「 高野山金剛峯寺-和歌山県伊都郡 」 一覧

金剛峯寺及び関係各所拝観等再開について(高野山金剛峯寺)

かねてより新型コロナウイルス感染症の拡大防止の為、拝観等を停止していましたが、和歌山県内の緊急事態宣言が解除されたことを受け、参拝時の感染症の予防と拡散防止対策を行い5/16(土)より順次再開いたしま ...

高野山金剛峯寺-和歌山県伊都郡

・高野山金剛峯寺 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高野町大字高野山132 総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内と ...

和歌山県伊都郡の真言宗寺院

寺院情報を宗派別に掲載。住所等を参考にしてご利用ください。 👍2 慈尊院 高野山真言宗 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832 👍2 総持院 高野山真言宗 和歌山県伊都郡高 ...

Raindrops 〜美しきこの世界

高野山での研修2日目。 大阪人権協議会の副会長さんに誘って頂いて、 朝5時15分に起床して 奥之院の朝の勤行に参加しました。(リンク先より) ・Raindrops 〜美しきこの世界

高野山真言宗設立

昭和二十一年(1946年)、高野山真言宗設立し金剛峯寺を総本山とする。 << 戻る

大塔落慶

昭和十二年(1937年)、根本大塔落慶。 << 戻る

金堂落慶

昭和七年(1932年)、金堂落慶。 << 戻る

ケーブルカーが開通

昭和五年(1930年)、ケーブルカーが開通。 << 戻る

電車が極楽橋まで開通

昭和四年(1929年)、電車が極楽橋まで開通。 << 戻る

金堂全焼する

昭和元年(1926年)、金堂全焼する。 << 戻る

女人の入住が公式に認められる

明治三十八年(1905年)、女人の入住が公式に認められる。 << 戻る

高野山大師教会発足

明治三十三年(1900年)、高野山大師教会発足。 << 戻る

子院六百数十ヶ寺を統廃合

明治二十四年(1891年)、高野山内の子院六百数十ヶ寺を統廃合し、百三十ヶ寺に。 << 戻る

高野山の女人禁制とかれる

明治五年(1872年)、高野山の女人禁制とかれる。 << 戻る

高野山の寺領を国へ返す

明治四年(1871年)、高野山の寺領や寺有林も政府に返上し、経済的地盤も失いました。 << 戻る

青厳寺・興山寺を合併し金剛峯寺と改める

明治二年(1869年)、青巌寺と興山寺が合併して真言宗の一寺院となり、高野山全体の寺号だった「金剛峯寺」を称します。 << 戻る

学侶、行人、聖の三派が廃止

明治元年(1868年)、学侶、行人、聖の三派が廃止される。 << 戻る

御影堂が紀州徳川家を檀主として再建される

弘化四年(1847年)、現在の御影堂が紀州徳川家を檀主として再建される。 << 戻る

伽藍全焼する

天保十四年(1843年)、落雷による大火で伽藍全焼する。 << 戻る

現在の大門が出来る

宝永二年(1705年)、現在の大門が出来る。 << 戻る

伽藍諸堂、焼失する

寛永七年(1630年)、伽藍諸堂、焼失する。 << 戻る

青厳寺建立

天正二十年(1593年)、豊臣秀吉、剃髪寺(のちに青巌寺と改名)建立。 文禄4年(1595年)の秀次事件では、青巌寺で豊臣秀次の切腹が行われています。 << 戻る

興山寺建立

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉、興山寺建立。 << 戻る

豊臣秀吉の高野山を焼き討ちは中止される

天正十三年(1585年)、織田信長の基盤を継いだ豊臣秀吉も高野山を焼き討ちしようとするが、高野山の客僧だった応其上人の働きで中止される。高野山の寺領が解放され、秀吉はその後、金堂や大塔を再建するなど、 ...

織田信長、高野攻め

天正九年(1581年)、織田信長、高野攻め。 高野山は比叡山と同じように、独自の武力を蓄えていた。寺領は17万石以上あり、3万6千の兵を養っていたと記されている。高野山が織田信長を裏切った荒木村重の残 ...

伽藍諸堂、焼失する

大永元年(1521年)、伽藍諸堂、焼失する。 << 戻る

竪精論議始まる(けんせいろんぎ)

応永十四年(1407年)5月3日、二者対立して論議の勝敗をあらそう竪精論議始まる。 竪精(りっせい)とは、高野山の僧侶が履修する「学道」と呼ばれる真言教学について研鑽する一連の儀礼の一つで論議の方式を ...

町石が建てられる

文永二年~弘安八年(1265年~1285年)、高野山麓慈尊院から山上まで町石が建てられる。 << 戻る

北条政子、金剛三昧院に多宝塔を寄進

貞応二年(1223年)、北条政子が源頼朝のために、金剛三昧院に多宝塔(現存・国宝)を寄進する。 << 戻る

不動堂建立

建久九年(1198年)、行勝上人、一心谷に不動堂(現存)を建立。 << 戻る

平家の落武者や、没落した貴族が高野山に

文治二年(1186年)、この頃から平家の落武者や、没落した貴族が高野山に逃れてくる。また、この頃から高野聖らの唱導によって高野山への納骨を勧め、伽藍再建のための寄進を求めました(勧進)。 << 戻る

平清盛が大塔再建に尽力する

保元元年(1156年)、平清盛が大塔再建に尽力する。その際に、自らの血を絵の具に混ぜた「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず、別名・血曼荼羅)」を寄進したと伝えられます。 << 戻る



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