「 典座教訓 」 一覧

『典座教訓』20、天地の寸法は隔たりがない

いわゆる、大心とは、其の心を大山にし、其の心を大海にし、偏無く黨無き心なり。両を提げて軽しと為ず、鈞を扛げて重しとすべからず。春声に引かれて春沢に游ばず。秋色を見ると雖も更に秋心無く、四運を一景に競い ...

『典座教訓』19、親心は無償の心

いわゆる、老心とは、父母の心なり。譬えば父母の一子を念うがごとく、三宝を存念すること一子を念うが如くせよ。貧者窮者、強に一子を愛育す。其の志如何。外人識らず、父と作り母と作って方に之を識る。自身の貧富 ...

『典座教訓』18、自然のまま喜びの心で引き受ける

凡そ諸の知事頭首、及び当職、作事作務の時節、喜心、老心、大心を保持すべきものなり。いわゆる、喜心とは、喜悦の心なり。想ふべし、我れ若し天上に生ぜば、楽に著して間無し。発心すべからず。修行未だ便ならず。 ...

『典座教訓』17、ただ自然に変わっていくだけ

若し事を貴ぶべき者ならば、悟道の事を貴ぶべし。若し時を貴ぶべき者ならば、悟道の時を貴ぶべき者か。事を慕い道を耽しむの跡、沙を握って宝と為る、猶お其の験有り。形を模して礼を作す、屡其の感を見る。何に況ん ...

『典座教訓』16、自他の境をとりはずす

応に知るべし佗未だかつて発心せずと雖も、若し一の本分人を見ば、則ち其の道を行得せん。未だ一の本分人を見ずと雖も、若し是れ深く発心せば、則ち其の道を行膺せん。既に両闕を以てせば、何を以てか一益あらん。大 ...

『典座教訓』15、すべて行ずることが仏事

山僧帰国より以降、錫を建仁に駐むること一両三年。彼の寺、愗かにこの職を置けども、唯名字のみ有って、全く人の実無し。未だ是れ仏事なることを識らず、豈に肯て道を弁肎せんや。真に憐憫すべし。其の人に遇わずし ...

『典座教訓』14、修行は日々の足下にある

知らずんばあるべからず。想うべし莆菜能く聖胎を養い、能く道芽を長ずることを。賤しと為すべからず、軽ろしと為すべからず。人天の導師、莆菜の化益を為すべき者なり。又た衆僧の得失を見るべからず、衆僧の老少を ...

『典座教訓』13、まず心をこめて行ずること

誠に夫れ当職、先聞現証、眼に在り耳に在り。文字有り道理有り。正的と謂うべきか。縦い粥飯頭の名を忝うせば、心術も亦之に同ずべし、『禅苑清規』に云く、「二時の粥飯、理すること合に精豊なるべし。四事の供すべ ...

『典座教訓』12、学問も修行も天地のいのちに気づくこと

同年七月、山僧天童に掛錫す。時に彼の典座来得て相見して云く、「解夏了に典座を退し郷に帰り去らんとす。適兄弟の老子箇裏に在りと説くを聞く、如何ぞ来って相見せざらん。」 山僧、喜踊感激、佗を接して説話する ...

『典座教訓』11、よく自分のことを勤める

又嘉定十六年、癸未、五月の中、慶元の舶裏に在り。倭使頭説話の次で、一老僧有り来る。年六十許歳。一直に便ち舶裏に到って、和客に問うて倭椹を討ね買う。山僧佗を請して茶を喫せしむ。佗の所在を問えば、便ち是れ ...

『典座教訓』10、他人のしたことは自分のしたことにならない

山僧天童に在りし時、本府の用典座職に充てりき。予因みに斎罷んで東廊を過ぎ、超然斎に赴くの路次、典座仏殿前に在って苔を晒す。手に竹杖を携え、頭に片笠無し。天日熱し、地甎熱す。汗流徘徊すれども、力を励して ...

『典座教訓』9、食べることも仏法を行じていること

施主院に入って財を捨し斎を設けば、また当に諸の知事一等に商量すべし。是れ叢林の旧例なり。回物俵散は、同じく共に商量せよ。権を侵し職を乱す事を得ざれ。斎粥如法に弁じ了らば、案上に安置し、典座袈裟を搭け、 ...

『典座教訓』8、ことに見合った細かい心配り

此の如く参来し参去して、如し纎毫の疑猜有らば、他の堂司、及び諸寮の頭首、寮主、寮首座等に問い、疑を銷し来って便ち商量すらく、一粒米を喫するに、一粒米を添え、一粒米を分ち得れば、却て両箇の半粒米を得。三 ...

『典座教訓』7、一茎菜を拈じて、丈六身と作し

この理必然なるすら、なお未だ明了ならざるは、卒に思議紛飛して其の野馬の如く、情念奔馳して林猿に同じき由ってなり。若し彼の猿馬をして一旦退歩返照せしめば、自然に打成一片ならん。是れ乃ち物の所転を被るとも ...

『典座教訓』6、よし悪しの隔てなく授かる心

いわゆる縦い莆菜羮を作るの時も、嫌厭軽忽の心を生ずべからず。縦い頭乳羮を作るの時も、喜躍歓悦の心を生ずべからず。既に耽著無し、何ぞ悪意有らん。然れば則ち、麁に向うと雖も全く怠慢無く、細に逢うと雖も弥精 ...

『典座教訓』5、菜っ葉も伽藍も上下なし

如法に洮汰し、鍋に納れて火を燒き飯を蒸す。古に云く、「飯を蒸す鍋頭を自頭となし、米を淘りて水は是れ身命なりと知る」と。蒸し了る飯は便ち飯籮裏に収め、乃ち飯桶に収めて、抬槃の上に安ぜよ。菜羮等を調弁する ...

『典座教訓』4、心を他のことに移さない

上古有道の高士、自ら手ずから精しく至り、之を修することこの如し。後来の晩進、之を怠慢すべけんか。先来云ふ、「典座は絆を以て道心となす」と。米砂誤って淘り去ること有るが如きは、自ら手ずから検点せよ。『清 ...

『典座教訓』3、米を洗うことも修行のうち

『禅苑清規』に云く、「六味精ならず、三徳給らざるは、典座の衆に奉する所以にあらず」と。先ず米を看んとして便ち砂を看、先ず砂を看んとして便ち米を看る。審細に看来り看去って、放心すべからずんば、自然に三徳 ...

『典座教訓』2、心が整えば味も整う

所以に世俗の食厨子及び饌夫等に同じからざる者か。山僧在宋の時、暇日前資勤旧等に咨問するに、彼等聊か見聞を挙して、以て山僧が為めに説く。この説似は、古来有道の仏祖、遺す所の骨隨なり。大抵すべからく『禅苑 ...

精進料理(しょうじんりょうり)- 菜食主義との違い

  精進料理とは、仏教とともに中国から日本に伝わった修行僧のための食事のことですが、現在、一般に精進料理といわれているものは、曹洞宗や臨済宗、黄檗宗などの禅宗で確立されたスタイルのものです。 ...

『典座教訓』(てんぞきょうくん)

典座教訓とは、修行道場で食事を担当する役職である「典座」の心がまえを示した書です。1237年に道元禅師により、自身の中国での修行の経験を踏まえて著されました。それまで日本では注目されることなく軽視され ...



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