【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」供養諸仏(くようしょぶつ)

投稿日:1279年6月23日 更新日:

仏言、
若無過去世(若し過去世無くんば)、
応無過去仏(応に過去仏無かるべし)。
若無過去仏(若し過去仏無くんば)、
無出家受具(出家受具無けん)。

あきらかにしるべし、三世にかならず諸仏ましますなり。しばらく過去の諸仏におきて、そのはじめありといふことなかれ、そのはじめなしといふことなかれ。もし始終の有無を邪計せば、さらに仏法の習学にあらず。

過去の諸仏を供養したてまつり、出家し、隨順したてまつるがごとき、かならず諸仏となるなり。供仏の功徳によりて作仏するなり。いまだかつて一仏をも供養したてまつらざる衆生、なにによりてか作仏することあらん。無因作仏あるべからず。

仏本行集経言、
仏告目犍連、我念往昔、於無量無辺諸世尊所、種諸善根、乃至求於阿耨多羅三藐三菩提(仏、目犍連に告げたまはく、我れ往昔を念ふに、無量無辺の諸の世尊の所に於て、諸の善根を種ゑ、乃至阿耨多羅三藐三菩提を求めき)。

目犍連、我念往昔、作転輪聖王身、値三十億仏。皆同一号、号釈迦。如来及声聞衆、尊重承事、恭敬供養、四事具足。いわゆる衣服、飲食、臥具、湯薬。時彼諸仏、不与我記、汝当得阿耨多羅三藐三菩提、及世間解、天人師、仏世尊、於未来世、得成正覚(目犍連、我れ往昔を念ふに、転輪聖王の身と作りて、三十億の諸仏に値ひたてまつりき。皆な同じく一号にして、釈迦と号けき。如来及び声聞衆まで、尊重し承事し、恭敬し供養して四事具足せり。いわゆるる衣服、飲食、臥具、湯薬なり。時に彼の諸仏、我れに記を与へて、汝、当に阿耨多羅三藐三菩提を得、及び世間解、天人師、仏世尊として、未来世に於て、正覚を成ずることを得べしとしたまはざりき)。

目犍連、我念往昔、作転輪聖王身、値八億諸仏。皆同一号、号燃燈。如来及声聞衆、尊重恭敬、四事供養。いわゆる衣服、飲食、臥具、湯薬、幡蓋、華香。時彼諸仏、不与我記、汝当得阿耨多羅三藐三菩提、及世間解、天人師、仏世尊(目犍連、我れ往昔を念ふに、転輪聖王の身と作りて、八億の諸仏に値ひたてまつりき。皆な同じく一号にして、燃燈と号けき。如来及び声聞衆まで、尊重し恭敬して、四事供養せり。いわゆるる衣服、飲食、臥具、湯薬、幡蓋、華香なり。時に彼の諸仏、我れに記を与へて、汝、当に阿耨多羅三藐三菩提を得、及び世間解、天人師、仏世尊たるべしとしたまはざりき)。

目犍連、我念往昔、作転輪聖王身、値三億諸仏。皆同一号、号弗沙。如来及声聞衆、四事供養、皆悉具足。時彼諸仏、不与我記、汝当作仏(目犍連、我れ往昔を念ふに、転輪聖王の身と作りて、三億の諸仏に値ひたてまつりき。皆な同じく一号にして弗沙と号けき。如来及び声聞衆まで、四事供養し、皆な悉く具足せり。時に彼の諸仏、我れに記を与へて、汝、当に作仏すべしとしたまはざりき)。

このほかそこばくの諸仏を供養しまします。転輪聖王身としては、かならず四天下を統領すべし、供養諸仏の具、まことに豊饒なるべし。もし大転輪王ならば、三千界に王なるべし。その時の供仏、いまの凡慮はかるべからず。ほとけときましますとも、解了することをえがたからん。

仏蔵経浄見品第八云、
仏告舎利弗、我念過世、求阿耨多羅三藐三菩提、値三十億仏。皆号釈迦牟尼。我時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子、衣服、飲食、臥具、醫薬、為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏、不記我、言汝於来世、当得作仏。何以故。以我有所得故(仏、舎利弗に告げたまはく、我れ過世を念ふに、阿耨多羅三藐三菩提を求めて、三十億の諸仏に値ひたてまつりき。皆な釈迦牟尼と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで、諸弟子に及ぶまで、衣服、飲食、臥具、醫薬を供養せり、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。而も是の諸仏、我れを記して、汝、来世に於て当に作仏することを得べしと言はざりき。何を以ての故に。我れ有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、得値八千仏。皆号定光。時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子、衣服、飲食、臥具、醫薬、為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏、不記我汝於来世、当得作仏。何以故。以我有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、八千仏に値ひたてまつることを得たり。皆な定光と号けき。時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで、諸弟子に及ぶまで、衣服、飲食、臥具、醫薬を供養せり、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。而も是の諸仏、我れを汝、来世に於て当に作仏することを得べしと記したまはざりき。何を以ての故に。我れ有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、値六万仏。皆号光明。我時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子、衣服、飲食、臥具、醫薬、為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏、亦不記我汝於来世、当得作仏。何以故。以我有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、六万仏に値ひたてまつりき。皆な光明と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで、諸弟子に及ぶまで、衣服、飲食、臥具、醫薬を供養せり、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。而も是の諸仏、亦た我れを汝、来世に於て、当に作仏することを得べしと記したまはざりき。何を以ての故に。我れ有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、値三億仏。皆号弗沙。我時作転輪聖王、四事供養、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、三億仏に値ひたてまつりき。皆な弗沙と号けき。我れ時に転輪聖王と作りて、四事供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、得値万八千仏。皆号山王、劫名上八。我皆於此万八千仏所、剃髪法衣修習阿耨多羅三藐三菩提、皆不記我。以我有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、万八千仏に値ひたてまつることを得たり。皆な山王と号け、劫を上八と名づけき。我れ皆な此の万八千仏の所に於て、剃髪法衣して阿耨多羅三藐三菩提を修習せしに、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、得値五百仏。皆号華上。我時皆作転輪聖王、悉以一切、供養諸仏及諸弟子、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、五百仏に値ひたてまつることを得たり。皆な華上と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、悉く一切を以て、諸仏及び諸弟子を供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、得値五百仏。皆号威徳。我悉供養、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、五百仏に値ひたてまつることを得たり。皆な威徳と号けき。我れ悉く供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、得値二千仏。皆号憍陳如。我時皆作転輪聖王、悉以一切、供養諸仏、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、二千仏に値ひたてまつることを得たり。皆な憍陳如と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、悉く一切を以て仏を供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、値九千仏。皆号迦葉。我以四事、供養諸仏及諸弟子衆、皆不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、九千仏に値ひたてまつれり。皆な迦葉と号けき。我れ四事を以て、諸仏及び諸弟子衆を供養せしも、皆な我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過去、於万劫中、無有仏出。爾時初五百劫、有九万辟支仏。我尽形寿、悉皆供養衣服、飲食、臥具、醫薬、尊重讃嘆。次五百劫、復以四事、供養八万四千億諸辟支仏、尊重讃嘆(舎利弗、我れ過去を念ふに、万劫の中に於て、仏の出でたまふこと有ること無し。爾の時に初めの五百劫に、九万の辟支仏有りき。我れ尽形寿に、悉く皆な衣服、飲食、臥具、醫薬を供養して、尊重し讃嘆しき。次の五百劫に、復た四事を以て、八万四千億の諸の辟支仏を供養し、尊重し讃嘆しき)。

舎利弗、過是千劫已、無復辟支仏。我時閻浮提死、生梵世中、作大梵王。如是展転、五百劫中、常生梵世作大梵王、不生閻浮提。過是五百劫已、下生閻浮提、治化閻浮提、命終生四天王天。於中命終、生忉利天、作釈提桓因。如是展転、満五百劫生閻浮提、満五百劫生於梵世、作大梵王(舎利弗、是の千劫を過ぎ已りて、復た辟支仏無し。我れ時に閻浮提に死して、梵世の中に生まれて大梵王と作りき。是の如く展転して、五百劫の中に、常に梵世に生まれ大梵王と作りて、閻浮提に生ぜず。是の五百劫を過ぎ已りて、閻浮提に下生して、閻浮提を治化して、命終して四天王天に生まれき。中に於て命終して忉利天に生まれ、釈提桓因と作りき。是の如く展転して、五百劫を満てて閻浮提に生まれ、五百劫を満てて梵世に生まれ、大梵王と作りき)。

舎利弗、我於九千劫中、但一生閻浮提、九千劫中、但生天上。劫尽焼時、生光音天。世界成已、還生梵世。九千劫中生、都不生人中(舎利弗、我れ九千劫の中に、但だ一たび閻浮提に生まれ、九千劫の中に、但だ天上にのみ生る。劫尽きて焼けし時、光音天に生る。世界成じ已りて、還た梵世に生る。九千劫の中の生、都て人中に生まれざりき)。

舎利弗、是九千劫、無有諸仏、辟支仏、多諸衆生墮在悪道(舎利弗、是の九千劫に、諸仏、辟支仏有ること無く、諸の衆生の悪道に墮在するもの多かりき)。

舎利弗、是万劫過已、有仏出世。号曰普守如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊。我於爾時、梵世命終生閻浮提、作転輪聖王。号曰共天。人寿九万歳。我尽形寿、以一切楽具、供養彼仏及九十億比丘。於九万歳、為求阿耨多羅三藐三菩提。是普守仏亦不記我汝於来世、当得作仏。何以故。我於爾時、不能通達諸法実相、貪著計我有所得見(舎利弗、是の万劫過ぎ已りて、仏有りて出世したまひき。号けて普守如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊と曰ふ。我れ爾の時に於て、梵世に命終して閻浮提に生まれ、転輪聖王と作りき。号けて共天と曰ふ。人寿九万歳なりき。我れ尽形寿に、一切の楽具を以て、彼の仏及び九十億の比丘を供養せり。九万歳に於て阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。是の普守仏も亦た我れを汝、来世に於て、当に作仏することを得べしと記したまはざりき。何を以ての故に。我れ爾の時に、諸法実相に通達すること能はず、計我、有所得の見に貪著したればなり)。

舎利弗、於是劫中、有百仏出、名号各異。我時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子。為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏亦不記我汝於来世、当得作仏。以有所得故(舎利弗、是の劫の中に、百仏有りて出でたまひ、名号各異なりき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで供養すること、諸弟子に及べり。阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なりき。而も是の諸仏も亦た我れを汝、来世に於て当に作仏することを得べしと記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、第七百阿僧祇劫中、得値千仏。皆号閻浮檀。我尽形寿四事供養、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、第七百阿僧祇劫の中に、千仏に値ひたてまつることを得たり。皆な閻浮檀と号けき。我れ尽形寿に四事供養せしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値六百二十万諸仏。皆号見一切儀。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、亦た第七百阿僧祇劫の中に、六百二十万の仏に値ひたてまつることを得たり。皆な、見一切儀と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養すること諸弟子に及びしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値八十四仏。皆号帝相。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、亦た第七百阿僧祇劫の中に、八十四仏に値ひたてまつることを得たり。皆な、帝相と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養すること諸弟子に及びしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値十五仏。皆号日明。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、亦た第七百阿僧祇劫の中に、十五仏に値ひたてまつることを得たり。皆な日明と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養すること諸弟子に及びしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値六十二仏。皆号善寂。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養、亦不記我。以有所得故(舎利弗、我れ過世を念ふに、また第七百阿僧祇劫の中に、六十二仏に値ひたてまつることを得たり。皆な善寂と号けき。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養せしも、亦た我れを記したまはざりき。有所得なりしを以ての故なり)。

如是展転、乃至見定光仏、乃得無生忍。記我言、汝於来世過阿僧祇劫、当得作仏、号釈迦牟尼如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊(是の如く展転して、乃至定光仏を見たてまつりて、乃ち無生忍を得たり。ち我れを記して言はく、汝、来世に於て阿僧祇劫を過ぎて、当に作仏することを得て、釈迦牟尼如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊と号くべしと)。

はじめ三十億の釈迦牟尼仏にあひたてまつりて、尽形寿供養よりこのかた、定光如来にあふたてまつらせたまふまで、みな常に転輪聖王のみとして、尽形寿供養したてまつりまします。転輪聖王、おほくは八万已上なるべし。あるいは九万歳、八万歳の寿量、そのあひだの一切楽具の供養なり。定光仏とは燃燈如来なり。三十億の釈迦牟尼仏にあひたてまつりまします、仏本行集経ならびに仏蔵経の説、おなじ。

釈迦菩薩、初阿僧企耶、逢事供養七万五千仏。最初名釈迦牟尼、最後名宝髻。第二阿僧企耶、逢事供養七万六千仏。最初即宝髻、最後名燃燈。第三阿僧企耶、逢事供養七万七千仏。最初即燃燈、最後名勝観。於修相異熟業九十一劫中、逢事供養六仏。最初名勝観、最後名迦葉波(釈迦菩薩、初阿僧企耶に、七万五千仏に逢事し供養したてまつりき。最初を釈迦牟尼と名づけ、最後を宝髻と名づけき。第二阿僧企耶に、七万六千仏に逢事し供養したてまつりき。最初は即ち宝髻、最後を燃燈と名づけき。第三阿僧企耶に、七万七千仏に逢事し供養したてまつりき。最初は即ち燃燈、最後名勝観と名づけき。相異熟業を修する九十一劫の中に、六仏に逢事し供養したてまつりき。最初は即ち勝観、最後名迦葉波と名づけき)。

おほよそ三大阿僧祇劫の供養諸仏、はじめ身命より、国城妻子、七宝男女等、さらにをしむところなし。凡慮のおよぶところにあらず。あるいは黄金の粟を白銀の埦にもりみて、あるいは七宝の粟を金銀のにもりみてて供養したてまつる。あるいは小豆、あるいは水陸の花、あるいは栴檀、沈水香等を供養したてまつり、あるいは五茎の青蓮華を、五百の金銀をもて買取て、燃灯仏を供養したてまつりまします。あるいは鹿皮衣、これを供養したてまつる。

おほよそ供仏は、諸仏の要樞にましますべきを供養したてまつるにあらず。いそぎ我がいのちの存ぜる光陰をむなしくすごさず、供養したてまつるなり。たとひ金銀なりとも、ほとけの御ため、なにの益かあらん。たとひ香花なりとも、またほとけの御ため、なにの益かあらん。しかあれども、納受せさせたまふは、衆生をして功徳を増長せしめんための大慈大悲なり。

大般涅槃経第二十二云、
仏言、善男子、我念過去無量無辺那由他劫、爾時世界名曰娑婆。有仏世尊、号釈迦牟尼如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊。為諸大衆、宣説如是大涅槃経。我於爾時、従善友所転、聞彼仏当為大衆説大涅槃。我聞是已、其心歓喜、欲設供養。居貧無物。欲自売身、薄福不售。即欲還家、路見一人(仏言はく、善男子、我れ過去無量無辺那由他劫を念ふに、爾の時に世界を名づけて娑婆と曰へり。仏世尊有り、釈迦牟尼如来、応供、正遍知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊と号けき。諸の大衆の為に、是の如くの大涅槃経を宣説したまひき。我れ爾の時に於て、善友の所より転じて、彼の諸仏当に大衆の為に大涅槃を説きたまふと聞きき。我れ是れを聞き已りて、其の心歓喜し、供養を設けんと欲へり。貧に居して物無し。自ら身を売らんと欲へども、薄福にして售れず。即ち家に還らんと欲ふに、路に一人を見たり)。

而便語言、吾欲売身、若能買不(吾れ身を売らんと欲ふ、若能く買ふや不や)。
其人答曰、我家作業、人無堪者、汝設能為、我当買汝(我が家の作業は、人の堪ふる者無し、汝設し能く為さば、我れ当に汝を買ふべし)。
我即問言、有何作業、人無能堪(何なる作業有りてか、人の能く堪ふること無き)。
其人見答、吾有悪病、良醫処薬、応当日服人肉三両。卿若能以身肉三両日日見給、便当与汝金銭五枚(其の人見答すらく、吾れに悪病有り、良醫の処薬、応当に日に人肉三両を服すべしといふ。卿若し能く身肉三両を以て日日に見給せば、便ち当に汝に金銭五枚を与ふべし)。

我時聞已、心中歓喜(我れ時に聞き已りて、心中歓喜しき)。
我復語言、汝与我銭、假我七日。須我事訖、便還相就(我れ復た語りて言く、汝、我に銭を与へ、我れに七日を假すべし。我が事訖るを須ちて、便ち還た相就かん)。
其人見答、七日不可、審能爾者、当許一日(其の人見答すらく、七日は不可なり、審し能く爾あらば、当に一日を許すべし)。

善男子、我於爾時、即取其銭、還至仏所、頭面礼足、尽其所有、而以奉獻。然後、誠心聴受是経。我時闇鈍、雖得聞経、唯能受持一偈文句(善男子、我れ爾の時に於て、即ち其の銭を取りて、還た仏の所に至り、頭面に足を礼し、其の所有を尽くして、以て奉獻しき。然して後、誠心に是の経を聴受せり。我れ時に闇鈍にして、経を聞くことを得と雖も、唯能く一偈の文句を受持したり)。

如来証涅槃(如来涅槃を証したまひ)、
永断於生死(永く生死を断ず)。
若有至心聴(若し至心に聴くこと有らば)、
常得無量楽(常に無量の楽を得べし)。
受是偈已、即便還至彼病人家(是の偈を受け已りて、即便ち還た彼の病人の家に至りぬ)。

善男子、我時雖復日日与三両肉、以念偈因縁故、不以為痛。日日不廃、具満一月(善男子、我れ時に復た日日に三両の肉を与ふと雖も、念偈の因縁を以ての故に、以て痛と為さざりき。日日廃せず、具に一月を満てり)。

善男子、以是因縁其病得瘥、我身平復亦無瘡痍。我時見身具足完具、即発阿耨多羅三藐三菩提心。一偈之力尚能如是、何況具足受持読誦。我見此経有如是利、復倍発心、願於未来、得成仏道、字釈迦牟尼(善男子、是の因縁を以て其の病瘥ゆることを得、我が身も平復して亦た瘡痍無かりき。我れ時に身の具足完具せるを見て、即ち阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。一偈の力尚ほ能く是の如し、何に況んや具足して受持し読誦せんをや。我れ此の経の是の如く利有るを見て、復た倍発心し、未来に於て仏道を成ずることを得て、釈迦牟尼と字せんことを願ひき)。

善男子、以是一偈因縁力故、令我今日於大衆中、為諸天人具足宣説(善男子、是の一偈の因縁力を以ての故に、我れをして今日大衆の中に於て、の天人の為に具足して宣説せしむ)。

善男子、以是因縁、是大涅槃不可思議、成就無量無辺功徳。乃是諸仏如来甚深秘密之蔵(善男子、是の因縁を以て、是の大涅槃不可思議なり、無量無辺の功徳を成就せり。乃ち是れ諸仏如来甚深秘密之蔵なり)。

その時の売身の菩薩は、今釈迦牟尼仏の往因なり。他経を会通すれば、初阿僧祇劫の最初、古釈迦牟尼仏を供養したてまつりましますときなり。かのときは瓦師なり、その名を大光明と称ず。古釈迦牟尼仏ならびに諸弟子に供養するに三種の供養をもてす、いはゆる草座、石蜜漿、燃燈なり。その時の発願にいはく、

国土、名号、寿命、弟子、一如今釈迦牟尼仏(今釈迦牟尼仏に一如ならん)。

かのときの発願、すでに今日成就するものなり。しかあればすなはち、ほとけを供養したてまつらんとするに、その身まづしといふことなかれ、そのいへまづしといふことなかれ。みづから身をうりて諸仏を供養したてまつるは、いま大師釈尊の正法なり。たれかこれを隨喜歓喜したてまつらざらん。

このなかに、日々に三両の身肉を割取するぬしにあふ、善知識なりといへども、他人のたふべからざるなり。しかあれども、供養の深志のたすくるところ、いまの功徳あり。

いま我ら如来の正法を聴聞する、かの往古の身肉を処分せられたるなるべし。いまの四句の偈は、五枚の金銭にかふるところにあらず。三阿僧祇、一百大劫のあひだ、受生捨生にわするることなく、彼仏是仏のところに証明せられきたりましますところ、まことに不可思議の功徳あるべし。遺法の弟子、ふかく頂戴受持すべし。如来すでに一偈之力、尚能如是と宣説しまします、もともおほきにふかかるべし。

法華経云、
若人於塔廟、宝像及画像(若し人、塔廟、宝像及び画像に)、
以華香幡蓋、敬心而供養(華香幡蓋を以て、敬心に而も供養せん)、
若使人作楽、撃鼓吹角唄(若しは人をして楽を作さしめ、鼓を撃ち角唄を吹き)、
簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸(簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸)、
如是衆妙音、尽持以供養(是の如くの衆妙の音、尽く持以て供養せん)、
或以歓喜心、歌唄頌仏徳(あるいは歓喜心を以て、歌唄して仏徳を頌せん)、
乃至一少音、皆已成仏道(乃至一少音せんすら、皆な已に仏道を成ぜり)。
若人散乱心、乃至以一華(若し人、散乱の心もて、乃至一華を以て)、
供養於画像、漸見無数仏(画像に供養せん、漸くに無数の仏を見たてまつらん)。
或有人礼拝、或復但合掌(あるいは人有りて礼拝し、あるいは復た但だ合掌し)、
乃至挙一手、或復少低頭(乃至一手を挙げ、あるいは復た少しく低頭せん)、
以此供養像、漸見無量仏(此れを以て像を供養せしもの、漸くに無量仏を見たてまつり)、
自成無上道、広度無数衆(自ら無上道を成じて、広く無数の衆を度せん)。

これすなはち、三世諸仏の頂なり、眼睛なり。見賢思斉の猛利精進すべし。いたづらに光陰をわたることなかれ。

石頭無際大師云、光陰莫度(光陰しく度ること莫れ)。
かくのごときの功徳、みな成仏す。過去、現在、未来おなじかるべし。さらに二あり、三あるべからず。供養諸仏の因によりて、作仏の果を成ずること、かくのごとし。

龍樹祖師曰、如求仏果、讃歎一偈、称一南謨、焼一捻香、奉獻一華、如是小行、必得作仏(龍樹祖師曰く、仏果を求むるが如きは、一偈を讃歎し、一南謨を称じ、一捻香を焼き、一華を奉獻せん、是の如くの小行も、必ず作仏することを得ん)。

これひとり龍樹祖師菩薩の所説といふとも、帰命したてまつるべし。いかにいはんや大師釈迦牟尼仏説を、龍樹祖師、正伝挙揚しましますところなり。我らいま仏道の宝山にのぼり、仏道の宝海にいりて、さいはひにたからをとれる、もともよろこぶべし。曠劫の供仏のちからなるべし。必得作仏うたがふべからず、決定せるものなり。
釈迦牟尼仏の所説、かくのごとし。

復次、有小因大果、小縁大報。如求仏道、讃一偈、一称南無仏、焼一捻香、必得作仏。何況聞知諸法実相、不生不滅、不々生不々滅、而行因縁業、亦不失(復た次に、小因大果、小縁大報といふこと有り。仏道を求むるが如き、一偈を讃め、一たび南無仏を称じ、一捻香を焼く、必ず作仏することを得ん。何に況んや諸法実相、不生不滅、不々生不々滅を聞知して、而も因縁の業を行ぜん、また失せじ)。

世尊の所説、かくのごとくあきらかなるを、龍樹祖師したしく正伝しましますなり。誠諦の金言、正伝の相承あり。たとひ龍樹祖師の所説なりとも、余師の説に比すべからず。世尊の所示を正伝流布しましますにあふことをえたり、もともよろこぶべし。これらの聖教を、みだりに東土の凡師の虚説に比量することなかれ。

龍樹祖師曰、復次諸仏、恭敬法故、供養於法、以法為師。何以故。三世諸仏皆以諸法実相為師(復た次に諸仏は、法を恭敬したまふが故に、法を供養し、法を以て師と為す。何を以ての故に。三世の諸仏は皆な諸法実相を以て師と為したまへばなり)。

問曰、何以不自供養身中法、而供養他法(何を以てか自ら身中の法を供養せずして、而も他法を供養したまふや)。

答曰、隨世間法。如比丘欲供養法宝、不自供養身中法、而供養余持法、知法、解法者。仏亦如是、雖身中有法、而供養余仏法(世間の法に隨へばなり。如し比丘、法宝を供養せんと欲はば、自ら身中の法を供養せずして、而も余の持法、知法、解法の者を供養すべし。仏も亦た是の如し、身中に法有りと雖も、而も余仏祖の法を供養したまふなり)。

問曰、如仏不求福徳、何以故供養(仏の如きは、福徳を求めず、何を以ての故に供養したまふや)。

答曰、仏従無量阿僧祇劫中、修諸功徳、常行諸善。不但求報敬功徳故、而作供養(仏は無量阿僧祇劫の中より、諸の功徳を修し、常に諸の善を行じたまへり。但だ報を求めずして功徳を敬ふが故に、而も供養を作したまふなり)。

如仏在時、有一盲比丘。眼無所見、而以手縫衣、時針衽脱。便言、誰愛福徳、為我衽針(仏在しし時の如き、一りの盲比丘有りき。眼に見る所無くして、而も手を以て衣を縫ふに、時に針衽脱せり。便ち言く、誰か福徳を愛して、我が為に衽針せん)。

是時仏、到其所語比丘、我是愛福徳人、為汝衽来(是の時に仏、其の所に到りて、比丘に語りたまはく、我れは是れ福徳を愛する人なり、汝が為に衽し来らん)。

是比丘、識仏声、疾起著衣、礼仏足、白仏言、仏功徳已満、云何言愛福徳(是の比丘、仏の声を識りて、疾く起ちて衣を著け、仏の足を礼し、仏に白して言さく、仏は功徳已に満じたまへり、云何が福徳を愛すと言ふや)。

仏報言、我雖功徳已満、我深知功徳因、功徳果報、功徳力。今我於一切衆生中得最第一、由此功徳、是故我愛(仏報げて言はく、我れ功徳已に満ぜりと雖も、我れは深く功徳の因、功徳の果報、功徳の力を知る。今我れ一切衆生の中に於て最第一を得たるは此の功徳に由る、是の故に我れは愛するなり)。

仏為此比丘讃功徳已、次為隨意説法、是比丘、得法眼浄、肉眼更明(仏、此の比丘の為に功徳を讃め已りて、次いで為に意に隨つて説法したまひしに、是の比丘、法眼浄を得て、肉眼更に明らかなりき)。

この因縁、むかしは先師の室にして夜話をきく、のちには智度論の文にむかうてこれを検校す。伝法祖師の示誨、あきらかにして遺落せず。この文、智度論第十にあり。諸仏かならず諸法実相を大師としましますこと、あきらけし。釈尊また諸仏の常法を証しまします。

いはゆる諸法実相を大師とするといふは、仏法僧三宝を供養恭敬したてまつるなり。諸仏は無量阿僧祇劫そこばくの功徳善根を積集して、さらにその報を求めず。ただ功徳を恭敬して供養しましますなり。

仏果菩提のくらゐにいたりてなほ小功徳を愛し、盲比丘のために衽針しまします。仏果の功徳をあきらめんとおもはば、いまの因縁、まさしく消息なり。

しかあればすなはち、仏果菩提の功徳、諸法実相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。いまの凡夫のおもふところは、造悪の諸法実相ならんとおもふ、有所得のみ仏果菩提ならんとおもふ。かくのごとくの邪見は、たとひ八万をしるといふとも、いまだ本劫、本見、末劫、末見をのがれず。いかでか唯仏与仏の究尽しましますところの諸法実相を究尽することあらん。ゆゑいかんとなれば、唯仏与仏の究尽しましますところ、これ諸法実相なるがゆゑなり。

おほよそ供養に十種あり。いはゆる、
一者身供養。 二者支提供養。
三者現前供養。 四者不現前供養。
五者自作供養。 六者他作供養。
七者財物供養。 八者勝供養。
九者無染供養。 十者至処道供養。

このなかの第一身供養とは、於仏色身、而設供養、名身供養(仏の色身に於て供養を設くるを、身供養と名づく)。

第二供仏霊廟、名支提供養。僧祇律云、有舎利者名為塔婆、無舎利者説為支提。或云、通名支提。又梵云塔婆、復称偸婆、此翻方墳、亦言霊廟。阿含言支徴[知荷反](第二に仏の霊廟に供ずるを、支提供養と名づく。僧祇律云く、舎利有るをば名づけて塔婆と為す、舎利無きをば説いて支提と為すと。あるいは云く、通じて支提と名づくと。又梵に塔婆と云ひ、復た偸婆と称ず、此に方墳と翻ず、亦た霊廟と言ふ。阿含に支徴[知荷の反]と言ふ)。

あるいは塔婆と称じ、あるいは支提と称ずる、おなじきににたれども、南嶽思大禅師の法華懺法言、
一心敬礼、十方世界、舎利尊像、支提妙塔、多宝如来、全身宝塔。
あきらかに支提と妙塔とは、舎利と尊像、別なるがごとし。

僧祇律第三十三云、塔法者、仏住拘薩羅国遊行時、有婆羅門畊地。見世尊行過、持牛杖挂地礼仏。世尊見已、便発微笑(僧祇律第三十三に云く、塔法とは、仏、拘薩羅国に住して遊行したまひし時、婆羅門有りて地を畊せり。世尊の行き過ぎたまふを見て、牛杖を持ちて地に挂きて仏を礼せり。世尊見已りて便ち微笑を発したまへり)。

諸比丘白仏、何因縁故笑、唯願欲聞(諸の比丘、仏に白さく、何の因縁の故にか笑ひたまふ、唯願はくは聞かんことを欲ふ)。
便告諸比丘、是婆羅門、今礼二世尊(便ち諸の比丘に告げたまはく、是の婆羅門、今二世尊を礼せり)。
諸比丘白仏言、何等二仏(諸の比丘、仏に白して言さく、何等か二仏なる)。
仏告比丘、礼我当其杖下、有迦葉仏塔(仏、比丘に告げたまはく、我れを礼せし其の杖の下に当りて、迦葉仏塔有り)。
諸比丘白仏、願見迦葉仏塔(諸の比丘、仏に白さく、願はくは迦葉仏塔を見んことを)。
仏告比丘、汝従此婆羅門、索土塊并是地(仏、比丘に告げたまはく、汝、此の婆羅門従り、土塊并びに是の地を索むべし)。
諸比丘、即便索之。時婆羅門便与之得已(諸の比丘、即便ち之を索む。時に婆羅門便ち之を与ふるに得已りぬ)。

爾時世尊、即現出迦葉仏七宝塔、高一由延、面広半由延(爾の時に世尊、即ち迦葉仏の七宝塔の、高さ一由延、面の広さ半由延なるを現出したまへり)。
婆羅門見已、即便白仏言、世尊、我姓迦葉、是我迦葉塔(婆羅門、見已りて、即便ち仏に白して言さく、世尊、我が姓は迦葉なり、是れ我が迦葉塔なり)。

爾時世尊、即於彼家、作迦葉仏塔、諸比丘白仏言、世尊、我得授泥土不(爾の時に世尊、即ち彼の家に於て、迦葉仏塔を作りたまふに、諸の比丘、仏に白して言さく、世尊、我れ泥土を授くることを得んや不や)。
仏言、得授(授くることを得)。
即時説偈言(即ち時に偈を説いて言はく)、

真金百千担(真金百千担)、
持用行布施(持用つて布施を行ぜんよりは)、
不如一団埿(如かじ、一団埿をもて)、
敬心持仏塔(敬心もて仏塔を持せんには)。

爾時世尊、自起迦葉仏塔、下基四方周匝欄楯、円起二重、方牙四出、上施盤蓋、長表輪相(爾の時に世尊、自ら迦葉仏塔を起てたまふに、下基は四方に欄楯を周匝し、円起こすること二重にして、方牙四出し、上に盤蓋を施し、長く輪相を表はしつ)。

仏言、作塔法応如是(作塔の法は、応に是の如くなるべし)。
塔成已、世尊敬過去仏故、便自作礼(塔成り已りて、世尊、過去仏を敬ひたまふが故に、便ち自ら礼を作したまひき)。
諸比丘白仏言、世尊、我得作礼不(諸の比丘、仏に白して言さく、世尊、我れ礼を作すこと得てんや不や)。
仏言、得(得べし)。

即説偈言(即ち偈を説いて言はく)、
人等百千金(人等百千の金)、
持用行布施(持用つて布施を行ぜんよりは)、
不如一善心(如かじ、一善心もて)、
恭敬礼仏塔(恭敬して仏塔を礼せんには)。

爾時世人、聞世尊作塔、持香華来奉世尊。世尊恭敬過去仏故、即受華香持供養塔(爾の時に世人、世尊の塔を作りたまふを聞きて、香華をもち来りて世尊に奉りき。世尊、過去仏を恭敬したまふが故に、即ち華香を受けて持つて塔に供養したまひき)。

諸比丘白仏言、我等得供養不(諸の比丘、仏に白して言さく、我等、供養することを得てんや不や)。
仏言、得(得べし)。
即説偈言(即ち偈を説いて言はく)、
百千車真金(百千車の真金)、
持用行布施(持用つて布施を行ぜんよりは)、
不如一善心(如かじ、一善心もて)、
恭敬礼仏塔(華香もて塔に供養せんには)。
爾時大衆雲集、仏告舎利弗、汝為人説法(爾の時に大衆雲集するに、仏、舎利弗に告げたまはく、汝、諸人の為に法を説くべし)。

仏即説偈言(仏、即ち偈を説いて言はく)、
百千閻浮提(百千の閻浮提)、
満中真金施(中に満てる真金の施も)、
不如一法施(如かじ、一の法施もて)、
隨順令修行(隨順して修行せしめんには)。

爾時坐中有得道者。仏即説偈言(爾の時に坐中に得道の者有りき。仏、即ち偈を説いて言はく)、
百千世界中(百千世界の中)、
満中真金施(中に満てる真金の施も)、
不如一法施(如かじ、一の法施もて)、
隨順見真諦(隨順して真諦を見んには)。
爾時婆羅門、不壊信、即於塔前、飯仏及僧(爾の時に婆羅門、不壊の信もて、即ち塔の前に於て、仏及び僧に飯せり)。

時波斯匿王、聞世尊造迦葉仏塔、即勅載七百車塼、来詣仏所、頭面礼足、白仏言、世尊、我欲広作此塔、為得不(時に波斯匿王、世尊の迦葉仏塔を造りたまふを聞きて、即ち勅て七百車の塼を載せて、仏の所に来詣りて、頭面に足を礼して、仏に白して言さく、世尊、我れ広く此の塔を作らんと欲ふに、為得てんや不や)。
仏言、得(得べし)。

仏告大王、過去世時、迦葉仏般泥洹時、有王名吉利。欲作七宝塔。時有臣白王、未来世当有非法人出。当破此塔得重罪。唯願大王当以塼作、金銀覆上。若取金銀者、塔故在得全(仏、大王に告げたまはく、過去世の時、迦葉仏般泥洹したまひし時、王有り吉利と名づく。七宝の塔を作らんと欲ひき。時に臣有り、王に白さく、未来世に当に非法の人有りて出づべし。当に此の塔を破して重罪を得べし。唯願はくは大王、当に塼を以て作り、金銀もて上を覆ふべし。若し金銀を取る者あらんも、塔は故のごとくに在りて全きことを得ん)。

王即如臣言、以塼作金薄覆上。高一由延、面広半由延。銅作欄楯、経七年七月七日乃成。作成已香華供養及比丘僧(王、即ち臣の言の如く、塼を以て作り、金薄もて上を覆ひき。高さ一由延、面の広さ半由延なり。銅もて欄楯を作り、七年七月七日を経て乃ち成る。作成し已りて香華もて供養すること、比丘僧に及べり)。

波斯匿王白仏言、彼王福徳多有珍宝。我今当作、不及彼王(波斯匿王、仏に白して言さく、彼の王、福徳にして多く珍宝有り。我れ今当に作るべきも、彼の王に及ばじ)。

即便作経七月七日乃成。成已、供養諸仏比丘僧(即便ち作ること七月七日を経て乃ち成る。成り已りて仏と比丘僧とに供養しき)。

作塔法者、下基四方、周匝欄楯、円起二重、方牙四出。上施盤蓋、長表輪相。若言世尊已除貪欲、瞋恚、愚癡、用是塔為得越毘尼罪、業報重故。是名塔法(作塔の法は、下基は四方に欄楯を周匝し、円起こすること二重にして、方牙四出す。上に盤蓋を施し、長く輪相を表す。若し、世尊は已に貪欲、瞋恚、愚癡を除きたまひたれば、是の塔を用ゐたまふに為んと言はば、越毘尼罪を得べし、業報重きが故に。是れを塔法と名づく)。

塔事者、起僧伽藍時、先預度好地作塔処。塔不得在南、不得在西、応在東、応在北。不得僧地侵仏地、仏地不得侵地。若塔近死尸林、若狗食残、持来汚地、応作垣牆。応在西若南作僧坊。不得使僧地水流入仏地、仏地水得流入僧地。塔応在高顕処作。不得在塔垣中、浣染曬衣、著革履、覆頭覆肩、涕唾地。若作是言、世尊、貪欲、瞋恚、愚癡已除、用是塔為、得越毘尼罪業、業報重。是名塔事(塔事とは、僧伽藍を起つる時、先づ預て好地を度りて塔処と作すべし。塔は南に在ること得ざれ、西に在ること得ざれ、応に東に在るべし、応に北に在るべし。僧地は仏地を侵すこと得ざれ、仏地は僧地を侵すこと得ざれ。若しは塔、死尸林に近く、若しは狗の食ひ残して持ち来つて地を汚さば、応に垣牆を作るべし。応に西若しは南に在つて僧坊を作るべし。僧地の水を仏地に流入せしむること得ざれ、仏地の水は僧地に流入せしむることを得。塔は応に高顕の処に在つて作るべし。塔垣の中に在つて浣染曬衣し、革履を著け、頭を覆ひ肩を覆ひ、地に涕唾すること得ざれ。若し是の言を作して、世尊は貪欲、瞋恚、愚癡已に除こほれるに、是の塔を用ゐたまひて為んといはば、越毘尼罪業を得て、業報重かるべし。是れを塔事と名づく)。

塔龕者、爾時波斯匿王、往詣仏所、頭面礼足、白仏言、世尊、我等為迦葉仏作塔。得作龕不(塔龕とは、爾の時に波斯匿王、仏の所に往詣りて、頭面に足を礼し、仏に白して言さく、世尊、我等迦葉仏の為に塔を作れり。龕を作ること得べしや不や)。

仏言、得。過去世時、迦葉仏、般泥洹後、吉利王為仏起塔。面四面作龕、上作師子像、種々綵画。前作欄楯安置華処、龕内懸幡蓋。若人言世尊貪欲、瞋恚、愚癡已除、但自莊厳而受楽者、得越毘尼罪、業報重。是名塔龕法(仏言はく、得べし。過去世の時、迦葉仏般泥洹したまひし後、吉利王、仏の為に塔を起てき。面、四面に龕を作り、上に師子像、種々の綵画を作る。前に欄楯を作りて華処を安置し、龕の内には幡蓋を懸けたり。若し人、世尊は貪欲、瞋恚、愚癡已に除きたまひたれば、但だ自ら莊厳して楽を受けたまはんやと言はば、越毘尼罪を得て、業報重かるべし。是れを塔龕法と名づく)。

あきらかにしりぬ、仏果菩提のうへに、古仏のために塔をたて、これを礼拝供養したてまつる、これ諸仏の常法なり。かくのごとくの事おほけれど、しばらくこれを挙揚す。

仏法は有部すぐれたり、そのなか、僧祇律もとも根本なり。僧祇律は、法顕はじめて荊棘をひらきて西天にいたり、霊山にのぼれりしついでに将来するところなり。祖々正伝しきたれる法、まさしく有部に相応せり。

第三現前供養。面対仏身及与支提、而設供養(第三に現前供養。面り仏身と及び支提とに対ひて、供養を設く)。

第四不現前供養。於不現前仏及支提、広設供養。謂現前共不現前、供養諸仏及支提塔廟、并供不現前仏及支提塔廟(第四に不現前供養。不現前の仏及び支提に於て、広く供養を設く。謂ゆる現前と不現前と共に、仏及び支提、塔廟に供養す、并びに不現前の仏及び支提、塔廟に供ず)。

現前供養得大功徳、不現前供養、得大々功徳、境広故。現前不現前供養者、得最大々功徳(現前供養は大功徳を得、不現前供養は大々功徳を得。境、広なるが故に。現前、不現前の供養者は、最大々功徳を得)。

第五自作供養。自身供養諸仏及支提(第五に自作供養。自身に仏及び支提に供養す)。

第六他作供養諸仏及支提。有少財物、不依懈怠、教他施作也(第六に他作供養諸仏及支提。少しき財物有らば、懈怠に依らずして、教他をして施作せしむるなり)。

謂自他供養、彼此同為。自作供養得大功徳、教他供養得大々功徳、自他供養得最大々功徳(謂ゆる自他供養は彼此同為なり。自作供養は大功徳を得、教他供養は大々功徳を得、自他供養は最大々功徳を得)。

第七財物供養諸仏及支提、塔廟、舎利。謂財有三種。一資具供養。謂、衣食等。二敬具供養。謂香花等。三厳具供養。謂余一切宝莊厳等(第七に財物供養諸仏及支提、塔廟、舎利。謂ゆる財に三種有り。一には資具供養。謂く衣食等なり。二には敬具供養。謂く香花等なり。三には厳具供養。謂く余の一切の宝莊厳等なり)。

第八勝供養。勝有三。一専設種々供養。二純浄信心、信仏徳重、理合供養。三回向心。求仏心中而設供養(第八に勝供養。勝に三有り。一には専ら種々の供養を設く。二には純浄の信心もて、仏徳の重きを信ずれば、理、供養に合ふ。三には回向心。求仏心中にして而も供養を設く)。

第九無染供養。無染有二。一心無染、離一切過。二財物無染、離非法過(第九に無染供養。無染に二有り。一には心無染、一切の過を離る。二には財物無染、非法の過を離る)。

第十至処道供養。謂供養順果、名至処道供養。仏果是其所至之処、供養之行、能至彼処、名至処道。至処道供養、或名法供養。或名行供養。就中有三。一者財物供養為至処道供養。二隨喜供養、為至処道供養。三修行供養、為至処道供養(第十に至処道供養。謂ゆる供養、果に順ふを至処道供養と名づく。仏果は是れ其の所至の処、供養の行、能く彼処に至るを、至処道と名づく。至処道供養、あるいは法供養と名づけ、あるいは行供養と名づく。中に就きて三有り、一には財物供養を至処道供養と為。二には隨喜供養を至処道供養と為。三には修行供養を至処道供養と為)。

供養於仏、即有此十供養。於法於僧、類亦同然(仏に供養すること、即に此の十供養有り。法に於ても僧に於ても、類するに亦た同然なり)。

謂供養法者、供養諸仏所説理教行法、并供養経巻。供養僧者、謂供養一切三乗聖衆及其支提、并其形像、塔廟及凡夫(謂ゆる供養法とは、仏所説の理教行法に供養し、并びに経巻に供養す。供養僧とは、謂ゆる一切三乗の聖衆及び其の支提、并びに其の形像、塔廟及び凡夫僧に供養す)。

次供養心有六種(次に供養の心に六種有り)。
一、福田無上心。生田中最勝(福田中の最勝を生ず)。
二、恩徳無上心。一切善楽、依三宝出生(一切の善楽は、三宝に依つて出生す)。
三、生一切衆生最勝心。
四、如優曇鉢華難遇心。
五、三千大千世界殊独一心。
六、一切世間出世間、具足依義心。謂如来具足世間出世間法、能与衆生為依止処、名具足依義(謂ゆる如来は、世間、出世間の法を具足したまひて、能く衆生の与に依止処と為りたまふを、具足依義と名づく)。

以此六心、雖是少物、供養三宝、能獲無量無辺功徳。何況其多(此の六心を以て、是れ少物なりと雖も、三宝に供養ずれば、能く無量無辺の功徳を獲しむ。何に況んや其の多からんをや)。

かくのごとくの供養、かならず誠心に修設すべし。諸仏かならず修しきたりましますところなり。その因縁、あまねく経律にあきらかなれども、なほ仏祖まのあたり正伝しきたりまします。執事服労の日月、すなはち供養の時節なり。形像舎利を安置し、供養礼拝し、塔廟をたて、支提をたつる儀則、ひとり仏祖の屋裏に正伝せり、仏祖の児孫にあらざれば正伝せず。またもし如法に正伝せざれば法儀相違す、法儀相違するがごときは供養まことならず、供養まことならざれば功徳おろそかなり。かならず如法供養の法、ならひ正伝すべし。令韜禅師は曹溪の塔頭に陪侍して年月をおくり、盧行者は昼夜にやすまず碓米供衆する、みな供養の如法なり。これその少分なり、しげくあぐるにいとまあらず。かくのごとく供養すべきなり。

正法眼蔵供養諸仏第五

弘安第二己卯六月廿三日在永平寺衆寮書写之

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