仏教を本気で学ぶ

『正法眼蔵随聞記』79、世間の人多分云く

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『正法眼蔵随聞記』96、先師全和尚入宋せんとせし時

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『正法眼蔵随聞記』97、世間の人自ら云く

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『正法眼蔵随聞記』78、善悪と云う事定め難し

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『正法眼蔵随聞記』59、世間の女房なんどだにも

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専修念仏の停止

法然聖人の主著である『選択集』と真影(しんねい)を写すことを許され、吉水で入門後に綽空(しゃっくう)と名のられていたのを善信(ぜんしん)と改めました。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、既存仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元元年(1207年)後鳥羽上皇によって専修念仏が停止(ちょうじ)され、法然聖人の門弟4人の死罪、法然聖人と中心的な門弟7人が流罪に処され、親鸞聖人は越後に流罪となりました。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗の立場に立ちました。<< 戻る
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選択本願念仏集

建久9(1198)年、法然上人は一部十六章からなる「選択本願念仏集」を撰述(せんじゅつ)しました。建久8(1197)年に九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」と懇請されたのに応じられ、門弟の感西や証空や遵西の三人に執筆の助手役をつとめさせ、撰述にとりかりました。建久9(1198)年の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。【第一】聖道浄土二門篇【第二】雑行を捨てて正行に帰する篇【第三】念仏往生本願篇【第四】三輩念仏往生篇【第五】念仏利益篇【第六】末法万年に特り念仏を留むる篇【第七】光明ただ念仏の行者を摂する篇【第八】三心篇【第九】四修法...
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聖光房弁長弟子入り

建久8(1197)年、後に浄土宗の第二祖と仰がれる聖光房弁長(べんちょう) 、三十六歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
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勢観房源智弟子入り

建久6(1195)年、後に法然上人に常随給仕する勢観房源智 (げんち) 、十三歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
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禅宗停止の宣旨

建久5(1194)年、延暦寺、興福寺の訴えにより朝廷から禅宗停止の宣旨が下されるなど、栄西禅師の都での禅の布教は困難を極めた。<< 戻る
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雪竇智鑑(せっちょうちかん)

中国・宋時代の禅僧。天童宗珏に就いて嗣法。弟子には天童如浄がいる。生誕 1105年命日 1192年<< 戻る
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長蘆清了(ちょうろせいりょう)

中国・宋時代の禅僧。諡は悟空禅師。真歇清了(しんけつせいりょう)とも記述される。丹霞子淳に就いて嗣法。弟子には天童宗珏がいる。生誕 1089年(元祐4年)命日 1151年11月10日(紹興21年10月1日)<< 戻る
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禅苑清規(ぜんえんしんぎ)

禅苑清規とは、禅院の修行道場における規律を定めた現存する最古の規則で、雲門宗の慈覚大師・長盧宗賾(ちょうろそうさく)によって記されました。元符年間(1098-1100年)に編集を始め、崇寧二年(1103年)に完成したことから「崇寧清規」とも呼ばれます。また、「ぜんねんしんぎ」とも読まれます。唐の百丈懐海が初めて禅院の清規を制定したとされている「百丈清規」は年月と共に散逸し、それを遺憾とした長盧宗賾は、百丈懐海の古清規に則りながらも、広く諸方の叢林の行法を調べ、時代の推移に則して、受戒、上堂、監院、知客、化主等七十七項に分けて記されています。全10巻。禅宗。①第一巻 受戒 護戒 弁道具 装包 旦...
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葉県帰省(せっけんきせい)

中国・宋時代の禅僧。首山省念に就いて嗣法。弟子には浮山法遠がいる。葉県禅師の禅風を「厳冷枯淡」(げんれいこたん)と表します。生誕 命日 << 戻る
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石門慧徹(せきもんえてつ)

中国・五代十国時代~宋時代の禅僧。梁山縁観に就いて嗣法。生誕 943年命日 1027年<< 戻る
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雪峰義存(せっぽうぎぞん)

中国唐末から五代十国時代の禅僧。泉州南安県の出身。諡は真覚大師。徳山宣鑑に就いて嗣法。弟子には玄沙師備、雲門文偃、長慶慧稜、鼓山神晏、保福従展など多数。『雪峰眞覺禪師語録』・修行時代に典座を志し、いつも飯杓子を持って歩いていたほどであったので、禅宗寺院の典座寮は、またの名を雪峯寮と呼ばれることがあります。・一人の雲水が徳山宣鑑に弟子入りしようとして渓流に添って上って行くと、上流から野菜の切れ端が流れて来たので、「一筋の野菜といえど粗末にするようなところはろくな道場ではあるまい」と思い山をおりかけると、一人の僧(雪峰義存)がこの流菜を追いかけて下ってきたことから、雲水は思い直して徳山宣鑑に入門し...
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徳山宣鑑(とくざんせんかん)

中国唐代の禅僧。簡州陽安県の出身。諡は見性大師。龍潭崇信に就いて嗣法。弟子には雪峰義存、巌頭全奯がいる。武陵徳山古徳禅院。30年間にわたって龍潭崇信に師事し、潙山霊祐にも参禅した。徳山の棒。生誕 建中元年(780年)命日 咸通6年12月3日(865年12月24日)<< 戻る
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西堂智蔵(せいどうちぞう)

中国唐の時代の禅僧。馬祖道一に就いて嗣法。「正法眼蔵」虚空より抜粋撫州石鞏慧蔵禅師、西堂智蔵禅師に問ふ、汝還た虚空を捉得せんことを解脱する麼。西堂曰、捉得せんことを解脱す。師曰、儞作麼生か捉する。西堂、手を以て虚空を撮す。師曰、虚空を捉せんことを解脱せず。西堂曰、師兄作麼生か捉する。師、西堂が鼻孔を把りて拽く。西堂、忍痛の声を作して曰く、太殺人、人の鼻孔を拽いて、直得脱去す。師曰、直に恁地に捉することを得て始得ならん。生誕 735年命日 814年<< 戻る
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善珠(ぜんしゅ/ぜんじゅ)

奈良時代から平安時代前期にかけての僧。俗姓は阿刀氏で、玄昉の子とする史書もあるが、善珠の生まれた723年当時玄昉は遣唐使として唐に滞在している最中である。大和国の出身。秋篠寺の開基とされている。法相六祖の1人。玄昉に師事して法相・因明に通じた。生誕 養老7年(723年)命日 延暦16年4月21日(797年5月25日)<< 戻る
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石頭希遷(せきとうきせん)

中国唐の時代の禅僧。端州高要県の出身。はじめ大鑑慧能のもとで学ぶもその遷化により兄弟子の青原行思に就いて嗣法。弟子には薬山惟儼、天皇道悟、丹霞天然がいる。諡は無際大師。著作に「参同契」。曹洞宗大本山總持寺には石頭のものとされるミイラが安置されている。生誕 久視元年(700年)命日 貞元6年12月25日(791年2月2日)<< 戻る
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青原行思(せいげんぎょうし)

中国唐の時代の禅僧。吉州安復県出身。大鑑慧能に就いて嗣法。弟子には石頭希遷がいる。諡は弘済禅師。青原山浄居寺。子供の頃に寺に入り、しばらく修行した後に曹渓山(広東省韶関市曲江区)の大鑑慧能を尋ねて師事した。その後、故郷に帰って青原山に浄居寺(江西省吉安市青原区)を開く。後に弟弟子に当たる石頭希遷が大鑑慧能の死後に、第一座の勧めで来訪して弟子となり、その法を発展させ、その弟子筋からは、曹洞宗、雲門宗、法眼宗の三派が起こる。生誕 命日 開元28年12月13日(741年1月4日)<< 戻る
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施薬院と悲田院

施薬院(せやくいん)とは、貧しい病人に薬を与え疫病(えきびょう)の治療をした施設です。今の病院にあたります。悲田院(ひでんいん)とは、貧窮者・病者・孤児などの救済施設です。今の養護施設にあたります。723年(養老7年)、皇太子妃時代の光明皇后が奈良の興福寺に施薬院と悲田院を創設しれたという記録が『扶桑略記』にあり、これが記録上最古の施薬院と悲田院です。その後、役割を補い合い、各所につくられるようになりますが、中世には衰亡しました。また、豊臣秀吉が再興しています。光明皇后(701〜760年)は、奈良時代の聖武天皇の皇后です。名は光明子(こうみょうし)といいました。安宿媛(あすかべひめ)ともいいま...
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世親/婆修盤頭(せしん/ばしゅばんず)

インド西北部にあったガンダーラ国(現在のパキスタン、ペシャーワル地方)のバラモンの家系に生まれました。父の名はカウシカ(Kauśika、憍尸迦)、母の名はヴィリンチ(Viriñci、比隣持)。実の兄は無著。鳩摩羅多に就いて嗣法。弟子には摩拏羅がいる。梵語(サンスクリット語)のVasubandhu(ヴァスバンドゥ)の音写で婆修盤頭、婆薮般豆、婆薮般頭と記述されることがありますが、一般的には意訳された世親、天親も知られた名前です。唯識思想を大成し、以降の仏教において大きな潮流となりました。著作には『阿毘達磨倶舎論』『唯識二十論』『唯識三十頌』『浄土論』他多数。生誕 300年頃命日 400年頃<< ...
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『法句経』ダンマパダ【 第8章 千という数にちなんで 】

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スッタニパータ【第1 蛇の章】12、聖者

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スッタニパータ【第3 大いなる章】7、セーラ

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ウルヴェーラの苦行林(前正覚山)

ウルヴェーラの苦行林は漢訳では前正覚山(ぜんしょうがくざん)といい、お釈迦様がブッダになる前のシッダッタと呼ばれていた時に修行を行った場所です。修行をするということは苦行を積むというのがインドでは一般的であったので、シッダッタも修行者が多く集まるガヤー(インド)に向かいました。シッダッタは、このウルヴェーラの苦行林に入り、6年間の苦行を続けました。断食の苦行、息を止める苦行、草だけを食べる苦行、牛糞を食べる苦行、イバラに身を横たえる苦行、ずっと立っている苦行、灼熱の太陽を凝視する苦行、墓地で死体と共に暮らす苦行、何が起きてもじっと耐えて坐禅する苦行など、普通では耐えられない苦行を繰り返したため...