仏教を本気で学ぶ

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八部衆(はちぶしゅう)

八部衆または天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)とは、釈迦如来に仕え仏法を守護する8種族のことです。天衆(てんしゅう)、龍衆(りゅうしゅう)、夜叉衆(やしゃしゅう)、乾闥婆衆(けんだつばしゅう)、阿修羅衆(あしゅらしゅう)、迦楼羅衆(かるらしゅう)、緊那羅衆(きんならしゅう)、摩睺羅伽衆(まごらかしゅう)。仏教が流布する以前の古代インドの鬼神、戦闘神、音楽神、動物神などが仏教に絶対の信頼を寄せて護法善神となったものです。【天衆】 梵天、帝釈天を初めとする、いわゆる「天部」の神格の総称です。(興福寺・乾漆八部衆立像・五部浄像・ごぶじょう)【龍衆】「竜」「竜王」などと称される種族の総称です。 蛇を...
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弔い上げ(とむらいあげ)

弔い上げとは、50回忌や33回忌に施主やその家の都合でこれ以後、年忌供養を営まないと決めることです。どの宗派にも「弔い上げとはこうするもの」という決まりはありません。ただし、寺院によっては、弔い上げを行うと永代供養をしなければならないという話の流れになり、墓地販売と同じく収入源にするところも少なくないようで、その場合は寺院都合とも言えます。仏教が入ってくる前の日本では人が亡くなって50年や100年経つと、山の神や海の神となるような信仰が各地にありました。それが50回忌で弔い上げを行うことにつながり、近年では早めようとする傾向もありますが、そもそも、昔は寿命が50年ほどで、50回忌まですると、そ...
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曼珠沙華(まんじゅしゃげ)- 彼岸花

曼珠沙華とは、梵語でいう「マンジュサカ」の音写で、天界に咲く花として「法華経」などの仏典に出てくる花です。ブッダを礼賛して降り注いだ花とされていますが、そのものは実在せず、「マンジュサカ」が「赤い花」、「葉に先立って赤花を咲かせる」という意味から、現在「曼珠沙華」と呼ばれる花に名付けられたようです。別表記としては、曼殊沙華(法華経での表記)、マンジュシャゲ、彼岸花、ヒガンバナなどがあり、別名・地方名・方言は数多く、葬式花(そうしきばな)、墓花(はかばな)、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、火事花(かじばな)、蛇花(へびのはな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(き...
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チュンダの供養 – ブッダ最後の食事

チュンダの供養とは、鍛治屋(かじや)・工巧師(こうこうし)の子であるチュンダ(純陀)が、ブッダの説法を聞き、チュンダの屋敷で食事を振る舞ったが、それがブッダ最後の食事になりました。・最後に食べた「スーカラ・マッダヴァ」という料理について、豚肉料理やキノコ料理など諸説あり、はっきりしていませんがスーカラは「豚」で、マッダヴァは「柔らかい」という意味なので、豚肉料理か、豚が地面に鼻をこすりつけながら探しだすトリュフのようなキノコ料理とも考えられています。・古代インドでは、尊敬する人に敬意をしめす方法として、食事や香などを捧げる習慣を「供養」(プージャー)といいました。『大般涅槃経』によると、ブッダ...
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見仏記(けんぶつき)- テレビ見仏記

見仏記とは、いとうせいこう(本文を担当)とみうらじゅん(絵を担当)の共著による紀行文シリーズです。仏教美術としての枠にはまったものの見方ではなく、独自の観点で仏像を鑑賞し、独特の表現で言い表す姿が人気です。また、二人が出演するテレビ見仏記では、見仏記のコンセプトのもと関西周辺の仏像を巡る様子を収録しています。この番組はⅮⅤⅮ化、ブルーレイ化され発売されているほか、一部動画配信もされています。<< 戻る
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納骨堂(のうこつどう)

納骨堂とは、骨壺に入れた遺骨(お骨)を安置するための寺院や霊園にある建物です。大きく分けると、寺院納骨堂、公営納骨堂、民営納骨堂の3種の運営主体があります。また、現代の納骨堂には、ロッカー式、仏壇式、自動搬送式など様々な種類があります。・ロッカー式は、区分された棚に、遺骨を収める形式の納骨堂です。自由にお参りができる場合もあれば、遺骨を出してもらってお参りする場合もあり、施設によってその方法が変わります。また、遺骨だけが納められるもの、位牌などを一緒に納められるものなど、それぞれです。・仏壇式はロッカー式のように棚になっていますが、上段に仏壇、下段に遺骨と2段に分れて安置する形式です。・自動搬...
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投薬(とうやく)

投薬とは、病気や症状に応じて薬を与えることで「患者に投薬する」というような使われ方をします。しかし、その語源が仏教によること、さらにはお釈迦様の涅槃に関することだと知っていますか?今回は、その詳細をまとめていこうと思います。お釈迦様は最後の旅の途中で病気になり、クシナガラの沙羅双樹の間に横になり、今まさに涅槃に入ろうとしていることをお釈迦様がルンビニで誕生して7日後に亡くなった生母・摩耶夫人が天界で知ります。摩耶夫人は、お釈迦様がもっと長く多くの人にその教えを説いてほしいとの願いから、長寿の薬を与えようと急いでその場所まで行き、お釈迦様が沙羅双樹の間に横になっている枕元を目がけて薬を投げました...
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上げ法事(あげほうじ)

上げ法事とは、お寺でする年回忌などの法事のことです。法事はご家庭や墓前、セレモニーホールで行うこともあるかもしれませんが、お寺に上がって行う法事のことを「上げ法事」といいます。同じ漢字を使っているからか、50回忌や33回忌に施主やその家の都合でこれ以後、年忌供養を営まないと決める弔い上げ(とむらいあげ)と混同されて使う人もいるようです。ゲームでゴールすると「上がり」と言い、それでおしまいという意味になりますが、この場合は違います。<< 戻る
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雷神(らいじん)

雷神とは、古代インドの自然現象を神格化した原初的な神で、仏教に取り入れられてからは千手観音菩薩の眷属である二十八部衆の傍らに風神と対になって表現される場合が多いようです。雷神は連鼓を打って天空をかける姿であることから、その像や図絵の造形も数個の小太鼓を肩より上方、あるいは頭上にささげる裸の力士形に表現されています。<< 戻る
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牟呼栗多(むこりった)

牟呼栗多とは、「しばらく」「少しの間」「瞬時」の意味を持ち、時間の単位を表します。『摩訶僧祇律』では、須臾(しゅゆ)と表記されています。それによると、1昼夜 = 30須臾(牟呼栗多)1須臾(牟呼栗多) = 20羅予(らよ)『大毘婆沙論』『倶舎論』では、1昼夜 = 30牟呼栗多1牟呼栗多 = 30臘縛(ろうばく)1昼夜とは24時間で、1440分 = 30牟呼栗多よって、1牟呼栗多は約48分を表します。ただし、上記は一例で、この単位が表す時間の程度には使われ方によって幅があります。また、松山ケンイチ主演で公開された映画「川っぺりムコリッタ」は、ここで説明している牟呼栗多から採られ、この映画は「かも...
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門前掲示板(もんぜんけいじばん)- お寺の掲示板

門前掲示板とは、お寺の入り口に掲げられ、誰もが見ることが出来る掲示物です。単に掲示板とも、伝導掲示板とも、呼ばれ方の違いはあるものの、多くのお寺で利用されています。門前掲示板の内容は様々ですが、お経やその宗派に因んだものから、書籍やマンガから抜粋されることもあります。文字だけではなく、イラストで現わされることもあります。更新頻度は1ヶ月のところが多いようですが、お彼岸やお盆、新年など、季節の節目やイベント時に特別な掲示物を貼りだすことも多いようです。・門前掲示板便り 一覧<< 戻る
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🔔除夜の鐘(じょやのかね)108 New Year’s bell

除夜の鐘とは、仏教の年中行事の一つで年末年始に行われます。12月31日の除夜(大晦日の夜)の深夜0時を挟む時間帯に、寺院の梵鐘を撞くことが本来の姿ですが、住宅事情に配慮して31日の日中に行う場合もあります。除夜の鐘は基本的には108回撞かれます。ただし、打ち出しの鐘を含まない場合や、108回撞いた後に、参列者(希望者)が途絶えるまで鐘を撞いていい寺院など、その行事の主催者によって作法の違いはあるようです。中国の宋代の禅宗寺院の習慣に由来すると考えられ、日本でも禅寺で鎌倉時代以降より現代までこれに倣って毎日、朝・昼・夕に鐘が撞かれています(主に大規模な寺院)。室町時代には、除夜の鐘を撞くことは大...
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お布施(おふせ)

一般的に理解されているお布施とは、法要の際に寺院に渡す金品のことを指しています。お布施の金額は前もって分かっていた方が良いと思いますが、実際のところ、地域や宗派によって金額が異なる、もしくは、家の格や収入によって変わる、戒名の形式によって変わる、その様なことが多くあるようです。よく言われるお布施の相場は、家庭での法事で5万円~3万円です。それにプラスしてお車代やお膳料で各1万円~5千円。檀家や門徒として登録しなければいけない場合は別途年間3万~5万円くらいの護寺会費も必要でしょう。会費を集めて「先のお布施で対応しますよ」というサービスです。また、納骨やお墓の開眼、仏壇の開眼を行う場合は、更にそ...
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阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)

阿弥陀如来、阿弥陀仏について、このページでは主に造像さた仏像としての阿弥陀如来像、阿弥陀仏像、阿弥陀像について書きます。もともとの梵名は「アミターバ」あるいは「アミターユス」 といい、それを音写して「阿弥陀」、漢訳して無量光、無量寿とも呼ばれます。また、略して、弥陀仏とも呼ばれることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。衣服は全身を覆う一枚の衲衣(のうえ)や大衣(だいえ)の布を着て、装飾品は身につけず、持物は何も持っていません。例外もあり、一部には装身具を身につけたものもあります。頭部は螺髪(らほつ)と呼ばれる髪型で、中央部は頂髻相(ちょうけいそう)・肉髻(にっけい)を表していて盛り上が...
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掃除

小僧「掃除が終わりました」師匠「ここも埃が、あそこにも、どこも終わってないぞ!」小僧「おかしいな!?そう言われてみれば埃がありますね」師匠「きれいだと思って見ればきれいに見えるからな」小僧「はい」師匠「そういった先入観を先ず掃除してみなさい」<< 戻る
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餓鬼(がき)

餓鬼とは、三途・五趣(五道)・六趣(六道)の一つで、常に飢えと乾きに切迫され、食物や飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうことから、決して満たされることがない鬼神です。また、集団の名であり、個別の神をさすものではありません。「死者の霊」を意味する梵語プレータの音訳を薜茘多(へいれいた)といい、仏教では六道の内の餓鬼道(餓鬼の世界)に生まれた者のことをいいます。また、インド神話においてブータという熱病をもたらす鬼には臭餓鬼(しゅうがき)という訳名があります。「施餓鬼会」「餓鬼大将」「悪餓鬼」<< 戻る
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愛語(あいご)

愛語とは、四摂(ししょう)の一つである「あたたかい心のこもった言葉をかけること」で、これによって人々を救いに導く実践行です。そのことは聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(ほっけぎしょ)に出てきます。また、鎌倉時代の道元が著わした『正法眼蔵』にも「愛語」の言葉は何度も使われていて「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。」と説明されています。四字熟語にもなっている「和顔愛語」(わげんあいご/我がんあいご)はより分かりやすい言葉になっていますが、和やかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することを指す言葉です。・「自分を苦しめず、また他人を害しない言葉の...
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精進料理(しょうじんりょうり)- 菜食主義との違い

精進料理とは、仏教と共に中国から日本に伝わった修行僧のための食事のことですが、現在、一般に精進料理といわれているものは、曹洞宗や臨済宗、黄檗宗などの禅宗で確立されたスタイルのものです。それぞれの時代、それぞれの宗派の戒に基づき、殺生や煩悩への刺激を避けた食材を使い調理された料理のことです。また、斎食(さいじき)のことを指す場合もあります。「精進料理とは、精進する人の食べ物です」このように聞いたことがあります。精進料理とは、一般的には、肉や魚を使わずに、野菜、果物、海草などを使って作る料理です。インドや欧米などで肉や魚を食べない菜食主義(ベジタリアン)があります。では、この精進料理と菜食主義は同...
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気づき

あの頃の自分が気づけなかったことが今こうして気付くことができるようになったならあの頃も無駄ではない<< 戻る
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戒名不要論

戒名のことを調べるとどこかに出てくる戒名不要論その論調でいけば名前もいらない誕生日もいらない戒名不要論者は番号で管理されれば良いとでも?戒名はその人の生きざまどう生きていくかどう生きてきたかを現わすものお坊さんがそれを証明するもの師匠がそれを証明するもの自身や家族がそれを認め自他ともに認め戒は保たれる<< 戻る
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餓鬼幡(がきばた)- 施餓鬼幡、棚幡

餓鬼幡とは、寺院などで行われる施餓鬼会(せがきえ)や施食会(せじきえ)、一般的にいう「おせがき」供養で使われる「緑・黄・赤・白・紫」の五色の幡(はた)です。施餓鬼幡(せがきばた)とも呼ばれ、施餓鬼棚(せがきだな)に飾られることから棚幡(たなばた)ともいいます。棚幡と同じ音である「七夕」(たなばた)の歌には「五色の短冊~♪」と出てきますが、願い事を書いた短冊は何に付けますか?そうです、笹ですね。餓鬼幡も施餓鬼棚の四隅に立てられた笹にくくり付けられます。現在は異なる行事として行っていますが、その様式は同じ起源を持つと考えられています。(施餓鬼棚の竹と餓鬼幡)餓鬼幡は宗派によって施餓鬼会の行い方が異...
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仏性(ぶっしょう)

仏性とは、生命ある全てのものが持つ仏の性質や仏になり得る原因・可能性のことで、 主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理です。覚性(かくしょう)とも訳されます。 時代や地域、宗派によって、その考え方は様々に発展され、現在は統一見解と呼べるものはありません。一般的には、誰もが仏性を備えていて、修行することで隠れている仏性が発揮されることで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことが出来るとされます。この仏性が活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされています。浄土真宗の宗祖とされる親鸞はいくら修行をしても自...
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邪鬼(じゃき)

邪鬼とは、仁王像や四天王像に踏まれている小型の鬼で、仏法を犯す邪神として懲らしめられ、苦悶の表情をみせています。悪鬼(あっき)、悪魔などとも総称されます。仏教と切り離した分類でも、たたりをする神や、物の怪(け)、怨霊(おんりょう)と表現されます。寺院の諸堂や山門などの瓦葺き建造物の屋根の端などに設置され飾られる瓦を総称して鬼瓦といいますが、悪霊が寄りつくのをさけるために邪鬼の面があしらわれているものが多くあります。<< 戻る
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袈裟(けさ)

袈裟とは、出家修行者や僧侶が身につける布でできた衣装で、略式の袈裟は信者も着用します。梵語で壊色・混濁色を意味する「カーシャーヤ」を音訳したものです。糞掃衣(ふんぞうえ)、福田衣(ふくでんえ)、法衣(ほうえ)ともいいます。インドの仏教僧侶が身にまとっていた布が袈裟で、初期の仏教の出家僧侶は、下着にあたる安陀会(あんだえ、五条)、普段着にあたる鬱多羅僧(うったらそう、七条)、儀式・訪問着にあたる僧伽梨(そうぎゃり、九条から二十五条)の3枚を持つことが許され、「条」というのはその袈裟に必要とされる布片の幅や枚数を表わします。それらの袈裟と食事や托鉢に使う持鉢(じはつ)をあわせて三衣一鉢(さんえいっ...
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三毒(さんどく)

三毒とは、迷い苦しむ原因となる欲望のことで、煩わせる心・悟りに至る道を妨げる心のことで、人間の諸悪・苦しみの根源とされている貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを指します。その中でも癡が根本であると考えていました。邪悪。貪(とん・ラーガ(梵)・ローパ(巴))とは、貪欲(とんよく)ともいい、むさぼりや必要以上に求める心で、通常「欲」「物惜しみ」「むさぼり」と表現されます。瞋(しん・ドヴェーシャ(梵)・ドーサ(巴))とは、瞋恚(しんに)ともいい、怒りの心で、通常「いかり」「にくしみ」と表現されます。癡(ち/痴・モーハ(梵)(巴))とは、愚癡(ぐち)ともいい、真理に対する無知の心で、通常「おろかさ」と...
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愛敬相(あいぎょうそう)- 愛想、愛嬌

愛敬相とは、仏・菩薩の姿は温和で慈悲深く、拝む人たちがその姿に愛(いつく)しみ、敬(うやま)わらずにはおられない相(そう)だということを表しています。「愛想を尽かす」と使われる愛想の語源は愛敬相で、略したものです。また、「愛嬌がある」と使われる愛嬌の語源も愛敬相で、「愛敬」を略したものですが、主体が変わり「愛嬌」の字があてられて使われています。<< 戻る
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四摂(ししょう)- 四摂法(ししょうぼう)

四摂、または、四摂法とは、観世音菩薩や地蔵菩薩などが説いた、誰にでもできる人々を救いに導く菩薩の実践行です。四摂事(ししょうじ)、四恩(しおん)ともいいます。菩薩の実践とは、他者を幸せにしないかぎり、自分の幸せは得られないというものです。また、この場合の「摂」という字は、「まとめる」「全てをとる」という意味を表します。次の四つの行為を合わせ行うことで菩薩の道を実践することが出来るといわれています。・布施(ふせ)・・・教えやものを施すことで、独り占めせずに分かち合うこと。・愛語(あいご)・・・あたたかい心のこもった言葉をかけること。・利行(りぎょう)・・・見返りを求めずに、他人のためになることを...
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愛(あい)

愛とは、慈しむ心や慈しんで行うことです。愛想、愛嬌、愛語、愛着(愛著)など、愛が付く仏教語は多くあります。そこから「愛」が仏教の中でどのように使われているのかを確認したいと思います。「愛想」、「愛嬌」というのは実は同じ仏教語「愛敬相」(あいぎょうそう)が語源で、仏・菩薩の姿は温和で慈悲深く、拝む人たちがその姿に愛(いつく)しみ、敬(うやま)わらずにはおられない相(そう)だということを表しています。「愛語」というのは四摂(ししょう)の一つである「あたたかい心のこもった言葉をかけること」で、これによって人々を救いに導く実践行です。そのことは聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(ほっけぎしょ...
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つながり

誰も分からないからと手を抜いたことが自分を縛り付ける誰も分からないからと悪事を働いたことが自分を縛り付ける誰かが困るかもしれないこと誰も困らなくても自分を縛り付ける<< 戻る
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心が動けば 人は変わる

頭で考えていたことが頭に一杯になっていたことが大したことなくなることがある心が動けば人は変わる会話で気持ちが晴れ音楽で気持ちが晴れ笑顔で気持ちが晴れ物語で気持ちが晴れ心が動けば人は変わる<< 戻る
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ただ現在

前世がどうだとか来世がどうだとか分からないものは分からない人は考えるのが好きだからいつまでも妄想が過ぎる 過去世のことは過去に任せ未来世のことは未来に任せばいいただ現在今のことすら分からずに何をしているのだろうか<< 戻る
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法華八講(ほっけはっこう)

法華八講とは、法華経(妙法蓮華経)8巻を1巻ずつ8座で行いますが、1日に朝夕2座講じて4日間で読誦・講讃する法会です。略して「八講」ともいいます。そこでは、読師、講師、問者、精義、堂達の5者の役割があり、読師が経題を唱えて講師が経文を講釈し、さらに問者が教義上の質問をして講師がそれに答え、精義が問答を判定、堂達が進行を司ります。法華八講の起源は中国とされますが、日本では延暦 15 (796) 年に奈良の石淵寺の勤操が4日間『法華経』を講義したのを最初とされています。その後宮中、幕府において死者の追善供養のために行われました。<< 戻る