【仏教用語/人物集 索引】

「正法眼蔵」諸法実相(しょほうじっそう)

投稿日:1243年9月1日 更新日:

仏祖の現成は究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり、如是性なり。如是身なり、如是心なり。如是世界なり、如是雲雨なり。如是行住坐臥なり、如是憂喜動静なり。如是挂杖払子なり、如是拈花破顔なり。如是嗣法授記なり。如是参学弁道なり。如是松操竹節なり。

釈迦牟尼仏言、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相。いわゆる諸法、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因縁、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等。

いはゆる如来道の本末究竟等は、諸法実相の自道取なり。闍梨自道取なり。一等の参学なり、参学は一等なるがゆゑに、唯仏与仏は諸法実相なり。諸法実相は唯仏与仏なり。唯仏は実相なり、与仏は諸法なり。

諸法の道を聞取して、一と参じ、多と参ずべからず。実相の道を聞取して、虚にあらずと学し、性にあらずと学すべからず。実は唯仏なり、相は与仏なり。乃能は唯仏なり、究尽は与仏なり。諸法は唯仏なり、実相は与仏なり。諸法のまさに諸法なるを唯仏と称ず。諸法のいまし実相なるを与仏と称ず。

しかあれば、諸法のみづから諸法なる、如是相あり、如是性あり。実相のまさしく実相なる、如是相あり、如是性あり。唯仏与仏と出現於世するは、諸法実相の説取なり、行取なり、証取なり。その説取は、乃能究尽なり。究尽なりといへども、乃能なるべし。初中後にあらざるゆゑに、如是相なり、如是性なり。このゆゑに初中後善といふ。

乃能究尽といふは諸法実相なり。諸法実相は如是相なり。如是相は乃能究尽如是性なり。如是性は乃能究尽如是体なり。如是体は乃能究尽如是力なり。如是力は乃能究尽如是作なり。如是作は乃能究尽如是因なり。如是因は乃能究尽如是縁なり。如是縁は乃能究尽如是果なり。如是果は乃能究尽如是報なり。如是報は乃能究尽本末究竟等なり。

本末究竟等の道取、まさに現成の如是なり。かるがゆゑに、果果の果は因果の果にあらず。このゆゑに、因果の果はすなはち果々の果なるべし。この果すなはち相性体力をあひ罜礙するがゆゑに、諸法の相性体力等、いく無量無辺も実相なり。この果すなはち相性体力を罣礙せざるがゆゑに、諸法の相性体力等、ともに実相なり。

この相性体力等を、果報因縁等のあひ罜礙するに一任するとき、八九成の道あり。この相性体力等を、果報因縁等のあひ罣礙せざるに一任するとき、十成の道あり。

いはゆるの如是相は一相にあらず。如是相は一如是にあらず。無量無辺、不可道不可測の如是なり。百千の量を量とすべからず、諸法の量を量とすべし、実相の量を量とすべし。そのゆゑは、唯仏与仏乃能究尽諸法実相なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実性なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実体なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実力なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実作なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実因なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実縁なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実果なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実報なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実本末究竟等なり。

かくのごとくの道理あるがゆゑに、十方仏土は唯仏与仏のみなり、さらに一箇半箇の唯仏与仏にあらざるなし。唯と与とは、たとへば体に体を具し、相の相を証せるなり。また性を体として性を存せるがごとし。このゆゑにいはく、
我及十方諸仏、乃能知是事。

しかあれば、乃能究尽の正当恁麼時と、乃能知是の正当恁麼時と、おなじくこれ面々の有時なり。我もし十方仏に同異せば、いかでか及十方仏の道取を現成せしめん。這頭に十方なきがゆゑに、十方は這頭なり。ここをもて、実相の諸法に相見すといふは、春は花にいり、人ははるにあふ。月はつきをてらし、人はおのれにあふ。あるいは人の水をみる、おなじくこれ相見底の道理なり。

このゆゑに、実相の実相に参学するを仏祖の仏祖に嗣法するとす。これ諸法の諸法に授記するなり。唯仏の唯仏のために伝法し、与仏の与仏のために嗣法するなり。
このゆゑに生死去来あり。このゆゑに発心修行菩提涅槃あり。発心修行菩提涅槃を挙して、生死去来真実人体を参究し接取するに、把定し放行す。これを命脈として花開結果す。これを骨髓として迦葉阿難あり。

風雨水火の如是相すなはち究尽なり。青黄赤白の如是性すなはち究尽なり。この体力によりて転凡入聖す、この果報によりて超仏越祖す。この因縁によりて、握土成金あり、この果報によりて伝法附衣あり。

如来道、為説実相印。
いはゆるをいふべし、為行実相印。為聴実性印。為証実体印。かくのごとく参究し、かくのごとく究尽すべきなり。その宗旨、たとへば珠の盤をはしるがごとく、盤の珠をはしるがごとし。

日月燈明仏言、諸法実相義、已為汝等説(已に汝等が為に説けり)。
この道取を参学して、仏祖はかならず説実相義を一大事とせりと参究すべし。仏祖は十八界ともに実相義を開説す。身心先、身心後、正当身心時、説実相性体力等なり。実相を究尽せず、実相をとかず、実相を会せず、実相を不会せざらんは、仏祖にあらざるなり。魔党畜生なり。

釈迦牟尼仏道、一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提、皆属此経。此経開方便門、示真実相(一切菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は、皆此の経に属す。此の経は方便門を開き、真実相を示す)。

いはゆる一切菩薩は一切諸仏なり。諸仏と菩薩と異類にあらず。老少なし、勝劣なし。此菩薩と彼菩薩と、二人にあらず、自他にあらず。過現当来箇にあらざれども、作仏は行菩薩道の法儀なり。初発心に成仏し、妙覚地に成仏す。無量百千万億度作仏せる菩薩あり。作仏よりのちは、行を廃してさらに所作あるべからずといふは、いまだ仏祖の道をしらざる凡夫なり。

いはゆる一切菩薩は一切菩薩の本祖なり。一切諸仏は一切菩薩の本師なり。この諸仏の無上菩提、たとひ過去に修証するも、現在に修証するも、未来に修証するも、身先に修証するも、心後に修証するも、初中後ともにこの経なり。能属所属、おなじくこの経なり。この正当恁麼時、これ此経の一切菩薩を証するなり。

経は有情にあらず、経は無情にあらず。経は有為にあらず、経は無為にあらず。しかあれども、菩提を証し、人を証し、実相を証し、此経を証するとき、開方便門するなり。方便門は仏果の無上功徳なり。法住法位なり、世相常住なり。方便門は暫時の伎倆にあらず、尽十方界の参学なり。諸法実相を拈じ参学するなり。この方便門あらはれて、尽十方界に蓋十方界すといへども、一切菩薩にあらざればその境界にあらず。

雪峰いはく、尽大地是解脱門、曳人不肯入(尽大地は是れ解脱門なり、人を曳けども肯て入らず)。

しかあればしるべし、尽地尽界たとひ門なりとも、出入たやすかるべきにあらず。出入箇のおほきにあらず。曳入するにいらず、いでず。不曳にいらず、いでず。進歩のもの、あやまりぬべし。退歩のもの、とどこほりぬべし。又且いかん。人を挙して門に出入せしむれば、いよいよ門ととほざかる。門を挙して人にいるるには、出入の分あり。

開方便門といふは、示真実相なり。示真実相は蓋時にして、初中後際断なり。その開方便門の正当開の道理は、尽十方界に開方便門するなり。この正当時、まさしく尽十方界を覷見すれば、未曽見の様子あり。いはゆる尽十方界を一枚二枚、三箇四箇拈来して、開方便門ならしむるなり。これによりて、一等に開方便門とみゆといへども、如許多の尽十方界は、開方便門の少許を得分して、現成の面目とせりとみゆるなり。かくのごとくの風流、しかしながら属経のちからなり。

示真実相といふは、諸法実相の言句を尽界に風聞するなり、尽界に成道するなり。実相諸法の道理を尽人に領覽せしむるなり、尽法に現出せしむるなり。

しかあればすなはち、四十仏四十祖の無上菩提、みな此経に属せり。属此経なり、此経属なり。蒲団禅板の阿耨菩提なる、みな此に属せり。拈花破顔、礼拝得髓、ともに皆属此経なり、此経之属なり。開方便門、示真実相なり。

しかあるを、近来大宋国杜撰のともがら、落処を知らず、宝所をみず。実相の言を虚説のごとくし、さらに老子莊子の言句を挙す。これをもて、仏祖の大道に一斉なりといふ。また三教は一致なるべしといふ。あるいは三教は鼎の三脚のごとし、ひとつもなければくつがへるべしといふ。愚癡のはなはだしき、たとへをとるに物あらず。

かくのごときの言葉あるともがらも仏法をきけりと、ゆるすべからず。ゆゑいかんとなれば、仏法は西天を本とせり。在世八十年、説法五十年、さかりに人天を化す。化一切衆生、皆令入仏道なり。それよりこのかた、二十八祖正伝せり。これをさかりなるとし、微妙最尊なるとせり。

諸々の外道天魔、ことごとく降伏せられをはりぬ。成仏作仏する人天、かずを知らず。しかあれども、いまだ儒教道教を震旦国にとぶらはざれば、仏道の不足といはず。もし決定して三教一致ならば、仏法出現せんとき、西天に儒宗道教等も同時に出現すべし。

しかあれども、仏法は天上天下唯我独尊なり。かのときの事、おもひやるべし、わすれあやまるべからず。三教一致の言葉、小児子の言音におよばず、壊仏法のともがらなり。かくのごとくのともがらのみおほきなり。あるいは人天の導師なるよしを現じ、あるいは帝王の師匠となれり。大宋仏法衰薄の時節なり。先師古仏、ふかくこのことをいましめき。

かくのごときのともがら、二乗外道の種子なり。しかのごときの種類は、実相のあるべしとだにも知らずして、すでに二三百年をへたり。仏祖の正法を参学しては、流転生死を出離すべしとのみいふ。あるいは仏祖の正法を参学するは、いかなるべし、ともしらざるおほし。ただ住院の稽古と思へり。あはれむべし、祖師道廃せることを。有道の尊宿、おほきになげくところなり。しかのごときのともがら所出の言句、きくべからず、あはれむべし。

圜悟禅師いはく、生死去来、真実人体。
この道取を拈挙して、みづからをしり仏法を商量すべし。
長沙いはく、尽十方界、真実人体。尽十方界、自己光明裏。
かくのごとくの道取、いまの大宋国の諸方長老等、およそ参学すべき道理となほ知らず、いはんや参学せんや。もし挙しきたりしかば、ただ赤面無言するのみなり。

先師古仏いはく、いま諸方長老は、照古なし、照今なし。仏法道理不曽有なり。尽十方界等恁麼挙、那得知。他那裏也未曽聴相似。
これをききてのち、諸方長老に問著するに、真箇聴来せるすくなし。あはれむべし、虚脱にして職をけがせることを。

応庵曇華禅師、ちなみに徳徽大徳にしめしていはく、若要易会、祗向十二時中起心動念処、但即此動念、直下頓豁了不可得如大虚空、亦無虚空形段、表裏一如智境雙泯、玄解倶亡、三際平等。到此田地、謂之絶学無為閑道人也(若し会し易からんことを要せば、十二時中の起心動念の処に祗向して、但だこの動念に即して、直下頓に不可得なること大虚空の如く、亦虚空に形段無きことを豁了せば、表裏一如にして智境雙泯、玄解倶に亡じ、三際平等ならん。この田地に到る、之を絶学無為の閑道人と謂ふ)。

これは応庵老人尽力道得底句なり。これただ影をおうて休歇をしらざるがごとし。表裏一如ならんときは、仏法あるべからざるか。なにかこれ表裏。また虚空有形段を仏祖の道取とす。なにをか虚空とする。おもひやるに、応庵いまだ虚空をしらざるなり、虚空をみざるなり。虚空をとらざるなり、虚空をうたざるなり。

起心動念といふ、心はいまだ動ぜざる道理あり。いかでか十二時中に起心あらん。十二時中には、心きたりいるべからず。十二心中に十二時きたらず、いはんや起心あらんや。動念とはいかん。念は動不動するか、動不動せざるか。作麼生なるか動、また作麼生なるか不動。なにをよんでか念とする。念は十二時中にあるか、念裏に十二時あるか、両頭にあらざらんときあるべきか。

十二時中に祗向せば易会ならんといふ、なにごとを易会すべきぞ。易会といふ、もし仏祖の道をいふか。しかあらば、仏道は易会難会にあらざるゆゑに、南嶽江西ひさしく師にしたがひて弁道するなり。

頓豁了不可得といふ、仏祖道未夢見なり。恁麼の力量、いかでか要易会の所堪ならん。はかりしりぬ、仏祖の大道をいまだ参究しきたらずといふことを。仏法もしかくのごとくならば、いかでか今日にいたらん。

応庵なほかくのごとし。いま現在せる諸山の長老のなかに、応庵のごとくなるものを求めんに、歴にもあふべからず。まなこはうげなんとすとも、応庵とひとしき長老をばみるべからざるなり。ちかくの人はおほく応庵をゆるす。しかあれども、応庵に仏法およべりとゆるしがたし。ただ叢席の晩進なり、尋常なりといふべし。

ゆゑはいかん。応庵は人しりぬべき気力あるゆゑなり。いまあるともがらは人をしるべからず、みづからをしらざるゆゑに。応庵は未達なりといへども学道あり、いまの長老等は学道あらず。応庵はよき言葉をきくといへども、みみにいらず、みみにみず。まなこにいらず、まなこにきかざるのみなり。応庵そのかみは恁麼なりとも、いまは自悟在なるらん。

いまの大宋諸山の長老等は、応庵の内外をうかがはず、音容全て境界にあらざるなり。しかのごとくのともがら、仏祖の道取せる実相は、仏祖の道なり、仏祖の道にあらずともしるべからず。このゆゑに、二三百年来の長老杜撰のともがら、全て不見道来実相なり。

先師天童古仏、ある夜間に方丈にして普説するにいはく、
天童今夜有牛児、
黄面瞿曇拈実相。
要買那堪無定價、
一声杜宇孤雲上。
(天童今夜牛児有り、黄面の瞿曇実相を拈ず。買はんと要するに那ぞ定價無かるべき、一声の杜宇孤雲の上。)

かくのごとくあれば、尊宿の仏道に長ぜるは実相をいふ。仏法を知らず、仏道の参学なきは実相をいはざるなり。

この道取は、大宋宝慶二年丙戌春三月のころ、夜間やや四更になりなんとするに、上方に鼓声三下きこゆ。坐具をとり、搭袈裟して、雲堂の前門よりいづれば、入室牌かかれり。まづ衆に従うて法堂上にいたる。法堂の西壁をへて、寂光堂の西階をのぼる。寂光堂の西壁のまへをすぎて、大光明蔵の西階をのぼる。大光明蔵は方丈なり。西屏風のみなみより、香台のほとりにいたりて焼香礼拝す。

入室このところに雁列すべしとおもふに、一僧もみえず。妙高台は下簾せり、ほのかに堂頭大和尚の法音きこゆ。時に西川の祖坤維那、きたりておなじく焼香礼拝しをはりて、妙高台をひそかにのぞめば、満衆たちかさなり、東辺西辺をいはず。時に普説あり、ひそかに衆のうしろにいりたちて聴取す。

大梅の法常禅師住山の因縁挙せらる。衣荷食松のところに、衆家おほくなみだをながす。霊山釈迦牟尼仏の安居の因縁、くはしく挙せらる。きくものなみだをながすおほし。

天童山安居ちかきにあり、如今春間、不寒不熱、好坐禅時節也。兄弟如何不坐禅(如今春間、不寒不熱、好坐禅の時節なり。兄弟如何ぞ坐禅せざる)。
かくのごとく普説して、いまの頌あり。頌をはりて、右手にて禅椅のみぎのほとりをうつこと一下していはく、入室すべし。

入室話にいはく、杜鵑啼、山竹裂。
かくのごとく入室語あり、別の話なし。衆家おほしといへども下語せず、ただ惶恐せるのみなり。

この入室の儀は、諸方にいまだあらず。ただ先師天童古仏のみこの儀を儀せり。普説の時節は、椅子屏風を周匝して、大衆雲立せり。そのままにて、雲立しながら、便宜の僧家より入室すれば、入室をはりぬる人は、例のごとく方丈門をいでぬ。のこれる人は、ただもとのごとくたてれば、入室する人の威儀進止、ならびに堂頭和尚の容儀、および入室話、ともにみな見聞するなり。この儀いまだ他那裏の諸方にあらず。他長老は儀不得なるべし。他時の入室には、人よりはさきに入室せんとす。この入室には、人よりものちに入室せんとす。この人心道別、わすれざるべし。

それよりこのかた、日本寛元元年癸卯にいたるに、始終一十八年、すみやかに風光のなかにすぎぬ。天童よりこのやまにいたるに、いくそばくの山水とおぼえざれども、美言奇句の実相なる、身心骨髓に銘じきたれり。かのときの普説入室は、衆家おほくわすれがたしとおもえり。この夜は、微月わづかに樓閣よりもりきたり、杜鵑しきりになくといへども、静間の夜なりき。

玄沙院宗一大師、参次聞燕根声云(参次に燕子の声を聞くに云く)、深談実相、善説法要。下座。
尋後有僧請益曰(尋いで後に、僧有り請益して曰く)、某甲不会。
師云、去、無人信汝(去れ、人の汝を信ずること無し)。

いはゆる深談実相といふは、燕子ひとり実相を深談すると、玄沙の道ききぬべし。しかあれども、しかにはあらざるなり。参次に聞燕子声あり。燕子の実相を深談するにあらず、玄沙の実相を深談するにあらず。両頭にわたらざれども、正当恁麼、すなはち深談実相なり。

しばらくこの一段の因縁を参究すべし。参次あり、聞燕子声あり、深談実相、善説法要の道取あり、下座あり。尋後有僧請益曰、某甲不会あり。師云、去、無人信汝あり。

某甲不会、かならずしも請益実相なるべからざれども、これ仏祖の命脈なり、正法眼蔵の骨髓なり。

しるべし、この僧たとひ請益して某甲会得と道取すとも、某甲説得と道取すとも、玄沙はかならず去、無人信汝と為道すべきなり。会せるを不会と請益するゆゑに、去、無人信汝といふのにはあらざるなり。まことに、この僧にあらざらん張三李四なりとも、諸法実相なりとも、仏祖の命脈の正直に通ずる時処には、実相の参学、かくのごとく現成するなり。青原の会下に、これすでに現成せり。

しるべし、実相は嫡々相承の正脈なり。諸法は究尽参究の唯仏与仏なり、唯仏与仏は如是相好なり。

正法眼蔵第四十三

爾時寛元元年癸卯九月日在于日本越州吉峰寺示衆

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