修行僧のための食事のことですが、現在、一般に精進料理といわれているものは、曹洞宗や臨済宗、黄檗宗などの禅宗で確立されたスタイルのものです。それぞれの時代、それぞれの宗派の戒に基づき、殺生や煩悩への刺激を避けた食材を使い調理された料理のことです。また、斎食(さいじき)のことを指す場合もあります。「精進料理とは、精進する人の食べ物です」このように聞いたことがあります。精進料理とは、一般的には、肉や魚を使わずに、野菜、果物、海草などを使って作る料理です。インドや欧米などで肉や魚を食べない菜食主義(ベジタリアン)があります。では、この精進料理と菜食主義は同...
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気づき

あの頃の自分が気づけなかったことが今こうして気付くことができるようになったならあの頃も無駄ではない<< 戻る
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戒名不要論

戒名のことを調べるとどこかに出てくる戒名不要論その論調でいけば名前もいらない誕生日もいらない戒名不要論者は番号で管理されれば良いとでも?戒名はその人の生きざまどう生きていくかどう生きてきたかを現わすものお坊さんがそれを証明するもの師匠がそれを証明するもの自身や家族がそれを認め自他ともに認め戒は保たれる<< 戻る
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餓鬼幡(がきばた)- 施餓鬼幡、棚幡

餓鬼幡とは、寺院などで行われる施餓鬼会(せがきえ)や施食会(せじきえ)、一般的にいう「おせがき」供養で使われる「緑・黄・赤・白・紫」の五色の幡(はた)です。施餓鬼幡(せがきばた)とも呼ばれ、施餓鬼棚(せがきだな)に飾られることから棚幡(たなばた)ともいいます。棚幡と同じ音である「七夕」(たなばた)の歌には「五色の短冊~♪」と出てきますが、願い事を書いた短冊は何に付けますか?そうです、笹ですね。餓鬼幡も施餓鬼棚の四隅に立てられた笹にくくり付けられます。現在は異なる行事として行っていますが、その様式は同じ起源を持つと考えられています。(施餓鬼棚の竹と餓鬼幡)餓鬼幡は宗派によって施餓鬼会の行い方が異...
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仏性(ぶっしょう)

仏性とは、生命ある全てのものが持つ仏の性質や仏になり得る原因・可能性のことで、 主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理です。覚性(かくしょう)とも訳されます。 時代や地域、宗派によって、その考え方は様々に発展され、現在は統一見解と呼べるものはありません。一般的には、誰もが仏性を備えていて、修行することで隠れている仏性が発揮されることで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことが出来るとされます。この仏性が活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされています。浄土真宗の宗祖とされる親鸞はいくら修行をしても自...
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邪鬼(じゃき)

邪鬼とは、仁王像や四天王像に踏まれている小型の鬼で、仏法を犯す邪神として懲らしめられ、苦悶の表情をみせています。悪鬼(あっき)、悪魔などとも総称されます。仏教と切り離した分類でも、たたりをする神や、物の怪(け)、怨霊(おんりょう)と表現されます。寺院の諸堂や山門などの瓦葺き建造物の屋根の端などに設置され飾られる瓦を総称して鬼瓦といいますが、悪霊が寄りつくのをさけるために邪鬼の面があしらわれているものが多くあります。<< 戻る
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袈裟(けさ)

袈裟とは、出家修行者や僧侶が身につける布でできた衣装で、略式の袈裟は信者も着用します。梵語で壊色・混濁色を意味する「カーシャーヤ」を音訳したものです。糞掃衣(ふんぞうえ)、福田衣(ふくでんえ)、法衣(ほうえ)ともいいます。インドの仏教僧侶が身にまとっていた布が袈裟で、初期の仏教の出家僧侶は、下着にあたる安陀会(あんだえ、五条)、普段着にあたる鬱多羅僧(うったらそう、七条)、儀式・訪問着にあたる僧伽梨(そうぎゃり、九条から二十五条)の3枚を持つことが許され、「条」というのはその袈裟に必要とされる布片の幅や枚数を表わします。それらの袈裟と食事や托鉢に使う持鉢(じはつ)をあわせて三衣一鉢(さんえいっ...
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三毒(さんどく)

三毒とは、迷い苦しむ原因となる欲望のことで、煩わせる心・悟りに至る道を妨げる心のことで、人間の諸悪・苦しみの根源とされている貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを指します。その中でも癡が根本であると考えていました。邪悪。貪(とん・ラーガ(梵)・ローパ(巴))とは、貪欲(とんよく)ともいい、むさぼりや必要以上に求める心で、通常「欲」「物惜しみ」「むさぼり」と表現されます。瞋(しん・ドヴェーシャ(梵)・ドーサ(巴))とは、瞋恚(しんに)ともいい、怒りの心で、通常「いかり」「にくしみ」と表現されます。癡(ち/痴・モーハ(梵)(巴))とは、愚癡(ぐち)ともいい、真理に対する無知の心で、通常「おろかさ」と...
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愛敬相(あいぎょうそう)- 愛想、愛嬌

愛敬相とは、仏・菩薩の姿は温和で慈悲深く、拝む人たちがその姿に愛(いつく)しみ、敬(うやま)わらずにはおられない相(そう)だということを表しています。「愛想を尽かす」と使われる愛想の語源は愛敬相で、略したものです。また、「愛嬌がある」と使われる愛嬌の語源も愛敬相で、「愛敬」を略したものですが、主体が変わり「愛嬌」の字があてられて使われています。<< 戻る
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四摂(ししょう)- 四摂法(ししょうぼう)

四摂、または、四摂法とは、観世音菩薩や地蔵菩薩などが説いた、誰にでもできる人々を救いに導く菩薩の実践行です。四摂事(ししょうじ)、四恩(しおん)ともいいます。菩薩の実践とは、他者を幸せにしないかぎり、自分の幸せは得られないというものです。また、この場合の「摂」という字は、「まとめる」「全てをとる」という意味を表します。次の四つの行為を合わせ行うことで菩薩の道を実践することが出来るといわれています。・布施(ふせ)・・・教えやものを施すことで、独り占めせずに分かち合うこと。・愛語(あいご)・・・あたたかい心のこもった言葉をかけること。・利行(りぎょう)・・・見返りを求めずに、他人のためになることを...
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愛(あい)

愛とは、慈しむ心や慈しんで行うことです。愛想、愛嬌、愛語、愛着(愛著)など、愛が付く仏教語は多くあります。そこから「愛」が仏教の中でどのように使われているのかを確認したいと思います。「愛想」、「愛嬌」というのは実は同じ仏教語「愛敬相」(あいぎょうそう)が語源で、仏・菩薩の姿は温和で慈悲深く、拝む人たちがその姿に愛(いつく)しみ、敬(うやま)わらずにはおられない相(そう)だということを表しています。「愛語」というのは四摂(ししょう)の一つである「あたたかい心のこもった言葉をかけること」で、これによって人々を救いに導く実践行です。そのことは聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(ほっけぎしょ...
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法華八講(ほっけはっこう)

法華八講とは、法華経(妙法蓮華経)8巻を1巻ずつ8座で行いますが、1日に朝夕2座講じて4日間で読誦・講讃する法会です。略して「八講」ともいいます。そこでは、読師、講師、問者、精義、堂達の5者の役割があり、読師が経題を唱えて講師が経文を講釈し、さらに問者が教義上の質問をして講師がそれに答え、精義が問答を判定、堂達が進行を司ります。法華八講の起源は中国とされますが、日本では延暦 15 (796) 年に奈良の石淵寺の勤操が4日間『法華経』を講義したのを最初とされています。その後宮中、幕府において死者の追善供養のために行われました。<< 戻る
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吉祥悔過(きちじょうけか)

吉祥悔過とは、吉祥天女を本尊としてまつり、最勝王経を読み、罪を懺悔して国家の安泰や作物の豊穣を願う、毎年正月に行われる法会です。「吉祥」は仏教の守護神とされる吉祥天のこと。「悔過」は間違いを悔いること。仏教の言葉で、「吉祥天悔過」を略した言葉です。関連動画:オンライン懺悔(鐘の音・20秒間隔) ロウソクの灯 Confession time<< 戻る
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銀閣寺をオンライン拝観

慈照寺(銀閣寺)ライブカメラアクセス数が多めだっだたから少し覗いて見たコロナ禍の銀閣寺貸しきり状態写真撮り放題でもこれが本当のオンライン拝観<< 戻る
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バラモン(仏教)

バラモン(婆羅門)とは、通常バラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称ですが、「スッタニパータ」など原始仏教の最古層のテキストでは、修行を完成した人、理想的な修行者のことを仏教においてもバラモンと呼んでいます。「スッタニパータ【第3 大いなる章】9、ヴァーセッタ」では、生まれによってバラモンと呼ばれるのではなく、行為によってバラモンと呼ばれると、仏教への所属の有無に関係なく、そのようにバラモンを再定義しています。・「真のバラモンは、正しい道のほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想の内のどれによっても清らかになるとは説かない。彼は禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において禍福の因をつ...
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紅蓮地獄(ぐれんじごく)

紅蓮地獄とは、この地獄の生きものは、寒苦のために肉がさけて血が流れ、その様は紅蓮のようであることからその名がついている。仏教最古のテキスト「スッタニパータ【第3 大いなる章】10、コーカーリヤ」にもその内容が詳しく出てきます。後のアビダルマ教義学の体系では八寒地獄の内の第七とされました。<< 戻る
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借香(しゃっこう)

借香とは、お葬式や法事などの法要の際、すでに会場に備えられた抹香や線香を利用することです。近年では借香が当たり前に思われていますが、本来、抹香や線香は供えるために自分で用意する物でした。また、自分が選んだ香(抹香や線香)を持参する、自分の香のことを自香(じこう)といいます。地域やご家庭によって違いがあると思いますが、法事などの法要の際、焼香のために香盆をまわすことがあります。自分の番に回ってきたらそのお盆の上などに小銭を置いて、焼香します。お賽銭のようなものと思っている方もいるようですが、それはお寺、もしくは、法要を主催する家の香を使わせてもらうことから、そのお礼の意味で出すものだと考えられま...
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自香(じこう)

自香とは、焼香をする際や線香を供える際に、自分が選んだ香(抹香や線香)を持参する、自分の香のことです。本来、抹香や線香は供えるために自分で用意する物でした。ただ、近年ではすでに会場に備えられた抹香や線香を利用する(借香)ことが多くなっています。地域やご家庭によって違いがあると思いますが、法事などの法要の際、焼香のために香盆をまわすことがあります。自分の番に回ってきたらそのお盆の上などに小銭を置いて、焼香します。お賽銭のようなものと思っている方もいるようですが、それはお寺、もしくは、法要を主催する家の香を使わせてもらうことから、そのお礼の意味で出すものだと考えられます。<< 戻る
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香典(こうでん)- 香奠

香典とは、葬儀の際に亡くなった方の霊前などに供える金品、もしくは法事の際に仏前に供える金品をいいます。「香」の字が入っているのは、香・線香の代わりに供えるという意味と香・線香を貸していただくという意味があります。本来、抹香や線香は供えるために自分で用意する物(自香)でした。会場の「香」を使う場合は借香といい、香を借りますという意味があります。「典」「奠」とは霊前に供える金品の意味で使われます。香典の言葉の意味は以上の通りですが、実際には亡くなった方のご遺族が葬儀や法事を行うための費用を、故人に縁のある方が援助する為に出し合う金品との理解で間違いないと考えられます。ただし、地域や寺院の方針でこれ...
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ラーフ

ラーフ(Rahu)はインド神話に出てくる鬼神。この鬼神が月や太陽を呑むので、月食や日食が起きると考えられていた。・「貪欲を離れ、諸々の感官を静かに保ち、月がラーフの捕われから脱したように捕われることのない人々、そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。」(スッタニパータ 465偈)<< 戻る
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霊園(れいえん)

霊園とは、お墓を設けるための土地で、宗教法人や公益法人が公益事業を目的として運営する民営霊園、または、都道府県や市区町村が運営する公営霊園の2種類があります。その地域によって状況が異なりますが、霊園という場合と、墓地という場合があると思います。一般的に、墓地とは寺院の境内地にあるものをさす場合が多いようです。ただし、墓地、埋葬などに関する法律によると「この法律で「墓地」とは、墳墓を設けるために、墓地として都道府県知事の許可をうけた区域をいう。」とのことなので、お墓があるところが霊園という名であっても、法律上は墓地と呼んで問題ありません。<< 戻る
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墓地(ぼち)

墓地とは、お墓を設けるための土地ですが、その地域によって状況が異なります。一般的に、墓地とは寺院の境内地にあるものをさす場合が多いようです。墓地、埋葬などに関する法律によると「この法律で「墓地」とは、墳墓を設けるために、墓地として都道府県知事の許可をうけた区域をいう。」とのことなので、法律上はお墓があるところを墓地と呼んで問題ありません。寺院の境内地にある墓地に対して、霊園と呼ばれるものは、宗教法人や公益法人が公益事業を目的として運営する民営霊園、または、都道府県や市区町村が運営する公営霊園の2種類があります。<< 戻る
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法要(ほうよう)

法要とは、僧侶が日常的に朝・昼・晩などにお経を読み行う行事や忌日や特別な日、毎月行うなどの行事、法事・仏事・法会などの儀式祭礼などの仏教行事のことをいいます。もともとは、お釈迦様の教えを知るということだったので、現在も法要ではお経を読みます。一般的には亡くなった人の供養を法要という場合が多いようです。「オンライン法要」「年回忌法要早見表」「」「初七日」「二七日」「三七日」「四七日」「五七日」「六七日」「四十九日法要」「百箇日法要」「一周忌法要」「三回忌法要」「七回忌法要」「十三回忌法要」「三十三回忌法要」一般的に行うことが多い法要をあげましたが、この他にも法要の種類は数多くあります。<< 戻る
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金箔(きんぱく)

金箔とは、金を薄~く伸ばしたものですが、金色の仏像は金箔が貼られています。観単には剥がれないのでしょうが、仏像の掃除をする際にはとても気を使うものです。そんな時に金箔がまばらに剥がれているところを見ては、「むかし誰かがぬれ雑巾かなんかで雑に拭いたんじゃないか」と勘ぐってしまうこともありました。実際はどうなんでしょうか?インドには仏教の聖地があり、世界各国から巡礼に訪れる人が多いのですが、そういう人たちの中には誰にも許可なく急に仏像に金箔を貼りだすことがありました。供養かな!?とは思いますが、海外ではそのようなことも起こり、お国柄というか、日本では起きないことだなと思いました。<< 戻る
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欣求浄土(ごんぐじょうど)

欣求浄土とは、心から喜んで浄土に往生することを願い求めることです。源信の『往生要集』には、大文第一を厭離穢土(おんりえど)、第二を欣求浄土とし、この思想を浄土信仰の基本としています。その中では、穢土の内容を地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道と規定して、浄土での十楽を願い、穢土をいとい離れることをすすめています。また、戦国時代、徳川家康の馬印に「厭離穢土欣求浄土」が使われていました。松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ、その時13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説きました。以後、戦国の世を穢土とし、平和な世を浄土として「厭離穢土欣求浄...
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厭離穢土(おんりえど)

厭離穢土とは、この世をけがれた世界として厭(いと)い離れることです。源信の『往生要集』には、大文第一を厭離穢土、第二を欣求浄土(ごんぐじょうど)とし、この思想を浄土信仰の基本としています。その中では、穢土の内容を地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道と規定して、浄土での十楽を願い、穢土をいとい離れることをすすめています。また、戦国時代、徳川家康の馬印に「厭離穢土欣求浄土」が使われていました。松平元康(後の徳川家康)は、桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ、その時13代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説きました。以後、戦国の世を穢土とし、平和な世を浄土として「厭離穢土...
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浄土(じょうど)

浄土とは、一切の煩悩やけがれを離れ、五濁や地獄・餓鬼・畜生の三悪趣が無く、仏や菩薩が住む清浄な所を清浄国土といい、略して浄土と呼ばれます。大乗仏教の世界観を表現する言葉として使われ、その仏の数だけ浄土があると考えられていますが、平安後期以降に浄土教が広まると、浄土と言えは阿弥陀如来の西方極楽浄土をさすことが多くなったようです。『岩波 仏教辞典』によれば、浄土には3種類あり、死後に行く来世浄土(往く浄土)、現実の世界を清め浄土化する浄仏国土(成る浄土)、現実の世界の中に信仰によって得る常寂光土(在る浄土)に分類する考え方もあります。代表的な浄土・釈迦如来の霊山浄土・阿弥陀如来の西方極楽浄土・阿閦...
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