【仏教用語/人物集 索引】

スッタニパータ【第4 八つの詩句の章】6、老い

投稿日:0202年5月28日 更新日:

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

805 人々は「我がものである」と執著したもののために悲しむ。自己の所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものであると見て、在家にとどまってはならない。

806 人が「これは我がものである」と考えるもの、それはその人の死によって失われる。我に従う人は、賢明にこの理を知って、我がものという観念に屈してはならない。

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはや彼を見ることが出来ない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

809 我がものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと物惜しみとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てていって安穏をみたのである。

810 遠ざかり退いて行ずる修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域の内に自己を現さないのが、彼に相応しいことであると言われる。

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも物惜しみも彼を汚すことがない。たとえば蓮の葉の上の水が汚されないようなものである。

812 たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

813 邪悪をはらい除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。彼は他のものによって清らかになろうとは望まない。彼は貪らず、また嫌うこともない。

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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。

なお、底本としてパーリ語経典の『スッタニパータ』を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダの言葉」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。

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