【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」遍参(へんざん)

投稿日:1243年11月27日 更新日:

仏祖の大道は、究竟参徹なり。足下無絲去なり。足下雲生なり。しかもかくのごとくなりといへども、花開世界起なり、吾常於此切なり。このゆゑに甜瓜徹蔕甜なり、苦瓠連根苦なり。甜甜徹蔕甜なり。かくのごとく参学しきたれり。

玄沙山宗一大師、因雪峰召師曰、備頭陀、何不遍参去(備頭陀、何ぞ遍参し去らざる)。
師云、達磨不来東土、二祖不往西天。
雪峰深然之。
いはゆる遍参底の道理は、翻巾斗参なり。聖諦の亦不為なり、何階級之有なり。

南嶽大慧禅師、はじめて曹渓古仏に参ずるに、古仏いはく、是甚麼物恁麼来。
この泥弾子を遍参すること、始終八年なり。

末上に遍参する一著子を古仏に白してまをさく、懐譲会得当初来時、和尚接懐譲、是甚麼物恁麼来(懐譲当初来りし時、和尚懐譲を接せし、是甚麼物恁麼来を会し得たり)。

ちなみに曹渓古仏道、儞作麼生会。
時に大慧まうさく、説似一物即不中。
これ遍参現成なり、八年現成なり。

曹渓古仏とふ、還假修証否(還た修証を假るや否や)。
大慧まうさく、修証不無、染汚即不得(修証は無きにあらず、染汚することは即ち得じ)。
すなはち曹渓いはく、吾亦如是、汝亦如是、乃至西天諸仏祖亦如是。

これよりさらに八載遍参す。頭正尾正かぞふるに十五白の遍参なり。恁麼来は遍参なり。説似一物即不中に諸仏諸祖を開殿参見する、すなはち亦如是遍参なり。入画看よりこのかた、六十五百千万億の転身遍参す。等閑の入一叢林、出一叢林を遍参とするにあらず。全眼睛の参見を遍参とす。打得徹を遍参とす。面皮厚多少を見徹する、すなはち遍参なり。

雪峰道の遍参の宗旨、もとより出嶺をすすむるにあらず、北往南来をすすむるにあらず。玄沙道の達磨不来東土、二祖不往西天の遍参を助発するなり。

玄沙道の達磨不来東土は、来而不来の乱道にあらず、大地無寸土の道理なり。いはゆる達磨は、命脈一尖なり。たとひ東土の全土たちまちに極涌して参侍すとも、転身にあらず。さらに語脈の翻身にあらず。不来東土なるゆゑに東土に見面するなり。東土たとひ仏面祖面相見すとも、来東土にあらず。拈得仏祖、失却鼻孔なり。

おほよそ土は東西にあらず、東西は土にかかはれず。二祖不往西天は、西天を遍参するには、不往西天なり。二祖もし西天にゆかば、一臂落了也。しばらく、二祖なにとしてか西天にゆかざる。

いはゆる碧眼の眼睛裏に跳入するゆゑに不往西天なり。もし碧眼裏に跳入せずは、必定して西天にゆくべし。抉出達磨眼睛を遍参とす。西天にゆき東土にきたる、遍参にあらず。天台南嶽にいたり、五台上天にゆくをもて遍参とするにあらず。四海五湖もし透脱せざらんは遍参にあらず。四海五湖に往来するは四海五湖をして遍参せしめず、路頭を滑ならしむ、脚下を滑ならしむ。ゆゑに遍参を打失せしむ。

おほよそ尽十方界、是箇真実人体の参徹を遍参とするゆゑに、達磨

    不来東土、二祖不往西天の参究あるなり。遍参は石頭大底大、石頭小底小なり。石頭を動著せしめず、大参小参ならしむるなり。

    百千万箇を百千万頭に参見するは、いまだ遍参にあらず。半語脈裏に百千万転身なるを遍参とす。たとへば、打地唯打地は遍参なり。一番打地、一番打空、一番打四方八面来は遍参にあらず。倶胝参天龍、得一指頭は遍参なり。倶胝唯豎一指は遍参なり。

    玄沙示衆云、与我釈迦老子同参(我れと釈迦老子と同参なり)。
    時有僧出問(時に僧有り出でて問ふ)、未審、参見甚麼人(未審、甚麼人にか参見する)。
    師云、釣魚船上謝三郎(釣魚船上の謝三郎)。

    釈迦老子参底の頭正尾正、おのづから釈迦老子と同参なり。玄沙老漢参底の頭正尾正、おのづから玄沙老漢と同参なるゆゑに、釈迦老子と玄沙老漢と同参なり。釈迦老子と玄沙老漢と、参足参不足を究竟するを遍参の道理とす。釈迦老子は玄沙老漢と同参するゆゑに古仏なり。玄沙老漢は釈迦老子と同参なるゆゑに児孫なり。この道理、審細に遍参すべし。

    釣魚船上謝三郎。この宗旨、あきらめ参学すべし。いはゆる釈迦老子と玄沙老漢と、同時同参の時節を遍参功夫するなり。釣魚船上謝三郎を参見する玄沙老漢ありて同参す。玄沙山上禿頭漢を参見する謝三郎ありて同参す。同参不同参、みづから功夫せしめ、他づから功夫ならしむべし。

    玄沙老漢と釈迦老子と同参す、遍参す。謝三郎与我、参見甚麼人の道理を遍参すべし、同参すべし。いまだ遍参の道理現在前せざれば、参自不得なり、参自不足なり。参他不得なり、参他不足なり。参人不得なり、参我不得なり。参拳頭不得なり、参眼睛不得なり。自釣自上不得なり、未釣先上不得なり。

    すでに遍参究尽なるには、脱落遍参なり。海枯不見底なり、人死不留心なり。海枯といふは、全海全枯なり。しかあれども、海もし枯竭しぬれば不見底なり。不留全留、ともに人心なり。人死のとき、心不留なり。死を拈来せるがゆゑに、心不留なり。このゆゑに、全人は心なり、全心は人なりとしりぬべし。かくのごとくの一方の表裏を参究するなり。

    先師天童古仏、あるとき諸方の長老の道旧なる、いたりあつまりて上堂を請ずるに、
    上堂云、大道無門、諸方頂上跳出。虚空絶路、清涼鼻孔裏入来。恁麼相見、瞿曇賊種、臨済禍胎。咦。大家顛倒舞春風、驚落杏花飛乱紅(上堂に云く、大道無門なり、諸方の頂上に跳出す。虚空絶路なり、清涼が鼻孔裏に入来せり。恁麼に相見する、瞿曇の賊種、臨済の禍胎なり。咦。大家顛倒して春風に舞ふ、驚落する杏花飛乱して紅なり)。

    而今の上堂は、先師古仏、時に建康府の清涼寺に住持のとき、諸方の長老きたれり。これらの道旧とは、あるときは賓主とありき、あるいは隣単なりき。諸方にしてかくのごとくの旧友なり、おほからざらめやは。あつまりて上堂を請ずるときなり。渾無箇話の長老は交友ならず、請ずるとものかずにあらず。大尊貴なるをかしつき請ずるなり。

    おほよそ先師の遍参は、諸方のきはむるところにあらず。大宋国二三百年来は、先師のごとくなる古仏あらざるなり。

    大道無門は、四五千条花柳巷、二三万座管絃樓なり。しかあるを、渾身跳出するに、余外をもちゐず、頂上に跳出するなり、鼻孔裏に入来するなり。ともにこれ参学なり。頂上の跳脱いまだあらず、鼻孔裏の転身いまだあらざるは、参学人ならず、遍参漢にあらず。遍参の宗旨、ただ玄沙に参学すべし。

    四祖かつて三祖に参学すること九載せし、すなはち遍参なり。南泉願禅師、そのかみ池陽に一住してやや三十年やまをいでざる、遍参なり。雲巖道吾等、在薬山四十年のあひだ功夫参学する、これ遍参なり。二祖そのかみ嵩山に参学すること八載なり。皮肉骨髓を遍参しつくす。

    遍参はただ祗管打坐、身心脱落なり。而今の去那辺去、来遮裏来、その間隙あらざるがごとくなる、渾体遍参なり、大道の渾体なり。毘盧頂上行は、無諍三昧なり。決得恁麼は毘盧行なり。跳出の遍参を参徹する、これ葫蘆の葫蘆を跳出する、葫蘆頂上を選仏道場とせることひさし。命如絲なり。葫蘆遍参葫蘆なり。一茎草を建立するを遍参とせるのみなり。

    正法眼蔵遍参第五十七

    爾時寛元元年癸卯十一月二十七日在越宇禅師峰下茅庵示衆

    ※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

    正法眼蔵の各巻一覧表示

    あなたに おすすめページ💡 戒名授与 1万円のみ(故人/生前/法名授与も)

    << 戻る

-仏教を本気で学ぶ
-, , , , , , , , , , , , ,



Copyright © 1993 - 2024 寺院センター All Rights Reserved.