【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」陀羅尼(だらに)

投稿日:1243年1月1日 更新日:

参学眼あきらかなるは、正法眼あきらかなり。正法眼あきらかなるゆゑに、参学眼あきらかなることをうるなり。この関捩を正伝すること、必然として大善知識に奉覲するちからなり。これ大因縁なり、これ大陀羅尼なり。いはゆる大善知識は仏祖なり。かならず巾瓶に勤恪すべし。

しかあればすなはち、縕茶来、点茶来、心要現成せり、神通現成せり。盥水来、瀉水来、不動著境なり、下面了知なり。仏祖の心要を参学するのみにあらず、心要裏の一両位の仏祖に相逢するなり。仏祖の神通を受用するのみにあらず、神通裏の七八員の仏祖をえたるなり。これによりて、あらゆる仏祖の神通は、この一束に究尽せり。あらゆる仏祖の心要は、この一拈に究尽せり。このゆゑに、仏祖を奉覲するに、天華天香をもてする、不是にあらざれども、三昧陀羅尼を拈じて奉覲供養する、これ仏祖の児孫なり。

いはゆる大陀羅尼は、人事これなり。人事は大陀羅尼なるがゆゑに、人事の現成に相逢するなり。人事の言は、震旦の言音を依模して、世諦に流通せることひさしといふとも、梵天より相伝せず、西天より相伝せず、仏祖より正伝せり。これ声色の境界にあらざるなり、威音王仏の前後を論ずることなかれ。

その人事は、焼香礼拝なり。あるいは出家の本師、あるいは伝法の本師あり。伝法の本師すなはち出家の本師なるもあり。これらの本師にかならず依止奉覲する、これ咨参の陀羅尼なり。いはゆる時時をすごさず参侍すべし。

安居のはじめをはり、冬年および月旦月半、さだめて焼香礼拝す。その法は、あるいは粥前、あるいは粥罷をその時節とせり。威儀を具して師の堂に参ず。威儀を具すといふは、袈裟を著し、坐具をもち、鞋襪を整理して、一片の沈箋香等を帯して参ずるなり。

師前にいたりて問訊す。侍僧ちなみに香爐を裝し燭をたて、師もしさきより椅子に坐せば、すなはち焼香すべし。師もし帳裏にあらば、すなはち焼香すべし。師もしは臥し、もしは食し、かくのごときの時節ならば、すなはち焼香すべし。師もし地にたちてあらば、請和尚坐と問訊すべし。

請和尚穏便とも請ず。あまた請坐の辞あり。和尚を椅子に請じ坐せしめてのちに問訊す。曲躬如法なるべし。問訊しをはりて、香台の前面にあゆみよりて、帯せる一片香を香爐にたつ。香をたつるには、香あるいは衣襟にさしはさめることあり。あるいは懐中にもてるもあり。あるいは袖裏に帯せることもあり。おのおの人の心にあり。

問訊ののち、香を拈出して、もしかみにつつみたらば、右手へむかひて肩を転じて、つつめる紙をさげて、両手に香を縕て香爐にたつるなり。すぐにたつべし、かたぶかしむることなかれ。香をたてをはりて、叉手して、右へめぐりてあゆみて、正面にいたりて、和尚にむかひ曲躬如法問訊しをはりて、展坐具礼拝するなり。拝は九拝、あるいは十二拝するなり。

拝しをはりて、收坐具して問訊す。あるいは一展坐具礼三拝して、寒暄をのぶることもあり。いまの九拝は寒暄をのべず、ただ一展三拝を三度あるべきなり。その儀、はるかに七仏よりつたはれるなり。宗旨正伝しきたれり。このゆゑにこの儀をもちゐる。かくのごとくの礼拝、その時をむかふるごとに廃することなし。そのほか、法益をかうぶるたびごとには礼拝す。因縁を請益せんとするにも礼拝するなり。二祖そのかみ見処を初祖にたてまつりしとき、礼三拝するがごときこれなり。正法眼蔵の消息を開演説するに三拝す。

しるべし、礼拝は正法眼蔵なり。正法眼蔵は大陀羅尼なり。請益のときの拝は、近来おほく頓一拝をもちゐる。古儀は三拝なり。法益の謝拝、かならずしも九拝十二拝にあらず。あるいは三拝、あるいは触礼一拝なり。あるいは六拝あり。ともにこれ稽首拝なり。西天にはこれを最上礼拝となづく。

あるいは六拝あり、頭をもて地をたたく。いはく、額をもて地にあててうつなり、血のいづるまでもす、これにも展坐具せるなり。一拝三拝六拝、ともに額をもて地をたたくなり。あるいはこれを頓首拝となづく。世俗にもこの拝あるなり。世俗には九品の拝あり。法益のとき、また不住拝あり。いはゆる礼拝してやまざるなり。百千拝までもいたるべし。ともにこれら仏祖の会にもちゐきたれる拝なり。

おほよそこれらの拝、ただ和尚の指揮をまぼりて、その拝を如法にすべし。おほよそ礼拝の住世せるとき、仏法住世す。礼拝もしかくれぬれば、仏法滅するなり。

伝法の本師を礼拝することは、時節をえらばず、処所を論ぜず拝するなり。あるいは臥時食時にも拝す、行大小時にも拝す。あるいは牆壁をへだて、あるいは山川をへだてても遙望礼拝するなり。あるいは劫波をへだてて礼拝す、あるいは生死去来をへだてて礼拝す、あるいは菩提涅槃をへだてて礼拝す。

弟子小師、しかのごとく種々の拝をいたすといへども、本師和尚は答拝せず。ただ合掌するのみなり。おのづから奇拝をもちゐることあれども、おぼろげの儀にはもちゐず。かくの如くの礼拝のとき、かならず北面礼拝するなり。本師和尚は南面して端坐せり。弟子は本師和尚の面前に立地して、おもてを北にして、本師にむかひて本師を拝するなり。これ本儀なり。みづから帰依の正信おこれば、かならず北面の礼拝、そのはじめにおこなはると正伝せり。

このゆゑに、世尊の在日に、帰仏の人衆天衆龍衆、ともに北面にして世尊を恭敬礼拝したてまつる。最初には、
阿若憍陳如[亦名拘隣]阿湿卑[亦名阿陛]摩訶摩南[亦名摩訶拘利]波提[亦名跋提]婆敷[亦名十力迦葉]

この五人のともがら、如来成道ののち、おぼえずして起立し、如来にむかひたてまつりて、北面の礼拝を供養したてまつる。外道魔党、すでに邪を捨てて帰仏するときは、必定して自搆他搆せざれども、北面礼拝するなり。

それよりこのかた、西天二十八代、東土の諸代の祖師の会にきたりて正法に帰する、みなおのづから北面の礼拝するなり。これ正法の肯然なり、師弟の搆意にあらず。これすなはち大陀羅尼なり。有大陀羅尼、名為円覚。有大陀羅尼、名為人事。有大陀羅尼、現成礼拝なり。有大陀羅尼、其名袈裟なり。有大陀羅尼、是名正法眼蔵なり。

これを誦呪して尽大地を鎭護しきたる、尽方界を鎭成しきたる、尽時界を鎭現しきたる、尽仏界を鎭作しきたる、庵中庵外を鎭通しきたる。大陀羅尼かくのごとくなると参学究弁すべきなり。一切の陀羅尼は、この陀羅尼を字母とせり。この陀羅尼の眷属として、一切の陀羅尼は現成せり。一切の仏祖、かならずこの陀羅尼門より、発心弁道、成道転法輪あるなり。

しかあれば、すでに仏祖の児孫なり、この陀羅尼を審細に参究すべきなり。おほよそ為釈迦牟尼仏衣之所覆は、為十方一切仏祖衣之所覆なり。為釈迦牟尼仏衣之所覆は、為袈裟之所覆なり。袈裟は標幟の仏衆なり。この弁肯、難値難遇なり。

まれに辺地の人身をうけて、愚蒙なりといへども、宿殖陀羅尼の善根力現成して、釈迦牟尼仏の法にむまれあふ。たとひ百草のほとりに自成他成の諸仏祖を礼拝すとも、これ釈迦牟尼仏の成道なり。釈迦牟尼仏弁道功夫なり。陀羅尼神変なり。たとひ無量億千に古仏今仏を礼拝する、これ釈迦牟尼仏衣之所覆時節なり。ひとたび袈裟を身体におほふは、すでにこれ得釈迦牟尼仏之身肉手足、頭目髓脳、光明転法輪なり。かくのごとくして袈裟を著するなり。これは現成著袈裟功徳なり。これを保任し、これを好楽して、ときと共に守護し搭著して、礼拝供養釈迦牟尼仏したてまつるなり。このなかにいく三阿僧祇の修行をも弁肯究尽するなり。

釈迦牟尼仏を礼拝したてまつり、供養したてまつるといふは、あるいは伝法の本師を礼拝し供養し、剃髪の本師を礼拝し供養するなり。これすなはち見釈迦牟尼仏なり。以法供養釈迦牟尼仏なり。陀羅尼をもて釈迦牟尼仏を供養したてまつるなり。

先師天童古仏しめすにいはく、あるいは雪のうへにきたりて礼拝し、あるいは糠のなかにありて礼拝する、勝躅なり、先蹤なり、大陀羅尼なり。

正法眼蔵陀羅尼第四十九

爾時寛元癸卯在越宇吉峰精舎示衆

※このページは学問的な正確性を追求するものではありません。より分かりやすくする為に漢字をひらがなに、旧字体を新字体に、( )にふりがなをつけるなど、原文に忠実ではありません。

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