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『典座教訓』12、学問も修行も天地のいのちに気付くこと

どうねん7がつ、同年七月、さんぞうてんどうにかしゃくす。山僧天童に掛錫す。ときにかのてんぞきたってしょうけんして時に彼の典座来得て相見していわく、「かいげりょうにてんぞをたいし云く、「解夏了に典座を退しごうにかえらんとす。郷に帰り去らんとす。たまたまひんでいのろうしこりに適兄弟の老子箇裏にありととくをきく、なんぞ在りと説くを聞く、如何ぞきたってしょうけんせざらん。」来って相見せざらん。」さんぞう、きようかんげき、山僧、喜踊感激、たをせっしてせたするのついで、佗を接して説話するの次で、ぜんじつはくりにありしもじべんどう前日舶裏に在りし文字弁道のいんねんをせつしゅつす。の因縁を説出す。てんぞいわく...
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『典座教訓』4、心を他のことに移さない

じょうこゆうどうのこうし、上古有道の高士、おのずからてずからくわしくいたり、自ら手ずから精しく至り、これをしゅうすることのごとし。之を修することこの如し。こうらいのばんしん、後来の晩進、これをたいまんすべけんか。之を怠慢すべけんか。せんらいいう、「てんぞはばんをもって先来云ふ、「典座は絆を以てどうしんとなす」と。道心となす」と。べいしゃあやまってゆりさること米砂誤って淘り去ることあるがごときは、おのずからてずから有るが如きは、自ら手ずからけんてんせよ。『しんぎ』にいわく、検点せよ。『清規』に云く、「ぞうじきのとき、すべからく「造食の時、すべからくしたしくおのずからしょうこして、親しく自ら照顧し...
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『典座教訓』3、米を洗うことも修行のうち

『ぜんえんしんぎ』にいわく、『禅苑清規』に云く、ろくみしょうならず、さんとくたらざ「六味精ならず、三徳給らざるは、てんぞのしゅうにぶするるは、典座の衆に奉するしょいにあらず」と。所以にあらず」と。まずこめをみんとししてすなわち先ず米を看んとして便ちしゃをみ、まずしゃをみんとして砂を看、先ず砂を看んとしてすなわちこめをみる。便ち米を看る。しんさいにみきたりみさって、審細に看来り看去って、ほうしんすべからずんば、放心すべからずんば、じねんにさんとくえんまんし、自然に三徳円満し、ろくみともにそなわらん。六味倶に備らん。せっぽう、とうざんにあって、てんぞと雪峰、洞山に在って典座となる。いちにちこめをゆ...
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『正法眼蔵随聞記』46、学人問うて云く某甲なお学道心に繋けて

一日学人問うて云く、「某甲なを学道心に繋けて年月を運ぶといえども、いまだ省悟の分あらず。古人多く道う、聡明霊利に依らず、有知明敏をも用いずと。しかあれば、我が身下根劣智なればとて卑下すべきにもあらずと聞こえたり。もし故実用心の存ずべきようありや、如何。」示して云く、しかあり。有智高才を須いず霊利弁聡に頼らず。実の学道あやまりて盲聾癡人のごとくになれとすすむ。全く多聞高才を用いざるが故に下々劣器ときらうべからず。実の学道はやすかるべきなり。しかあれども、大宋国の叢林にも、一師の会下に数百千人の中に、実の得道得法の人はわずか一二なり。しかあれば、故実用心もあるべき事なり。今これを案ずるに、志の至る...
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『正法眼蔵随聞記』101、大慧禅師の云く

示して云く、大慧禅師の云く、「学道はすべからく人の千万貫銭をおえらんが、一文をも持たざらん時、せめられん時の心の如くすべし。もしこの心あらば、道を得る事やすし。」と云えり。信心銘に云く、「至道かたき事なし、ただ揀択を嫌う。」と。揀択の心を放下しつれば、直下に承当するなり。揀択の心を放下すと云うは、我を離るるなり。いわゆる我が身仏道をならん為に仏法を学する事なかれ。ただ仏法の為に仏法を行じゆくなり。たとひ千経万論を学し得、坐禅床をやぶるとも、この心無くは、仏祖の道を学し得べからず。ただすべからく身心を仏法の中に放下して、他に随うて旧見なければ、即ち直下に承当するなり。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(は...
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『正法眼蔵随聞記』39、学道の人は人情をすつべきなり

夜話に云く、学道の人は人情をすつべきなり。人情を捨つると云うは、仏法に順じ行ずるなり。世人多くは小乗根性なり。善悪を弁じ是非を分ち、是を取り非を捨つるはなお是れ小乗の根性なり。ただ世情を捨つれば仏道に入るなり。仏道に入るには善悪を分ち、よしと思い、あししと思う事を捨て、我が身よからん、我が心何とあらんと思う心を忘れ、善くもあれ悪しくもあれ、仏祖の言語行履に順い行くなり。我が心に善しと思い、また世人のよしと思う事、必ずよからず。然れば、人目も忘れ、心をも捨て、ただ仏教に順い行くなり。身も苦しく、心も患とも、我が身心をば一向に捨てたるものなればと思うて、苦しく愁つべき事なりとも、仏祖先徳の行履なら...
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『正法眼蔵随聞記』55、治世の法は上天子より

一日示して云く、治世の法は、上天子より下庶民に至るまで各皆その官に居する者、その業を修す。その人にあらずしてその官をするを乱天の事と云う。政道天意に叶う時、世清み民康すきなり。故に帝は三更の三点におさせ給うて、治世する時としませり。たやすからざる事、ただ職のかわり、業の殊なるばかりなり。国王は自思量を以て政道を計らい、先規をかんがえ、有道の臣を求めて、政天意に相合する時、是れを治世と云うなり。もし是れを怠れば天に背き世を乱し、民を苦しむるなり。それより以下、諸候大夫人士庶民、皆各所官の業あり。それに随うを人と云うなり。それに背く、天を乱す事を為して天之刑を蒙るなり。然れば、学人も世を離れ家を出...
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『正法眼蔵随聞記』27、祖席に禅話を覚り得る故実

夜話に云く、祖席に禅話を覚り得る故実は、我が本より知り思う心を、次第に知識の言に随って改めて去くなり。仮令仏と云うは、我が本知ったるようは、相好光明具足し、説法利生の徳ありし釈迦弥陀等を仏と知ったりとも、知識もし仏と云うは蝦蟆蚯蚓ぞと云わば、蝦蟆蚯蚓を、是れらを仏と信じて、日比の知恵を捨つるなり。この蚯蚓の上に仏の相好光明、種々の仏の所具の徳を求むるもなお情見あらたまらざるなり。ただ当時の見ゆる処を仏と知るなり。もし是の如く言に従って、情見本執をあらためてもて去けば、自ら合う処あるべきなり。然るに近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがう時は、仏とはとこそあるべけれ、また我が存ずるようにたが...
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『正法眼蔵随聞記』74、学道の人、悟りを得ざる事は

学道の人、悟りを得ざる事は、即ち古見を存ずる故なり。本より誰教えたりとも知らざれども、心と云えば念慮知見なりと思い、草木なりと云えば信ぜず。仏と云えば相好光明あらんずると思うて、瓦礫と説けば耳を驚かす。即ちこの見、父も相伝せず、母も教授せず。ただ無理に久しく人の言うにつきて信じ来れるなり。然れば、今も仏祖決定の説なれば、心を改めて、草木と云えば草木を心としり、瓦礫を仏と云えば即ち本執をあらため去ば、真に道を得べきなり。古人云く、「日月明らかなれども浮雲之れをおほう、叢蘭茂せんとするとも秋風之れを吹き破る。」と。貞観政要に之れを引いて賢王と悪臣とに喩う。今は云く、浮雲おほえども久しからず、秋風や...
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『正法眼蔵随聞記』64、衲子の用心、仏祖の行履を守るべし

また云く、衲子の用心、仏祖の行履を守るべし。第一には財宝を貪るべからず。如来慈悲深重なる事、喩えを以て推量するに、彼の所為行履、皆是れ衆生の為なり。一微塵許も衆生利益の為ならずと云う事無し。その故は、仏は是れ輪王の太子にてまします。一天をも御意にまかせ給いつべし。財を以て弟子を哀み、所領を以て弟子をはごくむべくんば、何の故にか捨てて自ら乞食を行じ給うべき。決定末世の衆生の為にも、弟子行道の為にも、利益の因縁あるべきが故に、財宝を貯えず、乞食を行じおき給えり。然つしより以来、天竺漢土の祖師の由、また人にも知られしは、皆貧窮乞食せしなり。況んや我が門の祖々、皆財宝を蓄うべからずとのみ勧むるなり。教...
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『正法眼蔵随聞記』69、学道の人自解を執する事なかれ

一日参学の次、示して云く、学道の人、自解を執する事なかれ。たとひ所会ありとも、もしまた決定よからざる事もあらん、また是れよりもよき義もやあらんと思うて、ひろく知識をも訪い、先人の言をも尋ぬべきなり。また先人の言なれども堅く執する事なかれ。もし是れもあしくもや有らん、信ずるにつけてもと思うて、勝れたる事あらば次第につくべきなり。昔忠国師の会に、有る供奉来れりしに、国師問うて云く、「南方の草の色如何。」奉云く、「黄色なり。」また、国師の童子の有りけるに問えば、同じく童子も「黄色なり。」と答えしかば、国師、供奉に云く、「汝が見、童子にこえず。汝も黄色なりと云う。是れ同見なるべし。然れば、童子、国皇の...
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『正法眼蔵随聞記』84、仏法のためには身命をおしむ事なかれ

一日示して云く、仏法のためには身命をおしむ事なかれ。俗なお道を思えば、身命をすて親族をかえりみず忠節をつくす。是れを忠臣とも賢者とも云うなり。昔、漢の高祖、隣国と軍を興す。時にある臣下の母、敵国にありき。官軍も二心有らんかと疑いき。高祖ももし母を思うて敵国へ去る事もやあらんずらん、もし去るならば軍やぶるべしとあやぶむ。ここに母も、我が子もし我れ故に二心もやあらんずらんと思うて、いましめて云く、「我れによりて我が国に来る事なかれ。割れによりて軍の忠をゆるくする事なかれ。割れもし生きたらば汝もし二心もこそあらん。」と云って、剣に身をなげてうせしかば、その子、もとより二心なかりしかば、その軍に忠節を...
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『正法眼蔵随聞記』53、大宋の禅院に麦米等をそろえて

一夜示して云く、大宋の禅院に麦米等をそろえて、あしきをさけ、よきをとって飯等にする事あり。是れをある禅師云く、「たとひ我が頭を打ち破る事七分にすとも、米をそろうる事なかれ。」と、頌に作って戒めたり。この心は、僧は斎食等を調えて食する事なかれ。ただ有るにしたがいて、よければよくて食し、あしきをもきらわずして食すべきなり。ただ檀那の信施、清浄なる常住食を以て餓を除き、命をささえて行道するばかりなり。味を思うて善悪をえらぶ事なかれと云うなり。今我が会下の諸衆、この心あるべし。因みに問うて云く、学人もし「自己仏法なり、また外に向って求むべからず。」と聞いて、深くこの語を信じて、向来の修行参学を放下して...
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『正法眼蔵随聞記』102、春秋に云く

示して云く、春秋に云く、「石の堅き、是れをわれどもその堅きを奪うべからず。丹のあかき、是れをわれどもそのあかき事を奪うべからず。」と。玄沙因に僧問う、「如何なるか是れ堅固法身。」沙云く、「膿滴々地。」と。けだし同じ心なるべきか。⇒ 続きを読む ⇒ 目次(はじめに戻る)※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。『正法眼蔵随聞記』<< 戻る
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『法句経』ダンマパダ【 第22章 地獄 】

306 いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら「私はしませんでした」と言う人、この両者は死後には等しくなる、来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。307 袈裟を頭からまとっていても、性質が悪く、つつしみのない者が多い。彼ら悪人は、悪い振る舞いによって、悪いところに(地獄)に生まれる。308 戒律を守らず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らう方がましだ。309 放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に墜ちる。310 禍をまねき、悪しきところ...
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スッタニパータ【第1 蛇の章】11、勝利

193 あるいは歩み、あるいは立ち、あるいは坐り、あるいは臥し、身を屈め、あるいは伸ばす、これは身体の動作である。194 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのまま見られることがない。195 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、196 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。197 またその九つの孔からは、常に不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、198 鼻からは鼻汁、口からはある時は胆汁を吐き、ある時は痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。199 またその頭蓋骨は空洞であり、脳髄にみちている。し...
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スッタニパータ【第2 小なる章】14、ダンミカ

わたくしが聞いたところによると、あるとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林にある孤独な人々に食を給する長者の園におられた。その時、ダンミカという在俗信者が五百人の在俗信者と共に師のおられるところに近づいた。そして師に挨拶し、かたわらに坐った。そこで在俗信者ダンミカは師に向かって詩を以て呼びかけた。376 「智慧豊かなゴータマ(ブッダ)さま。私はあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと、また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?377 実にあなたは神々とこの世の人々の帰趣(行きつく先)と究極の目的とを知っておられます。奥深い事柄を見る方...
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スッタニパータ【第3 大いなる章】9、ヴァーセッタ

わたくしが聞いたところによると、ある時、尊き師(ブッダ)はコーサラ国にあるイッチャーナンガラ村のイッチャーナンガラ林に住んでおられた。その時、多くの著名な大富豪であるバラモンたちがイッチャーナンガラ村に住んでいた。すなわちチャンキンというバラモン、タールッカというバラモン、ポッカラサーティというバラモン、ジャーヌッソーニというバラモン、トーデーヤというバラモン及びその他の著名な大富豪であるバラモンたちであった。 その時、ヴァーセッタとバーラドヴァージャという二人の青年が久しく坐していたために生じた疲労を除くために膝を伸ばすためにそぞろ歩きをあちこちで行っていた。 彼らはたまたま次のような議論を...
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スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】6、老い

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。805 人々は「我がものである」と執著したもののために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものであると見て、在家にとどまってはならない。806 人が「これは我がものである」と考えるもの、それはその人の死によって失われる。我に従う人は、賢明にこの理を知って、我がものという観念に屈してはならない。807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはや彼を見ることが出来ない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見る...
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スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】15、武器を執ること

935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれをいとい離れたその衝撃を宣べよう。936 水の少ないところにいる魚のように、人々がふるえているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起こった。937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でも全て動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに死や苦しみなどにとりつかれていないところを見つけなかった。938 生きとし生けるものは終極においては道理にたがうのを見て、わたくしは不快になった。また、わたくしはその生ける者どもの心の中に見難き煩悩...