人物 立花道雪(たちばなどうせつ) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後の戦国大名・大友氏の家臣。臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた。 大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。生誕 永正10年3月17日(1513年4月22日)命日 天正13年9月11日(1585年11月2日)福厳院殿前丹州太守梅岳道雪大居士<< 戻る 1585.09.11 人物
人物 武田勝頼(たけだかつより) 戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国の戦国大名。甲斐武田家第20代当主。 通称は四郎。当初は諏訪氏(高遠諏訪氏)を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃国伊那谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、諏訪勝頼、武田四郎、武田四郎勝頼ともいう。「頼」は諏訪氏の通字で、「勝」は信玄の幼名「勝千代」に由来する偏諱であると考えられている。父・信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。生誕 天文15年(1546年)命日 天正10年3月11日(1582年4月3日)景徳院殿頼山勝公大居士<< 戻る 1582.03.11 人物
人物 竹中半兵衛(たけなかはんべえ/重治/しげはる) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利。 羽柴秀吉の参謀として活躍し、黒田孝高と共に「両兵衛」「二兵衛」と称された。6月13日の命日と地元の農作業が落ち着いた一月後の7月13日には「軍師竹中半兵衛重治公を偲ぶ法要」が恒例で供養が行われる。生誕 天文13年9月11日(1544年9月27日)命日 天正7年6月13日(1579年7月6日)深竜水徹<< 戻る 1579.06.13 人物
人物 武田信玄(たけだしんげん/晴信/はるのぶ) 戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。生誕 大永... 1573.04.12 人物
仏教を本気で学ぶ 龍口法難 文永8(1271)年9月12日、幕府や諸宗を批判したとして捕らえられ、腰越龍ノ口刑場にて処刑されかけますが、斬首の刑は中止され、その後、佐渡流罪となりました。<< 戻る 1271.09.12 仏教を本気で学ぶ年表
仏教を本気で学ぶ 「正法眼蔵」他心通(たしんつう) こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1245.07.04 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 「正法眼蔵」大修行(だいしゅぎょう) こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1244.03.09 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 「正法眼蔵」大悟(たいご) こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1243.01.28 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 「正法眼蔵」陀羅尼(だらに) こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1243.01.01 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 『典座教訓』17、ただ自然に変わっていくだけ こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1237.08.13 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 『典座教訓』10、他人のしたことは自分のしたことにならない こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1237.08.13 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 『典座教訓』9、食べることも仏法を行じていること こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1237.08.13 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 『正法眼蔵随聞記』101、大慧禅師の云く こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1235.06.11 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 『正法眼蔵随聞記』99、大恵禅師ある時 こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1235.06.11 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 『正法眼蔵随聞記』53、大宋の禅院に麦米等をそろえて こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1235.06.11 仏教を本気で学ぶ
仏教を本気で学ぶ 『正法眼蔵随聞記』24、たとい我れ道理を以て道うに こちらのページを閲覧するには、メンバー登録が必要です。詳細はリンク先でご確認ください。なお、定期的にパスワードは変更されます。また、セキュリティの観点から一定時間を経ると再度パスワード入力が必要になります。 << 戻る 1235.06.11 仏教を本気で学ぶ
人物 平清盛(たいらのきよもり) 平安時代末期の日本の武将で公卿。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士として初の太政大臣。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。生誕 永久6年1月18日(ユリウス暦1118年2月10日、グレゴリオ暦11... 1181.02.04 人物
人物 大陽警玄(たいようきょうげん) 中国・五代十国時代~宋時代の禅僧。梁山縁観に就いて嗣法。その法を嗣げる弟子が現れなかったため浮山法遠(大陽警玄の下で学んでいたが、既に臨済宗の法を受け嗣いでいたため)に法を預け、後に代付により投子義青に法が伝わる。生誕 943年命日 1027年<< 戻る 1027.01.01 人物
人物 平将門(たいらのまさかど) 平安時代中期の関東の豪族。 平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。第50代桓武天皇の5世子孫。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐される。飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古い例が、この平将門であるといわれている。この平将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こし... 0940.02.14 人物
人物 橘逸勢(たちばなのはやなり) 平安時代初期の貴族・書家。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。生誕 延暦元年(782年)命日 承和9年8月13日(842年9月24日)<< 戻る 0842.08.13 人物
人物 大梅法常(だいばいほうじょう) 中国唐の時代の禅僧。襄州襄陽の出身。馬祖道一に就いて嗣法。弟子には迦智、天龍がいる。大梅山。「正法眼蔵」行持・上より抜粋大梅山は慶元府にあり。この山に護聖寺を草創す、法常禅師その本元なり。禅師は襄陽人なり。かつて馬祖の会に参じてとふ、如何是仏と。馬祖云く、即心是仏と。法常この言葉をききて、言下大悟す。ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて人倫に不群なり、草庵に独居す。松実を食し、荷葉を衣とす。かの山に少池あり、池に荷おほし。坐禅弁道すること三十余年なり。人事たえて見聞せず、年暦おほよそおぼえず、四山青又黄のみをみる。おもひやるにはあはれむべき風霜なり。師の坐禅には、八寸の鐵塔一基を頂上におく、如載宝冠... 0839.01.01 人物
人物 丹霞天然(たんかてんねん) 中国唐の時代の禅僧。婺州東陽県の出身。石頭希遷無際大師に就いて嗣法。弟子には翠微無学がいる。「選仏」「選仏場」の語源となった禅僧。・「丹霞天然禅師は木仏をたく、是れこそ悪事と見えたれども、是れも一段の説法施設なり。この師の行状の記を見るに、坐するに必ず儀あり、立するに必ず礼あり、常に貴き賓客に向かうが如し。暫時の坐にも必ず跏趺し、叉手す。常住物を守る事眼睛の如くす。勤修するものあれば必ず加す。小善なれども是れを重くす。常図の行状勝れたり。彼の記をとどめて今の世までも叢林の亀鏡とするなり。」(『正法眼蔵随聞記』65、人は必ず陰徳を修すべし)生誕 739年命日 824年<< 戻る 0824.01.01 人物
仏教を本気で学ぶ 金剛界結縁灌頂、胎蔵灌頂の開壇 弘仁3(812)年11月15日、空海上人は高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇し、12月14日には胎蔵灌頂を開壇しました。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼりました。<< 戻る 0812.11.15 仏教を本気で学ぶ年表
人物 橘諸兄(たちばなのもろえ) 奈良時代の皇族・公卿。初名は葛城王(葛木王)で、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。生誕 天武天皇13年(684年)命日 天平勝宝9年1月6日(757年1月30日)<< 戻る 0757.01.06 人物
人物 大鑑慧能(たいかんえのう) 中国唐の時代。范陽郡涿県(河北省保定市涿州市)出身。中国禅宗の六祖(南宗)。大満弘忍に就いて嗣法。弟子には青原行思、南嶽懐譲、南陽慧忠、荷沢神会、永嘉玄覚、司空本浄がいる。諡は大鑒真空普覚圓明禅師。曹渓大師。大鑑慧能。六祖慧能。曹渓山宝林寺。師の大満弘忍は悟りの心境をうまく詩に表せた者を後継者と認めると言い、弘忍門下筆頭だった神秀が壁に偈を書くが、その詩を弘忍は認めない。それを聞いた慧能は、神秀の詩を否定するような詩を書き、それを弘忍が認めたことで六祖になったといわれている。・神秀の詩身是菩提樹 心如明鏡臺(身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し)時時勤拂拭 莫使有塵埃(時時に勤めて拂拭し 塵埃を有... 0713.08.03 人物
人物 大通神秀(だいつうじんしゅう) 中国唐の時代。汴州尉氏県(河南省開封市尉氏県)出身。中国禅宗の六祖で北宗としては開祖。大医道信に就いて嗣法。弟子には普寂がいる。諡は大通禅師。彼の禅法は段階的に悟りを進める「漸悟」であり、弟弟子の六祖慧能の直下に悟りに至る「頓悟」思想と対極を為した。・「神秀は帝師なり。簾前に講法す、箔前に説法す。しかのみにあらず、七百高僧の上座なり。黄梅のむかし、盧行者あること、信ずべし。樵夫より行者にうつる、搬柴をのがるとも、なほ碓米を職とす。卑賤の身、うらむべしといへども、出俗越僧、得法伝衣、かつていまだむかしもきかざるところ、西天にもなし、ひとり東地にのこれる希代の高躅なり。」(「正法眼蔵」仏経)生誕 ... 0706.02.28 人物
仏教を本気で学ぶ 三論宗(大安寺流)が伝わる 701年(大宝元年)、道慈(智蔵の弟子)が三論宗(大安寺流)伝えました。三論宗はインドの龍樹の中論・十二門論、その弟子提婆の百論の三論を所依(基盤とする)の経典とする論宗(経を所依とせず、論を所依とする)です。空を唱える事から、空宗ともいわれます。その他、無相宗・中観宗・無相大乗宗の呼び方もあります。中国隋代に嘉祥大師吉蔵(549年 - 623年)が大成しました。吉蔵の『三論玄義』は三論宗の立場で書かれた仏教概論です。<< 戻る 0701.01.01 仏教を本気で学ぶ年表
人物 大満弘忍(だいまんこうにん) 中国唐の時代。蘄州黄梅県(湖北省黄岡市黄梅県)出身。中国禅宗の五祖。大医道信に就いて嗣法。弟子には大通神秀、大鑑慧能がいる。蘄州黄梅県を中心に活動し、弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築く。代宗により大満禅師の諡と、法雨塔の塔号を賜る。黄梅県の馮茂山(東山)で活動し、中国禅宗の本流となる東山法門を発展させ、中国禅宗発展の下地を作る。・「第三十二祖大満禅師は黄梅人なり。俗姓は周氏なり。母の姓を称なり。師は無父而生なり。たとへば、李老君のごとし。七歳伝法よりのち、七十有四にいたるまで、仏祖正法眼蔵、よくこれを住持し、ひそかに衣法を慧能行者に付属する、不群の行持なり。衣法を神秀にし... 0675.10.23 人物
人物 大医道信(だいいどうしん) 中国唐の時代。蘄州永寧県(湖北省黄岡市武穴市)出身。中国禅宗の四祖。鑑智僧璨に就いて嗣法。弟子には大満弘忍がいる。蘄州黄梅県を中心に活動し、弟子の五祖弘忍と共に「東山法門」と呼ばれる一大勢力を築く。諡は大醫禅師。廬山大林寺、蘄州黄梅県双峰山。・「第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服労九載なり。すでに仏祖の祖風を嗣続するより、摂心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。真丹の第四祖なり。」(「正法眼蔵」行持 下)生誕 太建12年(580年)命日 永徽2年閏9月4日(651年10月23日)<< 戻る 0651.09.04 人物