【仏教用語/人物集 索引】

『教行信証』真仏土巻03

投稿日:1224年1月1日 更新日:

 又言わく(徳王菩薩品)、「不可称量・不可思議なるが故に名づけて「大般涅槃」とすることを得。純浄を以ての故に「大涅槃」と名づく。云何が純浄なる。浄に四種有り。何等をか四とする。一には二十五有、名づけて「不浄」とす。能く永く断ずるが故に名づけて「浄」とすることを得。浄即ち涅槃なり。是くの如きの涅槃、亦「有にして是れ涅槃」と名づくることを得。実に是れ有に非ず。諸仏如来、世俗に随うが故に「涅槃有なり」と説きたまえり。譬えば世人の、父に非ざるを「父」と言い、母に非ざるを「母」と言う。実に父母に非ずして「父母」と言うが如し。涅槃も亦爾なり。世俗に随うが故に、説きて「諸仏、有にして大涅槃なり」と言えり。

 二には業清浄の故に。一切凡夫の業は不清浄の故に涅槃無し。諸仏如来は業清浄の故に、故に「大浄」と名づく。大浄を以ての故に「大涅槃」と名づく。

 三には身清浄の故に。身、若し無常なるを、則ち「不浄」と名づく。如来の身は常なるが故に「大浄」と名づく。大浄を以ての故に「大涅槃」と名づく。

 四には心清浄の故に。心、若し有漏なるを、名づけて「不浄」と曰う。仏心は無漏なるが故に「大浄」と名づく。大浄を以ての故に、「大涅槃」と名づく。善男子。是れを「善男子・善女人」と名づく」と。抄出

 又言わく(徳王菩薩品)、「善男子。諸仏如来は煩悩起こらず。是れを「涅槃」と名づく。所有の智慧、法に於いて無碍なり。是れを如来とす。如来は、是れ凡夫・声聞・縁覚・菩薩に非ず。是れを「仏性」と名づく。如来は、身心智慧、無量無辺阿僧祇の土に遍満したまうに、障碍する所無し。是れを「虚空」と名づく。如来は常住にして変易有ること無ければ、名づけて「実相」と曰う。是の義を以ての故に、如来は実に畢竟涅槃に不ざる、是れを「菩薩」と名づく」と。已上

 又言わく(迦葉菩薩品)、「迦葉菩薩言わく、「世尊。仏性は常なり。猶虚空の如し。何故ぞ、如来、説きて「未来」と言うやと。如来、若し「一闡提の輩、善法無し」と言わば、一闡提の輩、其れ同学・同師・父母・親族・妻子に於いて、豈に当に愛念の心を生ぜざるべきや。如し其れ生ぜば、是れ善に非ずや」と。

 仏の言わく、「善いかな、善いかな、善男子。快く斯の問を発せり。仏性は猶虚空の如し。過去に非ず、未来に非ず、現在に非ず。一切衆生、三種の身有り。謂わゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足して仏性を見ることを得ん。是の故に我、「仏性未来」と言えりと。善男子。或いは衆生の為に、或る時は因を説きて果とす。或る時は果を説きて因とす。是の故に経の中に命を説きて「食」とす。色を見て「触」と名づく。未来の身浄なるが故に「仏性」と説く。」

 「世尊。仏の所説の義の如し。是くの如きの者、何が故ぞ、説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるや」と。

 「善男子。衆生の仏性は、現在に無なりと雖も「無」と言うべからず。虚空の如し。性は無なりと雖も、現在に「無」と言うことを得ず。一切衆生、復た無常なりと雖も、是れ仏性は常住にして変無し。是の故に我、此の経の中に於いて、「衆生の仏性は非内非外にして、猶虚空の如し」と説きたまう。非内非外にして、其れ虚空の如くして有なり。内外は虚空なれども、名づけて「一とし常」とせず。亦「一切処有」と言うことを得ず。虚空、復た非内非外なりと雖も、而れども、諸の衆生悉く皆、之有り。衆生の仏性も亦復是くの如し。汝言う所の一闡提の輩の如し。若し身業・口業・意業・取業・求業・後業・解業、是くの如き等の業有れども、悉く是れ邪業なり。何を以ての故に。因果を求めざるが故なりと。善男子。訶梨勒の果・根・茎・枝・葉・華・実、悉く苦きが如し。一闡提の業も亦復是くの如し。」」已上

 又言わく(迦葉菩薩品)、「「善男子。如来は知諸根力を具足したまえり。是の故に善く衆生の上中下の根を解り分別して、能く是の人を知ろしめして、下を転じて中と作す。能く是の人を知ろしめして、中を転じて上と作す。能く是の人を知ろしめして、上を転じて中と作す。能く是の人を知ろしめして、中を転じて下と作す。是の故に当に知るべし。衆生の根性に決定有ること無し。定無きを以ての故に、或いは善根を断ず。断じ已りて還りて生ず。若し諸の衆生の根性、定ならば、終に、先に断じて、断じ已りて復た生ぜざらん。亦「一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なり」と説くべからずと。善男子。是の故に如来、「一切の法は定相有ること無し」と説きたまえり。」

 迦葉菩薩、仏に白して言さく、「世尊。如来は知諸根力を具足して、定んで、善星、当に善根を断ずべしと知ろしめさん。何の因縁を以て其の出家を聴したまう」と。

 仏の言わく、「善男子。我、往昔の初に於いて出家の時、吾が弟難陀、弟阿難・提婆達多・子羅睺羅に従う。是くの如き等の輩、皆悉く我に随いて家を出で道を修しき。我、若し善星が出家を聴さずは、其の人、次に当に王位を紹ぐことを得べし。其の力自在にして、当に仏法を壊すべし。是の因縁を以て、我、便ち其の家を出で道を修することを聴す。善男子。善星比丘、若し出家せずは、亦善根を断ぜん。無量世に於いて都て利益無けん。今出家し已りて善根を断ずと雖も、能く戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。是れを「善因」と名づく。是くの如き善因、能く善法を生ぜん。善法、既に生ぜば、能く道を修習せん。既に道を修習せば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。是の故に我、善星が出家を聴す。善男子。若し我、善星比丘が出家を聴し戒を受けずは、則ち我を称して「如来具足十力」とすることを得ざらんと。乃至 善男子。如来、善く衆生、是くの如き上中下の根と知ろしめす。是の故に「仏は具知根力」と称せん。」

 迦葉菩薩、仏に白して言さく、「世尊。如来は是の知根力を具足したまえり。是の故に能く一切衆生の上中下の根・利鈍の差別を知ろしめして、人に随い、意に随い、時に随うが故に、「如来知諸根力」と名づけたてまつる。乃至 或いは説きて「犯四重禁・作五逆罪・一闡提等、皆仏性有り」と言うこと有り」と。乃至

 「如来世尊、国土の為の故に、時節の為の故に、他語の為の故に、人の為の故に、衆根の為の故に、一法の中に於いて二種の説を作す。一名の法に於いて無量名を説く。一義の中に於いて無量の名を説く。無量の義に於いて無量の名を説く。

(真仏土巻は続く)

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