【仏教用語/人物集 索引】

『正法眼蔵随聞記』53、大宋の禅院に麦米等をそろえて

投稿日:1235年6月11日 更新日:

一夜示して云く、大宋の禅院に麦米等をそろえて 、あしきをさけ、よきをとって飯等にする事あり。
是れをある禅師云く、「たとひ我が頭を打ち破る事七分にすとも、米をそろうる事なかれ。」と、頌に作って戒めたり。

この心は、僧は斎食等を調えて食する事なかれ。ただ有るにしたがいて、よければよくて食し、あしきをもきらわずして食すべきなり。ただ檀那の信施、清浄なる常住食を以て餓を除き、命をささえて行道するばかりなり。味を思うて善悪をえらぶ事なかれと云うなり。
今我が会下の諸衆、この心あるべし。

因みに問うて云く、学人もし「自己仏法なり、また外に向って求むべからず。」と聞いて、深くこの語を信じて、向来の修行参学を放下して、本性に善悪をなして一期を過ごさん、この見いかん。

示して云く、この見解、語と理と相違せり。外に向って求むべからずと云って、行を捨て、学を放下せば、行をもて求むる所ありと聞こえたり、求めざるにあらず。ただ行学もとより仏法なりと証して、無所求にして世事悪業等の我が心に作したくとも作さず、学道修行の懶きをもなして、この行を以て果を得きたるとも、我が心より求むる事無くして行ずるをこそ、外に向って求むる事無しと云う道理には叶うべけれ。

南嶽の磚を磨して鏡を求めしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するにはあらざるなり。
坐はすなはち仏行なり。坐は即ち不為なり。是れ即ち自己の正躰なり。この外別に仏法の求むべき無きなり。

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『正法眼蔵随聞記』

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