935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれをいとい離れたその衝撃を宣べよう。
936 水の少ないところにいる魚のように、人々がふるえているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起こった。
937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でも全て動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに死や苦しみなどにとりつかれていないところを見つけなかった。
938 生きとし生けるものは終極においては道理にたがうのを見て、わたくしは不快になった。また、わたくしはその生ける者どもの心の中に見難き煩悩の矢が潜んでいるのを見た。
939 この煩悩の矢に貫かれた者は、あらゆる方角を駆け巡る。この矢を抜いたならば、あちこちを駆け巡ることもなく、沈むこともない。
940 そこで次に実践の仕方が順次に述べられる。世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。
941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、いつわりなく、悪口を言わず、怒ることなく、よこしまな貪りと物惜しみとを超えよ。
942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とに打ち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。
943 虚言をつくように誘き込まれるな。美しい姿に愛著を起こすな。また慢心を知り尽くしてなくすようにせよ。粗暴になることなくふるまえ。
944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)に捕らわれてはならない。
945 わたくしは、牽引する者のことを貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、計らい、捕捉と呼び、超え難い欲望の汚泥であるともいう。
946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。彼は一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。
947 彼は智者であり、ヴェーダの達人である。彼は理法を知り終わって、依りかかることがない。彼は世間において正しく振る舞い、世の中で何びとをもうらやむことがない。
948 世間における諸々の欲望を超え、また克服し難い執著を超えた人は、流されず、束縛されず、悲しむことなく、思いこがれることもない。
949 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来にはあなたに何ものも有らぬようにせよ。中間においてもあなたが何ものをも執しないならば、あなたは「安らかな人」として振る舞うことであろう。
950 名称と形態について、我がものという思いの全く存在しない人、また何ものかがないからといって悲しむことのない人、彼は実に世の中にあっても老いることがない。
951 「これは我がものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、彼はこのような我がものという観念が存しないから、「我になし」といって悲しむことがない。
952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。
953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。彼はあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。
954 聖者は自分が等しい者どもの内にいるとも言わないし、劣った者の内にいるとも、勝れた者の内にいるとも言わない。彼は安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。
と師は説かれた。
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※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。前知識のない一般の方でも「読んでみよう!」と思ってもらえるよう、より分かりやすく読み進めるために編集しています。漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、送り仮名を現代表記に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではない場合があります。
なお、底本としてパーリ語経典の『スッタニパータ』を使用していますが、学問的な正確性を追求する場合、参考文献である『「ブッダの言葉」中村元訳 岩波文庫』を読むようおすすめします。なお、章題/節題は比較しやすいよう同じにしました。
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