buddhism

人物

織田無道(おだむどう)

僧侶、タレント。神奈川県厚木市出身で自称織田信長の子孫。臨済宗建長寺派円光禅寺の第49代住職。生誕 1952年(昭和27年)8月8日命日 2020年(令和2年)12月9日<< 戻る
便り

西楽寺の鬼瓦

鬼瓦(おにがわら)とは、寺院の諸堂や山門などの瓦葺き建造物の屋根の端などに設置され飾られる瓦を総称してそう呼んでいます。<< 戻る
便り

信楽寺の鬼瓦

鬼瓦(おにがわら)とは、寺院の諸堂や山門などの瓦葺き建造物の屋根の端などに設置され飾られる瓦を総称してそう呼んでいます。<< 戻る
便り

大蓮寺の鬼瓦

鬼瓦(おにがわら)とは、寺院の諸堂や山門などの瓦葺き建造物の屋根の端などに設置され飾られる瓦を総称してそう呼んでいます。<< 戻る
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長円寺の鬼瓦

鬼瓦(おにがわら)とは、寺院の諸堂や山門などの瓦葺き建造物の屋根の端などに設置され飾られる瓦を総称してそう呼んでいます。<< 戻る
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阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)

阿弥陀如来、阿弥陀仏について、このページでは主に造像さた仏像としての阿弥陀如来像、阿弥陀仏像、阿弥陀像について書きます。もともとの梵名は「アミターバ」あるいは「アミターユス」 といい、それを音写して「阿弥陀」、漢訳して無量光、無量寿とも呼ばれます。また、略して、弥陀仏とも呼ばれることもあります。如来とは悟りを開いた仏の姿です。衣服は全身を覆う一枚の衲衣(のうえ)や大衣(だいえ)の布を着て、装飾品は身につけず、持物は何も持っていません。例外もあり、一部には装身具を身につけたものもあります。頭部は螺髪(らほつ)と呼ばれる髪型で、中央部は頂髻相(ちょうけいそう)・肉髻(にっけい)を表していて盛り上が...
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掃除

小僧「掃除が終わりました」師匠「ここも埃が、あそこにも、どこも終わってないぞ!」小僧「おかしいな!?そう言われてみれば埃がありますね」師匠「きれいだと思って見ればきれいに見えるからな」小僧「はい」師匠「そういった先入観を先ず掃除してみなさい」<< 戻る
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餓鬼(がき)

餓鬼とは、三途・五趣(五道)・六趣(六道)の一つで、常に飢えと乾きに切迫され、食物や飲物でさえも手に取ると火に変わってしまうことから、決して満たされることがない鬼神です。また、集団の名であり、個別の神をさすものではありません。「死者の霊」を意味する梵語プレータの音訳を薜茘多(へいれいた)といい、仏教では六道の内の餓鬼道(餓鬼の世界)に生まれた者のことをいいます。また、インド神話においてブータという熱病をもたらす鬼には臭餓鬼(しゅうがき)という訳名があります。「施餓鬼会」「餓鬼大将」「悪餓鬼」<< 戻る
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愛語(あいご)

愛語とは、四摂(ししょう)の一つである「あたたかい心のこもった言葉をかけること」で、これによって人々を救いに導く実践行です。そのことは聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(ほっけぎしょ)に出てきます。また、鎌倉時代の道元が著わした『正法眼蔵』にも「愛語」の言葉は何度も使われていて「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。」と説明されています。四字熟語にもなっている「和顔愛語」(わげんあいご/我がんあいご)はより分かりやすい言葉になっていますが、和やかな笑顔と思いやりのある話し方で人に接することを指す言葉です。・「自分を苦しめず、また他人を害しない言葉の...
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精進料理(しょうじんりょうり)- 菜食主義との違い

精進料理とは、仏教と共に中国から日本に伝わった修行僧のための食事のことですが、現在、一般に精進料理といわれているものは、曹洞宗や臨済宗、黄檗宗などの禅宗で確立されたスタイルのものです。それぞれの時代、それぞれの宗派の戒に基づき、殺生や煩悩への刺激を避けた食材を使い調理された料理のことです。また、斎食(さいじき)のことを指す場合もあります。「精進料理とは、精進する人の食べ物です」このように聞いたことがあります。精進料理とは、一般的には、肉や魚を使わずに、野菜、果物、海草などを使って作る料理です。インドや欧米などで肉や魚を食べない菜食主義(ベジタリアン)があります。では、この精進料理と菜食主義は同...
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気づき

あの頃の自分が気づけなかったことが今こうして気付くことができるようになったならあの頃も無駄ではない<< 戻る
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戒名不要論

戒名のことを調べるとどこかに出てくる戒名不要論その論調でいけば名前もいらない誕生日もいらない戒名不要論者は番号で管理されれば良いとでも?戒名はその人の生きざまどう生きていくかどう生きてきたかを現わすものお坊さんがそれを証明するもの師匠がそれを証明するもの自身や家族がそれを認め自他ともに認め戒は保たれる<< 戻る
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餓鬼幡(がきばた)- 施餓鬼幡、棚幡

餓鬼幡とは、寺院などで行われる施餓鬼会(せがきえ)や施食会(せじきえ)、一般的にいう「おせがき」供養で使われる「緑・黄・赤・白・紫」の五色の幡(はた)です。施餓鬼幡(せがきばた)とも呼ばれ、施餓鬼棚(せがきだな)に飾られることから棚幡(たなばた)ともいいます。棚幡と同じ音である「七夕」(たなばた)の歌には「五色の短冊~♪」と出てきますが、願い事を書いた短冊は何に付けますか?そうです、笹ですね。餓鬼幡も施餓鬼棚の四隅に立てられた笹にくくり付けられます。現在は異なる行事として行っていますが、その様式は同じ起源を持つと考えられています。(施餓鬼棚の竹と餓鬼幡)餓鬼幡は宗派によって施餓鬼会の行い方が異...
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仏性(ぶっしょう)

仏性とは、生命ある全てのものが持つ仏の性質や仏になり得る原因・可能性のことで、 主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理です。覚性(かくしょう)とも訳されます。 時代や地域、宗派によって、その考え方は様々に発展され、現在は統一見解と呼べるものはありません。一般的には、誰もが仏性を備えていて、修行することで隠れている仏性が発揮されることで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことが出来るとされます。この仏性が活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされています。浄土真宗の宗祖とされる親鸞はいくら修行をしても自...
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邪鬼(じゃき)

邪鬼とは、仁王像や四天王像に踏まれている小型の鬼で、仏法を犯す邪神として懲らしめられ、苦悶の表情をみせています。悪鬼(あっき)、悪魔などとも総称されます。仏教と切り離した分類でも、たたりをする神や、物の怪(け)、怨霊(おんりょう)と表現されます。寺院の諸堂や山門などの瓦葺き建造物の屋根の端などに設置され飾られる瓦を総称して鬼瓦といいますが、悪霊が寄りつくのをさけるために邪鬼の面があしらわれているものが多くあります。<< 戻る
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甘露寺に「鬼滅の刃」ファン 紀の川市が更衣室や撮影用背景など用意(和歌山経済新聞)

甘露寺 浄土宗 和歌山県紀の川市貴志川町長原693・浄土宗寺院「甘露寺」(紀の川市貴志川町長原)に現在、「鬼滅の刃」ファンが訪れている。鬼滅の刃は、2016(平成28)年から今年5月まで「週刊少年ジャンプ」で連載した吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)さんのマンガ。大正時代の日本を舞台に人と鬼の戦いを描く。2019年にTVアニメ化。現在公開中の劇場版アニメは公開10日で790万人を動員し、興行収入100億円を突破した。・各地で「聖地巡礼」が行われている。作中の女性剣士「甘露寺蜜璃(かんろじみつり)」の影響で、甘露寺にもファンが訪れている。・住職の山下芳巌さんは「普段は神社仏閣に足を運ばない若い人たち...
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曹洞宗大本山總持寺の動画や関連するオンライン法要のお経

※現在、公開が終了しているか、公開を一時的に止めているようです。曹洞宗大本山總持寺の動画と関連するお経の再生リストです。このオンライン法要を再生して実施する場合に個別の回向が依頼出来ます。(リンク先より)<< 戻る
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築地本願寺のオンライン法要など浄土真宗系・浄土系のお経

※現在、公開が終了しているか、公開を一時的に止めているようです。築地本願寺のオンライン法要の話題と関連するお経の再生リストです。このオンライン法要を再生して実施する場合に個別の回向が依頼出来ます。(リンク先より)<< 戻る
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袈裟(けさ)

袈裟とは、出家修行者や僧侶が身につける布でできた衣装で、略式の袈裟は信者も着用します。梵語で壊色・混濁色を意味する「カーシャーヤ」を音訳したものです。糞掃衣(ふんぞうえ)、福田衣(ふくでんえ)、法衣(ほうえ)ともいいます。インドの仏教僧侶が身にまとっていた布が袈裟で、初期の仏教の出家僧侶は、下着にあたる安陀会(あんだえ、五条)、普段着にあたる鬱多羅僧(うったらそう、七条)、儀式・訪問着にあたる僧伽梨(そうぎゃり、九条から二十五条)の3枚を持つことが許され、「条」というのはその袈裟に必要とされる布片の幅や枚数を表わします。それらの袈裟と食事や托鉢に使う持鉢(じはつ)をあわせて三衣一鉢(さんえいっ...
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三毒(さんどく)

三毒とは、迷い苦しむ原因となる欲望のことで、煩わせる心・悟りに至る道を妨げる心のことで、人間の諸悪・苦しみの根源とされている貪・瞋・癡(とん・じん・ち)のことを指します。その中でも癡が根本であると考えていました。邪悪。貪(とん・ラーガ(梵)・ローパ(巴))とは、貪欲(とんよく)ともいい、むさぼりや必要以上に求める心で、通常「欲」「物惜しみ」「むさぼり」と表現されます。瞋(しん・ドヴェーシャ(梵)・ドーサ(巴))とは、瞋恚(しんに)ともいい、怒りの心で、通常「いかり」「にくしみ」と表現されます。癡(ち/痴・モーハ(梵)(巴))とは、愚癡(ぐち)ともいい、真理に対する無知の心で、通常「おろかさ」と...
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愛敬相(あいぎょうそう)- 愛想、愛嬌

愛敬相とは、仏・菩薩の姿は温和で慈悲深く、拝む人たちがその姿に愛(いつく)しみ、敬(うやま)わらずにはおられない相(そう)だということを表しています。「愛想を尽かす」と使われる愛想の語源は愛敬相で、略したものです。また、「愛嬌がある」と使われる愛嬌の語源も愛敬相で、「愛敬」を略したものですが、主体が変わり「愛嬌」の字があてられて使われています。<< 戻る
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四摂(ししょう)- 四摂法(ししょうぼう)

四摂、または、四摂法とは、観世音菩薩や地蔵菩薩などが説いた、誰にでもできる人々を救いに導く菩薩の実践行です。四摂事(ししょうじ)、四恩(しおん)ともいいます。菩薩の実践とは、他者を幸せにしないかぎり、自分の幸せは得られないというものです。また、この場合の「摂」という字は、「まとめる」「全てをとる」という意味を表します。次の四つの行為を合わせ行うことで菩薩の道を実践することが出来るといわれています。・布施(ふせ)・・・教えやものを施すことで、独り占めせずに分かち合うこと。・愛語(あいご)・・・あたたかい心のこもった言葉をかけること。・利行(りぎょう)・・・見返りを求めずに、他人のためになることを...
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愛(あい)

愛とは、慈しむ心や慈しんで行うことです。愛想、愛嬌、愛語、愛着(愛著)など、愛が付く仏教語は多くあります。そこから「愛」が仏教の中でどのように使われているのかを確認したいと思います。「愛想」、「愛嬌」というのは実は同じ仏教語「愛敬相」(あいぎょうそう)が語源で、仏・菩薩の姿は温和で慈悲深く、拝む人たちがその姿に愛(いつく)しみ、敬(うやま)わらずにはおられない相(そう)だということを表しています。「愛語」というのは四摂(ししょう)の一つである「あたたかい心のこもった言葉をかけること」で、これによって人々を救いに導く実践行です。そのことは聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(ほっけぎしょ...
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つながり

誰も分からないからと手を抜いたことが自分を縛り付ける誰も分からないからと悪事を働いたことが自分を縛り付ける誰かが困るかもしれないこと誰も困らなくても自分を縛り付ける<< 戻る
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心が動けば 人は変わる

頭で考えていたことが頭に一杯になっていたことが大したことなくなることがある心が動けば人は変わる会話で気持ちが晴れ音楽で気持ちが晴れ笑顔で気持ちが晴れ物語で気持ちが晴れ心が動けば人は変わる<< 戻る
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ただ現在

前世がどうだとか来世がどうだとか分からないものは分からない人は考えるのが好きだからいつまでも妄想が過ぎる 過去世のことは過去に任せ未来世のことは未来に任せばいいただ現在今のことすら分からずに何をしているのだろうか<< 戻る
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法華八講(ほっけはっこう)

法華八講とは、法華経(妙法蓮華経)8巻を1巻ずつ8座で行いますが、1日に朝夕2座講じて4日間で読誦・講讃する法会です。略して「八講」ともいいます。そこでは、読師、講師、問者、精義、堂達の5者の役割があり、読師が経題を唱えて講師が経文を講釈し、さらに問者が教義上の質問をして講師がそれに答え、精義が問答を判定、堂達が進行を司ります。法華八講の起源は中国とされますが、日本では延暦 15 (796) 年に奈良の石淵寺の勤操が4日間『法華経』を講義したのを最初とされています。その後宮中、幕府において死者の追善供養のために行われました。<< 戻る
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吉祥悔過(きちじょうけか)

吉祥悔過とは、吉祥天女を本尊としてまつり、最勝王経を読み、罪を懺悔して国家の安泰や作物の豊穣を願う、毎年正月に行われる法会です。「吉祥」は仏教の守護神とされる吉祥天のこと。「悔過」は間違いを悔いること。仏教の言葉で、「吉祥天悔過」を略した言葉です。関連動画:オンライン懺悔(鐘の音・20秒間隔) ロウソクの灯 Confession time<< 戻る
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ご褒美

働いて勉強してご褒美があったらうれしい掃除して片づけてキレイになったらうれしい子育てして面倒を見てかわいい姿を見られたらうれしい人生の中でうれしいを探してうれしいを見つけたらうれしい<< 戻る
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優先順位

生きるということはいろんなものに優先順位をつけて進むことだ無意識の優先もあれば意識した順位もある良いか悪いかそれは関係ないそれぞれが判断する結び目に優先順位がある優先順位をつけているのは自分だ他人が他人の優先順位を決めるものではない自分のことが出来るようになれば他人を優先するのも良いだろうしかし自分のことが出来ていないのに他人を優先するのには違和感を感じる先ずは自分を優先して見て欲しい自分がやらなければいけないことで迷惑をかけていては元も子もない優先することは優遇することではないこうありたいと自分を飾ってはいけない自分を見なければ誤った優先順位をつけてしまう優先順位をつけているのは自分だから先...
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家と墓

家は土地に縛り付け墓は寺に縛り付けそれで安心する人もいればそれが不安な人もいる自分で踏ん張っていれば自分の意志だ誰かに縛り付けられたら自分の意志じゃないどんなこともどんな人も縛り付けられているというような錯覚はさっさとゴミ箱に捨ててしまおう<< 戻る
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銀閣寺をオンライン拝観

慈照寺(銀閣寺)ライブカメラアクセス数が多めだっだたから少し覗いて見たコロナ禍の銀閣寺貸しきり状態写真撮り放題でもこれが本当のオンライン拝観<< 戻る