仏教を本気で学ぶ

お彼岸とは?お彼岸は日本独自の文化?

日本の古くからの風習では、ご先祖さまがいると考えられている世界(あの世、極楽、等々)を仏教的な考え方も加わり「彼岸(ひがん)」、いま私たちが生きているこの世界を「此岸(しがん)」といいます。「彼岸」という言葉は仏教の言葉で、 サンスクリット語の「パーラミター」の漢訳「到彼岸」の略です。「煩悩に満ちた現世である此岸(しがん)を離れて修行を積むことで煩悩を脱し、悟りの境地に達した世界である彼岸に到達する」という意味があります。平安時代、浄土思想が盛んになった頃、真西に沈む太陽を見て、西方極楽浄土を思い描く修行が盛んに行われました。この修行によって極楽浄土に行けると信じられていたことから、3月の春分...
仏教を本気で学ぶ

仏教用語/人物集 索引

このウェブサイトに出てくる仏教用語/人物を五十音順で探すことが出来ます。
仏教を本気で学ぶ

『法句経』ダンマパダ – ブッダ 真理の言葉

かの尊師・真人・正しく覚った人に敬礼したてまつる。【 第1章 ひと組みずつ 】1 物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。2 物事は心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように。3 「彼は、我を罵った。彼は、我を害した。彼は、我に打ち勝った。彼は、我から強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにやむことがない。4 「彼は、我を罵った。彼は、我を害した...
仏教を本気で学ぶ

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)- 彼岸花

曼珠沙華とは、梵語でいう「マンジュサカ」の音写で、天界に咲く花として「法華経」などの仏典に出てくる花です。ブッダを礼賛して降り注いだ花とされていますが、そのものは実在せず、「マンジュサカ」が「赤い花」、「葉に先立って赤花を咲かせる」という意味から、現在「曼珠沙華」と呼ばれる花に名付けられたようです。別表記としては、曼殊沙華(法華経での表記)、マンジュシャゲ、彼岸花、ヒガンバナなどがあり、別名・地方名・方言は数多く、葬式花(そうしきばな)、墓花(はかばな)、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、火事花(かじばな)、蛇花(へびのはな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(き...
仏教を本気で学ぶ

ビンビサーラ王の牢獄跡

インド・ビハール州のラージギルで仏教遺跡を巡っていた時のことです。はじめて来た土地勘のない場所で右へ左へと1人で探すのは大変でした。簡単な地図を片手に先日書いた竹林精舎に行こうとしていたところ、現地の人に「ここも仏教遺跡だ」と言われた場所の看板には「BIMBISAR JAIL」と書かれていました。「何のこっちゃ?」と思いながらも入っていくとガイドと名乗る男性(写真に写ってます)がいましたので、少し話を聞くと、はじめ聞き取りにくい英語を話していたのですが、結局、ヒンディ語で話してもらった方が理解できました。この場所はマガダ国王ビンビサーラが実子である阿闍世(アジャセ)によって閉じこめられた牢獄の...
仏教を本気で学ぶ

毘舎闍(びしゃじゃ)

毘舎闍とは、四天王眷属の八部鬼衆の一つで、畢舎遮とも音写され、啖精気(たんせいき)という訳名があります。インド神話においてはピシャーチャといい、鬼神の一種で、人および五穀の精気を食べるといわれています。また、集団の名であり、個別の神をさすものではありません。東方を守護する持国天の眷属です。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

毘沙門天(びしゃもんてん)/多聞天(たもんてん)

毘沙門天とは、須弥山(しゅみせん)の中腹に住み、帝釈天(たいしゃくてん)に仕え、夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)といった眷属(けんぞく)を従えて北方を守護しています。妻は吉祥天女(きちじょうてんにょ)です。また、七福神や四天王として知られています。ヒンドゥでは、クベーラという財宝神でしたが、サンスクリット語でヴァイシュラヴァナという呼び名もあることから、音訳されて「毘沙門」となりました。そこに、神や天を表す「天」という字が加えられ、「毘沙門天」という名になったといわれています。ヴァイシュラヴァナ呼び名は、サンスクリット語で「よく聞く」という意味であることから、意訳されて「多聞天」になりました。日...
人物

火に事えるバラモン・バーラドヴァージャ

火に事えるバラモン・バーラドヴァージャは『スッタニパータ【第1 蛇の章】7、賤しい人』に登場する。ブッダの在俗信者となる。<< 戻る
人物

学生ビンギヤ

学生ビンギヤは『スッタニパータ【第5 彼岸にいたる道の章】17、学生ビンギヤの質問』内に登場するバーヴァリ・バラモンの弟子で、お釈迦様に質問します。<< 戻る
人物

賓頭盧(びんずる/ピンドーラ・バーラドヴァージャ)

賓頭盧はお釈迦様の弟子です。十六羅漢の第一に列せられ、獅子吼第一と称されています。日本では賓頭盧尊者の像をなでると病気が治るとされる信仰があり、びんずるさん、おびんずる等々と親しんで呼ばれ、なで仏の風習が広がりました。梵語でPiṇḍola-Bhāradvāja、ピンドーラ・バーラドヴァージャであることから、音写して賓頭盧跋羅堕闍(びんずるばらだじゃ)、賓頭盧突羅闍(びんずるとらじゃ)、賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)、賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ)などと記述され、略して賓頭盧、尊称をつけて賓頭盧尊者と呼ばれます。(東大寺大仏殿の賓頭盧尊者像/2006年5月管理人撮影)<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

『妙法蓮華経譬喩品』(みょうほうれんげきょうひゆぼん)

こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る
仏教を本気で学ぶ

百箇日法要(ひゃっかにち)- 卒哭忌

百箇日とは、お亡くなりになられた当日を含めて100日目というのが一般的です。四十九日を過ぎた後の、故人を偲ぶ気持ちを表す法要です。百箇日は、卒哭忌(そっこくき)ともいいます。卒業の「卒」とあるように、学校での課程を終了するという意味があります。また、「哭」は泣くことです。ですから、「卒哭忌」とは、故人の死を泣き悲しむのを終える日という意味があります。無料や有料の法要依頼当ウェブサイトから行える法要依頼の詳細はリンク先へ。関連する宗派曹洞宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、日蓮系宗派など。<< 戻る
人物

平尾昌晃(ひらおまさあき)

作曲家、作詞家、歌手。社団法人日本作曲家協会・常務理事、社団法人日本音楽著作権協会 (JASRAC) 理事。生誕 1937年12月24日命日 2017年7月21日慈嚴院照音晃道居士<< 戻る
人物

平井和正(ひらいかずまさ)

神奈川県横須賀市生まれの日本の小説家、SF作家、漫画原作者、脚本家。娘は漫画家の平井摩利。代表作は『8マン』、『ウルフガイ』など多数。生誕 1938年(昭和13年)5月13日命日 2015年(平成27年)1月17日<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

畢竟(ひっきょう)

畢竟とは、絶対的な、究極の、とどのつまり、断じて、要するに、つまり、結局のところ、といった意味があります。・「若し道心なき者は、徒らに辛苦を労して、畢竟に益無し。『禅苑清規』に云く、「すべからく道心を運らして時に随って改変し、大衆をして受用安楽ならしむべし」と。」(『典座教訓』1、職を勤める姿が仏の姿)・「いはゆる畢竟とは、仏果菩提なり。阿耨多羅三藐三菩提と初発菩提心と、格量せば劫火、螢火のごとくなるべしといへども、自未得度先度他の心をおこせば、二無別なり。」(「正法眼蔵」発菩提心)<< 戻る
人物

平山郁夫(ひらやまいくお)

画家、教育者。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号は広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろ、原爆後遺症(白血球減少)で一時は死も覚悟したなか玄奘三蔵(三蔵法師)をテーマとする『仏教伝来』を描きあげ院展に入選する。以降、郁夫の作品には仏教をテーマとしたものが多い。仏教のテーマはやがて、古代インドに発生した仏教をアジアの果ての島国にまで伝えた仏教東漸の道と文化の西と東を結んだシルクロードへの憧憬につながっていった。そのあと、郁夫はイタリアやフランスなど、ヨーロッパ諸国も訪ねている。郁...
仏教を本気で学ぶ

比丘尼(びくに)

比丘尼とは、巴語で bhikkhunī といい、女性の「乞う者」を意味します。女性の出家者、女性の修行者のことですが、漢訳では「比丘尼」と音写されたものが一般的です。尼僧(にそう)、尼(あま)ともいいます。仏教教団における最初の比丘尼はマハー・パジャーパティー(摩訶波闍波提/お釈迦様の養母)です。お釈迦様の存命した当時、インドの諸宗教では家を出た全ての修行者は托鉢によって食べ物を得ていたので「乞う者」といいます。在家の人々は修行者に最上の敬意を示して食べ物を捧げますが、修行者は平然とこれを受け、挨拶やお礼を返さないのが作法です。出家者、修行僧ともいいます。男性の修行者のことは「比丘」といいます...
人物

深作欣二(ふかさくきんじ)

映画監督・脚本家。愛称はサクさん。 妻は女優の中原早苗。長男は映画監督の深作健太。茨城県緑岡村出身。千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。千葉とはこののち17作品でコンビを組む。『風来坊探偵シリーズ』『ファンキーハットの快男児シリーズ』『カミカゼ野郎 真昼の決斗』などの他、『仁義なき戦いシリーズ』は邦画史に残るヒットを記録。『柳生一族の陰謀』『復活の日』『魔界転生』『蒲田行進曲』『里見八犬伝』『忠臣蔵外伝 四谷怪談』『バトル・ロワイアル』など多数。生誕 1930年7月3日命日 2003年1月12日<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

修行者(しゅぎょうしゃ)- 比丘

修行者は巴語で bhikkhu といい、「乞う者」を意味します。漢訳では「比丘」と音写します。お釈迦様の存命した当時、インドの諸宗教では家を出た全ての修行者は托鉢によって食べ物を得ていたので「乞う者」といいます。在家の人々は修行者に最上の敬意を示して食べ物を捧げますが、修行者は平然とこれを受け、挨拶やお礼を返さないのが作法です。出家者、修行僧ともいいます。また、女性の修行者のことを「比丘尼」といいます。<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

彼岸(ひがん)

彼岸とは、完全な理想の境地のことです。迷いの此岸に対して、悟りの世界をいいます。ニルヴァーナの境地。無為の岸。彼岸にいたること、完成することを「到彼岸」といいますが、梵語(サンスクリット語)では「pāramitā」となり、音訳して「波羅蜜多」と表示されます。これは「般若心経」の一節でもあるため聞き覚えのある方も多いかもしれません。日本で一般的に使われている「彼岸」という言葉は「到彼岸」を略したものだという説もあります。「彼岸会」もしくは春と秋の「お彼岸」のことを指して単に「彼岸」と呼ぶことも多いです。彼岸会とは、日常の苦しい生活を脱し、楽しい精神生活を送るために、仏法を聞き、行いを正しくする日...
仏教を本気で学ぶ

解脱(げだつ)

解脱とは、煩悩や束縛を離れて精神が自由となることです。苦しみ悩む世界から解放された安らぎの状態であることから、悟り、涅槃と同じ境地を表します。また、三解脱門という三種の禅定があります。仏教だけで使われる言葉ではなく、ヒンドゥー、ジャイナ教、シーク教において様々な意味で語られています。梵語(サンスクリット語) vimokṣa、vimukti、mukti巴語(パーリ語) vimokkha、vimutti、mokkha、vimokha・「財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、彼らの行く路(足跡)は知り難い。空飛ぶ鳥の迹が知り難いように。」(ダ...
人物

hide(ひで)- X JAPAN

ミュージシャン、ギタリスト、歌手、プロデューサー。神奈川県横須賀市出身。生誕 1964年(昭和39年)12月13日命日 1998年(平成10年)5月2日秀徳院釋慈音<< 戻る
人物

菱田春草(ひしだしゅんそう)

明治期の日本画家。横山大観、下村観山と共に岡倉天心(覚三)の門下で、明治期の日本画の革新に貢献した。本名は三男治(みおじ)。代表作「王昭君図」「賢主菩薩」「落葉」「黒き猫」生誕 1874年(明治7年)9月21日命日 1911年(明治44年)9月16日<< 戻る
人物

樋口一葉(ひぐちいちよう)

小説家。東京生まれ。戸籍名は「奈津」だが本人は「夏子」と名乗ることが多かった。 中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6ヶ月で肺結核により死去。生誕 1872年5月2日(明治5年3月25日)命日 1896年(明治29年)11月23日智相院釋妙葉信女<< 戻る
人物

土方歳三(ひじかたとしぞう)

幕末期の幕臣、新選組副長。蝦夷島政府 陸軍奉行並。 諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。 新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷島政府」では、軍事治安部門の責任者に任ぜられて指揮を執った。生誕 天保6年(1835年)命日 明治2年5月11日(1869年6月20日)歳進院殿誠山義豊大居士<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

学侶、行人、聖の三派が廃止

明治元年(1868年)、学侶、行人、聖の三派が廃止される。<< 戻る
人物

平田篤胤(ひらたあつたね)

江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽国久保田藩出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎、家号を真菅乃屋。大角または大壑とも号した。医者としては玄琢を使う。生誕 安永5年8月24日(1776年10月6日)命日 天保14年閏9月11日(1843年11月2日)<< 戻る
人物

平賀源内(ひらがげんない)

江戸時代中頃の人物。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。生誕 享保13年(1728年)命日 安永8年12月18日(1780年1月24日)智見霊雄大居士<< 戻る
人物

菱川師宣(ひしかわもろのぶ)

江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年ともいわれる。享年64-65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称されるのは、それまで本の挿絵でしかなかった浮世絵版画をひとつの作品と捉え直し、「浮世絵」というジャンルを確立したため。「見返り美人図」生誕 元和4年〈1618年〉命日 元禄7年6月4日〈1694年7月25日〉勝誉即友居士<< 戻る
人物

左甚五郎(ひだりじんごろう/ひだのじんごろう)

左甚五郎は江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。講談や浪曲、落語、松竹新喜劇で有名であり、左甚五郎作と伝えられる作品も各地にある。講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を切り落とされたため、また、左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。生誕 文禄3年(1594年)命日 慶安4年4月28日(1651年6月16日)※諸説あり。法橋宗恵匠誉信士<< 戻る
仏教を本気で学ぶ

徳川家康、教如に京都烏丸七条の寺地を寄付(東西本願寺分立)

1602(慶長七)年2月、徳川家康、教如に京都烏丸六条の寺地を寄付(東西本願寺分立)。東西本願寺分立に至るまでの大きな分岐点としては、1591(天正十九)年、豊臣秀吉の京都市街経営計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることとなり、顕如上人は七条堀川の現在地を選び、ここに寺基を移すことに決められた。阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した1592(文禄(ぶんろく)元)年、上人は積年の疲労で倒れられ、50歳で往生された。長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継がれたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた譲状(ゆずりじょう)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれた。これには大坂本願寺の退去に...
仏教を本気で学ぶ

織田信長 比叡山延暦寺の焼き討ち

1571年、織田信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、一向一揆をしずめる。<< 戻る