仏教を本気で学ぶ

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『教行信証』信巻18

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『教行信証』真仏土巻06

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『教行信証』化身土巻 – 末04

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『教行信証』行巻02

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『教行信証』信巻03

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『教行信証』信巻19

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『教行信証』真仏土巻07

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『教行信証』化身土巻 – 末05

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人物

栄西禅師(えいさい/ようさいぜんじ)

栄西とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、日本に臨済宗黄龍派の禅をはじめて伝え、建仁寺を開山した、臨済宗建仁寺派の開祖です。天台密教葉上流の流祖ともされます。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られます。字が明菴、諱が栄西で明庵栄西(みんなん ようさい)、「ようさい」よりも「えいさい」という読み方の方が浸透しているようですが、栄西の主著である「興禅護国論」(こうぜんごこくろん)の解説本中に「ようさい」との振り仮名が付けられていることから、正式にはこちらを使います。永治元(1141)年4月20日、備中国(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽氏(かやし)の子として誕生しました。11歳...
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一枚起請文

『一枚起請文』は、建暦二年(1212)法然上人が、お亡くなりになる直前に、その弟子の一人である常随給仕首尾18年の門弟源智上人の念仏の肝要について「一筆書きとどめて頂きたい」という要請により書かれたものです。浄土宗の教えの要であるお念仏(称名念仏)の意味、心構え、態度について、とても簡潔に説明されています。本文中に「両手印をもってす」と書かれていることから、両手の判を押し、上人自身が証明していらっしゃいます。 法然上人のお誓いの文章であることから「御誓言の書」とも呼ばれ、大本山金戒光明寺に大切に保存されています。もろこし我が朝に、諸々の智者達のさたし申さるる観念の念にも非ず、また学文をして念の...
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専修念仏の停止

法然聖人の主著である『選択集』と真影(しんねい)を写すことを許され、吉水で入門後に綽空(しゃっくう)と名のられていたのを善信(ぜんしん)と改めました。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、既存仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元元年(1207年)後鳥羽上皇によって専修念仏が停止(ちょうじ)され、法然聖人の門弟4人の死罪、法然聖人と中心的な門弟7人が流罪に処され、親鸞聖人は越後に流罪となりました。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗の立場に立ちました。<< 戻る
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建永の法難

建永元(1206)年12月、門下の住蓮と安楽房遵西が、六時礼讃の哀調に感銘した院の女房と密通したという(捏造)事件により、法然上人はその責任を免れることが出来ませんでした。兼実は免罪運動を行いましたが、功を奏せず、後に住蓮・安楽処刑。<< 戻る
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七箇条制誡

元久元(1204)年11月、法然上人は七箇条制誡(しちかじょうせいかい)をつくり門弟を誡め、門弟百九十名の署名をとり、別に誓状をそえて座主に送りました。1.天台・真言の教説を破し諸仏菩薩をそしらぬこと2.無智の身で有智の人と諍論(じょうろん)せぬこと3.別解(べつげ)・別行(べつぎょう)の人に対し本業(ほんごう)を棄置し嫌わぬこと4.念仏門には戒行がなく造悪を恐れないなどと主張せぬこと5.ことごとに私義をとなえないこと6.痴鈍(ちどん)の身をもって道俗を教化(きょうけ)しないこと7.仏法にあらざる邪法を説いて正法とせぬこと<< 戻る
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元久の法難

元久元(1204)年10月、延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を天台座主真性に申請しました。<< 戻る
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運慶・快慶らが東大寺の南大門金剛力士像をつくる

1203年、運慶・快慶らが東大寺の南大門金剛力士像をつくる。<< 戻る
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建仁寺派(本山建仁寺(京都))の開派

建仁2(1202)年、南宋に留学して帰国した栄西禅師により始まる。臨済宗(黄龍派の禅)を日本にはじめて伝える。<< 戻る
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念仏禁止

正治2(1200)年5月12日 鎌倉幕府、念仏を禁止する。<< 戻る
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興禅護国論

建久9(1198)年、栄西禅師により「興禅護国論(こうぜんごこくろん)」が著されました。<< 戻る
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選択本願念仏集

建久9(1198)年、法然上人は一部十六章からなる「選択本願念仏集」を撰述(せんじゅつ)しました。建久8(1197)年に九条兼実公の「浄土の教えの大事なことをまとめてほしい」と懇請されたのに応じられ、門弟の感西や証空や遵西の三人に執筆の助手役をつとめさせ、撰述にとりかりました。建久9(1198)年の春、法然上人は、浄土宗の根本宗典である『選択本願念仏集』という書物を著されました。【第一】聖道浄土二門篇【第二】雑行を捨てて正行に帰する篇【第三】念仏往生本願篇【第四】三輩念仏往生篇【第五】念仏利益篇【第六】末法万年に特り念仏を留むる篇【第七】光明ただ念仏の行者を摂する篇【第八】三心篇【第九】四修法...
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聖光房弁長弟子入り

建久8(1197)年、後に浄土宗の第二祖と仰がれる聖光房弁長(べんちょう) 、三十六歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
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勢観房源智弟子入り

建久6(1195)年、後に法然上人に常随給仕する勢観房源智 (げんち) 、十三歳で法然上人に弟子入りする。<< 戻る
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禅宗停止の宣旨

建久5(1194)年、延暦寺、興福寺の訴えにより朝廷から禅宗停止の宣旨が下されるなど、栄西禅師の都での禅の布教は困難を極めた。<< 戻る
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大原談義

文治2(1186)年の秋、洛北大原の魚山大原寺勝林院で天台座主の職にあった顕真法印の発起により、南都、北嶺の名僧学匠三百余人を相手として、法然上人は念仏の教えについて論議された大原談義(大原問答)が行われました。論議は一昼夜に及び、念仏が他の行よりすぐれていることを法然上人が述べられたところ、顕真や論議参加した者は法然上人の教えを信じ、阿弥陀仏の周りを三日三夜念仏行道したと伝えられています。<< 戻る
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立教開宗(浄土宗)

承安5(1175)年の春、法然上人は宇治で『 観経疏 (かんぎょうしょ) 』『散善義』と出会い、称名往生に関する確信を得て専修念仏に帰す。比叡山の西塔黒谷を出て西山広谷に移り、しばらくして東山大谷に住房をうつす。(後の知恩院)。浄土宗「立教開宗」の年と言われる。<< 戻る
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中国の五山 ~五山制度と臨済宗~

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法然上人誕生

法然上人(ほうねんしょうにん)は、長承2(1133年)4月7日 美作国(岡山県)久米南条稲岡庄に生まれる。幼名は勢至丸。父は押領使(地方の治安維持にあたる在地豪族)の漆間時国、母は秦氏。<< 戻る
人物

良忍(りょうにん)

良忍は、平安時代後期の天台宗の僧で、融通念仏宗の開祖。聖応大師。 尾張国知多郡の領主の秦道武の子。良仁とも書き、房号は光静房または光乗房。生年は延久4年説もある。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。尾張国知多郡の富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生しました。父は藤原秦氏兵曹道武、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍...
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良忍上人、念仏勧進を始める

ある時、鞍馬寺の多聞天王が威厳に満ちたお姿を現して良忍上人にいわれるには、 「あなたは先に仏さまから尊い融通念仏を授かったのに、どうしてそれを人びとに勧めて苦しみの衆生を救済しないのか」 このお言葉によって布教の時ようやく至ったことを知った良忍上人は、天治元年(1124)6月9日 はじめて市中に出て念仏勧進を始められました。上人の名は朝廷に達し鳥羽上皇は宮中に上人を招いて皇后や百官もろともに融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されました。その上、上皇はご帰信のしるしに愛用の鏡を鉦に鋳かえて上人に授与されました。これを“鏡鉦”といい念仏勧進の道すがら鏡鉦を叩いて歩かれ代々大切に伝持されてき...
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融通念仏宗の開宗

永久5年(1117)5月15日 午の刻(正午)良忍上人が大原来迎院にて一心に念仏を称えている修行中、阿弥陀仏が速疾往生と言って、後の世を待たずに、現世に誰もが速やかに智恵がかがやき喜び溢れる幸せの世界に至る方法として融通念仏の法門を授与されました。その授与された御文を「弥陀の妙偈」といい、融通念佛宗の教えの要となりました。「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」告げ終わって更に大光明を放って、白い絹一枚を上人に授与されました。そこには今しがた空中にお姿を現された仏、菩薩の尊像が描かれていました。中央に阿弥陀如来が立ち、その周囲を十...
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覚鑁上人(高野山教学中興の祖)高野山に登る

永久二年(1114年)、覚鑁上人(高野山教学中興の祖)高野山に登り約8年間修行する。大治五年(1130年)、覚鑁上人伝法院を建立。長承元年(1132年)、大伝法院落慶。長承三年(1134年)、覚鑁上人院宣により伝法院と金剛峯寺の座主を兼職。長承四年(1135年)、覚鑁上人、両座主職を自ら辞す。保延六年(1140年)、覚鑁上人、高野山から追われ700余人の僧侶を連れ根来に移る。康治二年(1143年)、覚鑁上人(興教大師)入寂。<< 戻る
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禅苑清規(ぜんえんしんぎ)

禅苑清規とは、禅院の修行道場における規律を定めた現存する最古の規則で、雲門宗の慈覚大師・長盧宗賾(ちょうろそうさく)によって記されました。元符年間(1098-1100年)に編集を始め、崇寧二年(1103年)に完成したことから「崇寧清規」とも呼ばれます。また、「ぜんねんしんぎ」とも読まれます。唐の百丈懐海が初めて禅院の清規を制定したとされている「百丈清規」は年月と共に散逸し、それを遺憾とした長盧宗賾は、百丈懐海の古清規に則りながらも、広く諸方の叢林の行法を調べ、時代の推移に則して、受戒、上堂、監院、知客、化主等七十七項に分けて記されています。全10巻。禅宗。①第一巻 受戒 護戒 弁道具 装包 旦...
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扶桑略記

扶桑略記(ふそうりゃくき)とは、1094年(寛治8年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされる私撰歴史書ですが、異説もあります。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存します。神武天皇より堀河天皇の1094年(寛治8年)3月2日までの国史について、和漢年代記を書入れ、六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記しています。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つですが、その大半が今日伝わっておらず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われます。<< 戻る